咆哮

 範子は壁穴から扉の大広間に足を踏み入れ、ユーズーに向かって跪礼した。


「ごきげんよう。ユーズー。こちらではご無沙汰いたしております」

「この……疫病神がぁ」


 ユーズーがぐるりと首を回して範子を見据えた。


「いますぐぶっ殺してやるから。アタシの、チャッカが」

「変わらずはっきりしていらっしゃって。私、安心いたしましたわ?」

「イキってんじゃねぇわよ? はぐれ魔女の分際でぇ……」

「まぁ。自分で戦えないたかり屋ムーチャーが何を仰っても、惨めになるだけでしてよ?」


 そう言って、範子は侮蔑の意を込め顎をしゃくった。


「その靴を脱ぎ捨てるなら、家から蹴り出すくらいで許してあげてもよくってよ?」


 ユーズーの顔が真っ赤に染まっていく。まるで地団駄を踏むかのように、ピンヒールを石床に突き刺した。


「チャッカァァァァ!」


 ユーズーは人差し指をまっすぐ伸ばし、範子を指さした。


「あの、クソゴス女をぶっ殺せぇぇぇぇぇぇ!!」


 真央の瞳が輝く。神速で靴音による詠唱を開始する。即座に空間が割り開かれた。

 腐臭漂う戦鎚が床を舐めるように走った。装飾する鈍色の頭蓋が怨嗟の音色を奏でる。

 範子は瞬時に飛翔し、左方から迫る戦鎚を目で追った。回避可能。ただし二十メートルの空白は一足では埋められない。上昇する。


 足元を過ぎ去る戦鎚を踏みつけて加速し、空中で躰を旋回させて、範子の靴が風を切り裂く。

 狙うは雷霆の召喚――右から気配!

 旋回を中断した範子は、自らに迫る怨嗟の声に両足を伸ばした。高速で振り抜かれる鎚の打面を靴で受け止める。飛翔の力を利用し、押し流されるに身を任せた。


 戦鎚が範子の躰ごと大広間を横断していく。

 範子は壁に激突する寸前に跳ね飛び脱出した。

 真央の作り出した戦鎚が壁を破砕し、石片の雨が降る。

 範子は地に降り立つとき、足元に陣を敷設していた。しかし発動は見送る。すでに新たな攻撃――横倒しにした金属の杭が迫っていた。


 音を置き去りにする破城鎚の突進を、範子は足を前後に大きく開き、屈んで躱した。下げた頭の上を巨木の幹ほどもある金属杭が掠めて抜けていく。

 範子は躰を倒して足を振り、反動を使って立ちあがった。

 その瞬間を狙いすましたかのように、魔女の蹴りが飛んできていた。


 ――早すぎる!


 受けるか、躱すか。一瞬での判断を求められた範子は、止む無く回避中に描いた陣の一部を使った。衝突を遅らせるため後方宙返りをしつつ、自身もまた蹴りを放つ。

 爆音が広間の大気を震わせた。

 床すれすれに拓かれた垣根から、巨大な靴先が飛び出て、真央の術を蹴り上げた。


 ふたつの魔女の力は同時に破裂し、暴風を残して霧散する。

 風は死を予感させる腐臭を乗せて範子の髪を撫でた。

 一瞬で過ぎ去った攻防の最中、

 範子は戦慄していた。

 一発でももらえば、死ぬかもしれない。


 血の気の引いた頬を汗が伝う。戦鬼も同然となった真央の魔術は、その全てが一撃必殺である。しかも、範子の術より半手早い。実際に対峙する前までは、攻撃回避中に陣を並べ、強大な一撃で終わらせようと考えていた。

 しかし現実には、回避に術の再解釈を強いられている。


「甘く見ていましたわ」


 範子は自嘲気味に呟いた。回避には、罠を消費するしかない。構築した音圧の陣は破棄して、豪雨のごとく降り注ぐ異形の矢を躱す。五十条を優に超える矢が範子の服を掠めて床に刺さる。そばから爆散。燃え上がる氷を放った。

 真央の靴音が鳴っている。飛び散る氷の火の粉がまた爆散した。


 範子は無数の殺意に対抗し、盾とするべく蝙蝠の翼を生みだした。肌が焼けるような熱と、突き刺すような冷気が同時に範子を襲う。

 一手進むごとに真央の力は増していく。それに伴い姿は人から離れゆく。今は肌が硬質化しはじめている。またその背後で嗤うユーズーの姿が腹立たしい。

 だからといって蹴り殺しても、真央にかけられた術が解けるかは分からない。


 折れるな、龍鳴範子。


 自らに言い聞かせ、範子は速やかに戦術を切り替えた。詠唱を短く簡略化する。合わせて強大な術を扱うために、一歩一歩のすべてに余分を作っていく。

 範子の脳裏に真央の泣き顔が過った。

 青白い光の下で、真央は泣き笑いしていた。謝罪を受け入れてくれた証であり、また彼女が自分に課していた重荷を下ろせたゆえの笑顔だ。それを見るには、


 絶対にこっちに連れ戻す!


 範子は飛翔を止め、地を這うように駆け出した。もはや空中にいては追いつかない。巧がつま先に埋め込んだ鋲を使って、次々と床に彫り込んでいく。

 真央の矢継ぎ早の攻撃を見極め躱し、時に術を開放し、新たに陣を刻む。繰り返す度に脳が消耗していく。視界は霞み、正常な判断すら難しくなっていく。いつしか範子の躰は意志を越え、ほとんど本能で動いていた。


 そして。


 その時は、唐突に訪れた。


「チャッカァァァァ! 戦槌をぶちこめやぁぁぁぁ!」


 高みの見物を決め込んでいたユーズーが、怒号と共に命令を出したのだ。

 しかしその令は、範子にとって最良のタイミングでもあった。加速し続ける真央の連撃を前に、術構築が滞り始めていたのである。


 すでに躰の限界も近い。動ける程度に回復した傷は再び開いて血を流し始めている。息を使い果たした躰を獣の意志で奮い立たせて、走り続けていた。酸素が足りなくなった脳は複雑な操作を指定できなくなり、描いた陣の修正もままならなかった。

 それが、ユーズーの間抜けな命令のおかげで、一拍の間が生まれたのだ。


 範子はその一瞬を逃さずに、詠唱を踏み始めた。

 命令に忠実に従う真央もまた、長大な詠唱を始めている。予想される術はひとつしかない。かつて、それしか出来ないのだと笑っていたが、それも貫けば最強の一撃となる。


 問題は、打面による殴打か、逆面につけられた丸鋸による斬撃か。

 範子は切り裂かれた尾白鷲を思い返して斬撃と読んだ。

 二人の詠唱が終る――。

 『扉の大広間』中に張り巡らせた罠としての魔法陣が、一斉に輝きだした。

 しかし。


「外れた」と、範子は顔を歪めた。


 真央が選択したのは、打撃であった。それも教会を叩き潰したような一撃ではない。まるで範子の真似をしたかのような、敷いた陣を残しての戦鎚による殴打だ。

 範子が足を振り始めた頃には、戦鎚はすでに数センチのところまで接近していた。


 爆音は一瞬だけ鳴り、耳鳴り以外の音が無くなった。


 それは打音だったのだろうか。それとも躰が吹き飛んだ音だったのだろうか。

 痛みはなかった。打たれた左半身から感覚が消えていた。躰半分はめりこんだのではないかという衝撃と、重力に従いぶつかった床の固さは理解した。

 

 最後のステップ直前に鎚による直撃を受け、範子の術は中途な発動となっていた。

 靴が象徴する『翼の生えた熊』は、たしかに召喚できていた。しかし食いついた先は、真央の蹴り足に遅れて振り回された三つ編みだった。

 食いちぎられた髪の毛は握りしめていた金剛杵と一緒にすっ飛び、白銀の書見台をへし折った。それと同時に、ただの髪の毛へと戻った。


 範子は真っ赤に染まった視界の中で、真央の蹴り足が振り抜く直前で止まっているのを見た。少しだけ上げられていた踵が、すとん、と落ちる。その一点を中心とした陣が、燃え上がる氷を噴き出し始めた。


 ああ、またか。また、見逃していたのか。


 範子は躰が重くなるのを感じた。もう意識を手放してしまえと、躰が言っている。


『俺はそんなん嫌だよ』


 と、巧が言った気がした。

 躰の感覚が失われ、靴の感覚だけが鮮明になっていく。


『絶対に戻ってきて、靴の感想を――』


 今度は巧の声が、はっきりと聞こえた。

 そんなに無茶をいわないで。

 範子は、自らに迫る丸鋸を眺めた。直撃すれば死が待っている。なら無視していいではないか。視線は下へと流れて真央を捉えた。


 助けられない。ごめんなさい。

 思いを重ねて視線が落ち、世界から色が消えていく。


 ――真央の履いている右の靴だけが、はっきりと黒く輝いていた。


 なぜ、そう見えるのか。分からない。

 しかし靴につけられている傷は、手に取るように分かった。

 そしてまた、龍鳴範子は、自らの起源に気付いた。

 

 巧は『翼の生えた熊』を思い出したと言っていた。

 しかし起源靴オリジナルを作りだす職人が、あの森村巧が、単純な連想だけで靴のモチーフを選ぶわけがない。


 範子は自身がそうしてもらったように、森村巧を信じた。

 息を深く吸い込み、吼える。

 遥か昔、肉体を自在に変化させたといわれる魔女と、同じ詠唱法だ。彼らが使った、言葉と、喉による詠唱である。現在では失われてしまった技術であり、再現できるか自信はない。しかも唱えたのは、中途に使った魔術の修正ではなかった。


 人知を超えた音が範子の喉から流れ出す。

 音圧が床に刻まれたすべての陣を開放する。

 真央の全てを切り刻まんとする丸鋸が、その動きを止めた。


 範子は、強く、強く床を蹴っていた。術式は自らの靴に従うのみ。

 打ち下ろすような蹴りに同期し、真央との空白を埋め、翼の生えた熊が姿を現す。

 平行に並んだ五本の爪が、悪魔と化した真央の躰を切り裂く――が、


 真央の靴に仕込まれた護符タリスマンが、先に砕けた。

 教会で決闘をしたあの夜に、範子が右の靴に仕込んだ護符だ。与えられたすべての痛みが右の靴へと流し込まれていく。

 真央の血脈に連なる起源靴が細切れになっていく。


 魔女の靴を失った真央の瞳が、不可視の垣根を視認した。

 膝をついた真央は、人の形を取り戻していた。

 虚ろな目は緋色の光跡を消し、代わりに、黒檀のような瞳が潤みはじめていた。

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