龍の帰還
扉が閉ざされる音を背中で聞いて、範子は両手で頬を打った。
乾いた音が暗い廊下の奥まで響いた。足元に感じる温かさに意識を集中する。廊下を進み、上野駅につなげた扉を開ける。
魔女の家の外部座標まで、もう二枚。
範子は完全にクローズされた夜のガラス扉の前で踵を鳴らし、ロックを外した。
巧の作ってくれた靴が、頭の中にしまい込まれた知識の全てと世界をつなげてくれている。
「新月……ですのね。魔女の家路に相応しいですわ」
靴に語り掛ける。人が見ればバカなことをと言うかもしれない。
範子は、知ったことかと踵を打ちあわせ、不可視の垣根を飛び越えた。
世界が剥がれ上がっていく。彼岸の世界の空では、新月が浮かんでいた。魔女として生きない限り、人の理を外れなければ見れない月は、範子の瞳と同じ紫色をしていた。
不可視の垣根を越えた正常の見当たらない世界に、魔女の家は建っていた。
小さな家が、水面が返す光のように揺らめいてる。正しく異常な世界に佇んでいるのは、青い屋根の一軒家である。傍目には内に広大な空間を有するとは思い難い。
範子は緩やかに歩を進めつつ、初めて外観を見る懐かしき我が家に、目を細めた。
「巧さまのおかげで、ようやくここまで戻ってこれましたわ」
靴を通して守ってくれる巧に、語りかける。彼は、勇気をだして名前で呼んでいたことに、気づいてくれただろうか。
いまも苦しんでいるであろう親友、真央に思いを馳せる。逞しく、明確な起源を持ち、それゆえに苦しんでいた友だ。
元を辿れば、範子が抱えていたのも嫉妬だったのかもしれない。どれだけ手を伸ばしても手に入らない魔女の靴を、戦闘しか能のない、しかし臆病な親友は、時が来れば受け継ぐことができる。その事実を認めたくなかったのかもしれない。
だが、自分だけの靴を求めたからこそ、ユーズーの罪にも気付くことができた。
もしあのとき、真央が扉を開けていれば、こんな遠回りはしないですんだのだろうか。あるいは、二人ともあの男の術中に落ちていたのだろうか。
真央の祖母は、まだ生きていられたのだろうか。
範子は首を左右に振って、後悔を捨てた。
今宵、すべてを終わらせるのだ。
「ユーズー。真央だけは取り返させていただきますわ」
範子の瞳が妖しく輝く。魔女の家の正面扉、傍目には民家の扉にしか見えない小さな木の押し扉の前で、踵を強く打ち鳴らす。足元に浮かぶは円環。魔女の蹴りだ。
「さて、龍鳴範子――ただいま戻りましてよ?」
破壊の音が鳴り響く。踏み込みと同時に感じる殺気。灯りを落とされ闇に沈んでいても分かる。ユーズーの靴で支配された魔女が、混じっているのだ。
正面に三、左手に一、右手に四人だ。
一斉に踏み鳴らされる靴の音は、禁制靴と呼ぶにも値しない粗悪品である。
範子は薄く笑って、つま先を滑らせた。歩くときには靴底を大地に吸いつかせる白色の鋲が、陣を描くときには水膜の張る大理石のように滑らかに靴先を流す。
全方向から飛んできた攻撃のすべてが範子の盾に受け止められた。翼だ。蝙蝠の翼に似ている。靴を編み上げるリボンと同じように、外面は闇に溶け込むほど黒く、内面は血のように明るい緋色の翼である。
「死にたくなければ、眠っていなさい」
呟いた範子は、踵を床に滑らせた。横に倒した半楕円で壁を張り、一度のステップで同じ地平のいずこかから力を引き寄せる。つま先の鋲を通じて力が具現化する。
巨大な熊の爪が、平行に並んだ五本の爪が、範子の蹴り足と同期し横に振られた。
肉を切り裂き骨を砕く音がして、湿った悲鳴が後に続いた。
八人が同時に膝を折る。血の匂いが充満する。範子は鉄錆臭さに顔をしかめた。
「熊さん……か。まったく、巧さまは……」
翼の生えた熊を、憶えていてくれたとは。
さすがは本物の魔女の靴職人を起源にもつ人だと思う。
「せっかくだから、真央にぬいぐるみを返してもらわないと」
魔女の家に来るより前の思い出だ。孤児院に贈られた玩具の中で、一際人気のなかったぬいぐるみが、翼のついた熊だった。とてもつぶらな瞳をしていて、なんだか可哀そうに思って、魔女の家まで連れてきたのだった。
頬を緩めた範子は、いつぞや制御に苦労した飛翔術を使うことにした。
せっかく翼があるなら羽ばたいてみたい。
靴同士を打ち合わせると、ふわりと躰が浮いた。靴紐代わりのリボンが、小さなかわいらしい蝙蝠の翼を形成している。
「まずは靴工房の周辺、か」
魔女の家で靴音がする。つまり魔女の家内部の扉が、閉ざされているのだ。耳をそばだてれば戦闘の音も聞こえる。スータリが何か騒動を起こしたのかもしれない。もし真央が戦に駆り出されているのなら、残された時間はそう多くない。
急がなければと、範子は床を這うように低く飛び立った。暴風のような圧をものともせずに、真っすぐ工房を目指す。
高速で吹き飛んでいく風景に混じって、時おり魔女同士の争う姿があった。
しかし彼らの反応速度では範子を捉えきれない。それどころか、範子の生成した翼が風切り音を立て、滑空する猛禽の翼のように、触れる敵意を半ば自動的に切り裂いていく。
範子はその躰を一種の兵器と化して、敵を撃滅しながら靴工房へ殺到した。
ふいに響いた打音が、範子に危険を知らせた。ピタリと石床に静止する。音の方向には靴工房へと続く物理的な扉があるはずだ。
耳を澄ませて、範子は床を蹴りつけた。
かぁぁぁぁぁん、と木炭を叩いたような音が、廊下の先まで伸びていく。
返ってきた打音で判別する。十二人が一塊となり壁際に。扉の破壊を試みている。
範子は鼻を鳴らして、靴先で床を叩いた。
「蹴りつけようが、火で焼こうが、粗悪品の靴では扉は壊せませんのに」
闇に沈んだ通路の奥を見据え、走る。一歩一歩の全てで詠唱と術式を重ね長大な歩術とする。視界の先に点ほどの松明の光が入った。油の匂い。火をかけるつもりか。
範子は跳躍した。壁を、天井を蹴りつけ、十二人の中心へ飛び込んだ。十二人中十人の反応は遅く、残る二人は範子の気配に気づいていた。
しかし、まさか罠を張っていないとは思わなかった。魔女としての教育を受けていないからだろうが、積んできた術式の大半はその本義を失ってしまった。
範子は腹立ちまぎれに、靴と躰に積み込んできた魔術を展開した。
音が消える。術で自らの耳を塞いだのである。次の瞬間――、
無音の世界の中で、火が消え、粗悪品を履く魔女たちが放射状に吹っ飛ばされた。
天井が、壁が、床が鳴動している。魔女崩れは耳から血を流し、苦悶していた。
範子の耳に音が戻る。廊下の先まで、うゎんうゎん、と唸り続けていた。
範子が躰に積んだ術は、極限まで高めた音圧による罠破壊であった。それは知識があっても靴がなければ使えない術でもあった。
範子は蹲る魔女崩れたちを睥睨する。
「……靴を捨てるか、私に蹴り殺されるのか、どちらがよろしくて?」
自ら口にしておいて、すぐに口を噤んだ。力の感覚に引っ張られている。
耳を潰しているのだから、聞こえるはずがないではないか。
範子は焦げ跡の目立つ扉をノックした。
「まだ無事なようなら、開けてくださる?」
耳を澄ます。扉を隔てて懐かしい魔女の気配を感じるが、やはり警戒しているらしい。この三年間は敵同士だと教え込まれてきた間柄、無理もあるまい。
範子は細く息を吐きだした。
「サパタリア? 龍鳴範子ですわ。どういう状況にあるのかしら?」
しばし待つ。これで返答がないなら、うめき続ける魔女崩れから聞くしかない。必要とあらば暴力も辞さないつもりでいるが、できれば血で靴を汚したくはない――。
ゴン、と扉が内側から叩かれた。範子はほっと息をつき、魔女崩れから離れた。
「サパタリア? 聞こえていまして? こちら側は片付けましてよ」
「……ほんとにドラ子かい!? スータリは? というか、本当に本物かい?」
「こちらにはいませんわ。貴女が閉じこもるなんて、らしくなくてよ?」
「閉じこもりたくて閉じこもってんじゃないよ。起源靴を守らないといけないだろ」
藪蛇だった、と範子は苦笑した。サパタリアの口の悪さは昔と変わっておらず、それがどこか懐かしい。ただ感傷に浸っている余裕はなさそうだった。
「スータリが扉を閉じた? どうなっていますの? 話が見えてきませんわ?」
「カヴンの連中と、真央のことを問い詰めるべきだって話になったんだ。それでスータリの奴に全部聞いたのさ。ほんとならアンタのことを待つべきだったんだろうけど、アタシらが靴を履き替えたのにユーズーの奴が気づいたんだ!」
やはりスータリか。
しかし気づかれるとは、よほど焦っていたのだろう。
「それでよく無事でいられましたわね」
「腹立つけどスータリのおかげだね。密かに模造靴を作りためておいてくれたのさ。ただ封印棺に入ってる起源の靴はどれも使えないからね。このままじゃどうしようもなくなるってんで、スータリが先に扉を押えに行った」
どうやら一足先に魔女の家に戻ったスータリは、ユーズーを倒すための準備をしようとしていたらしい。姿が見えないのは、扉を押えているからなのかもしれない。
だとすれば、いる場所はひとつしか思いつかない。
「全てを繋げる場所――扉の大広間ですのね?」
「多分、まだそうだと思う。こっちには受信者もいるんだけど、聞こえてくる限りじゃ誰も発信してないし、他の奴らと一緒にいるわけでもないらしい」
「では、ユーズー本人は――」
「チャッカと一緒さ! それは他の仲間から連絡があった。ただ、チャッカはもうだいぶ悪魔化が進んでるらしいし、下手に近づいたら模造靴での偽装なんて簡単にバレちまうだろうし……こっちも手詰まりさ」
扉の向こうの様子がありありと目に浮かぶ。サパタリアの姿形は三年前のものでしか想像できないが、親指の爪を噛む癖は変わっていなそうだ。
「頼む、ドラ子。チャッカを助けてやってよ! チャッカはもう不可視の垣根を見れなくなりかけてる。聞いてる限りの様子じゃ、扉の大広間は長くはもたないよ!」
そういうことかと範子は思った。
ユーズーの扱う魔法は、支配の術に違いない。サパタリアの情報から察するに、まず封印棺に術を仕込み、中に収めてある靴から順に管理下に置いていったのだ。しかし、靴の力が強いゆえにコンロールし続けるのもまた難しい。ましてユーズーの履く靴で支配できるのは、封印棺に収められていた靴だけだ。
そしてまた、たとえ支配下に置いたとしても、対象の魔女が靴から力を引きだしすぎれば、いずれ魔女と靴は同化してしまう。靴は足に、魔女から悪魔へ、そうなれば制御は難しい。
逆に言えば、真央の制御に手いっぱいになっている今が、最大のチャンスとなる。
「――サパタリア、貴女に怪我は?」
「アタシのことなんかどうでもいいっての! 早く行ってやってよ!」
サパタリアの悲痛な叫びに、範子は扉を軽く打った。
保護者が、そんなでどうする、と。
かつても範子が傍にいないとき、サパタリアが物陰から真央を見ていた。年が上だからか、真央の祖母に頼まれたのかは知らない。けれど姉のように慕われていた。
「真央をこちらに引き戻しても、貴女が生きていないのでは泣かれてしまいますわ」
「こんなときに何をっ……アタシは大丈夫だよ! まだ持たせてみせるさね!」
「えぇ、その意気ですわ。貴女は元気がありあまっているくらいがお似合いですわ」
一際強く、扉が蹴りつけられた。間髪いれず扉越しの怒声が続く。
「アンタねぇ! アタシのことからかってないで! さっさと助けに行けって!」
「行きますわ。けれど、もしものときのお願いをしておきたいの」
扉の向こう側が静かになった。サパタリアの怒りも分からないではない。しかし相手があの桜木真央で、それが悪魔になりかけているというのなら、絶対はない。
「もし私が失敗したら、逃げてくださいまし。森村さまと、他の魔女の家を守って」
「……そのお願い、アタシは聞きたくないからね」
聞こえてきた返答に、範子は諦めの息をついた。
「……いまなら、こちら側の敵は動けなくなっていますわ。縛り上げておくのをお薦めしましてよ」
それだけ伝え、範子は答えを待たずに再び飛んだ。
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