工房から巧房へ
「ここですわ。ここが私が革を手に入れた場所。魔女の皮鞣し工房ですの」
範子が自慢げに紹介するそれは、巨大かつサイケデリックな箱だった。極彩色の幾何学模様が蠢きつづける外観は、見ているだけで目が眩む。鈍色に塗られたアーチ状の扉がなければ、家とは気付かなかっただろう。
巧は強く瞑目した。手が引かれる。扉の開閉音はなく、躰の中を何かが通り抜けていく感覚だけがあった。
「もう目を開けても大丈夫でしてよ?」
そろそろと瞼を開いた巧は、思わず後ずさった。カウンターの内側にアレがいたのだ。
人に近い形をしているが違う。蜥蜴のような目玉が、人でいう口の辺りに三つ。毛髪なのか、人の手指にも似た何かが無数に生えている。八つ以上の関節をもつそれらは、一本一本が意思をもっているかのように、わしゃわしゃと波打っていた。
範子は平然と化け物を手で指し示して言った。
「こちら店主の、バ☆+)メ♯アさまですわ」
「――な、なんて?」
巧は頬を引きつらせた。『バ』と『メ』と『ア』の三音しか聞き取れない。それに、店長の名前などより先に、鼻を覆いたくなるほどキツい刺激的にすぎる薬品臭をなんとかしてもらいたかった。
「えぇと、そうですわね――『店長』とだけ覚えて頂ければ、よろしいかと」
範子の紫眼が、注意事項を思いだせ、と言っていた。つまり、口を開き始めた店長の声を耳で拾ってはいけないのだ。じっと目を離そうとしないのは、それに意識を向けさせるためなのだろう。
巧は、おどろおどろしい何かを聞かないように、範子の紫色の瞳を見つめ続けた。
もう大丈夫ですわ。
という範子の唇の動きを拾い、巧は店内を見回した。
店は古い木造の家といった風情だ。磨き抜かれた木床が飴色に輝いていた。過ごした月日を感じさせないカウンターや壁棚には、ロール状に丸められた様々な色のなめし革が置かれている。また、商品は皮革だけではないようで、表でもみたような結晶化した果実や、骨、樹木の塊などもあった。
「えっと、もう革を選んでいいの?」
「ええ、もちろんですわ。店長は、ただ皮を集めて鞣して並べる、それだけをして生きておられますのよ? 少なくとも魔女に対価を求めることはありませんの」
「ほ、ほんとうに? 悪魔とかって、契約の代償に魂を、とか言わない?」
「それは伝承のお話ですわ」
範子はちらりと店長を一瞥して、巧に耳打ちした。
「声を上げないように。よろしくて?」
言わんとすることが分からない。むしろ気になるのは間近を通り過ぎた範子の顔と、香水の匂いと、耳に吹きかけられる吐息の方だ。
巧は息を潜め、首を小さく縦に振った。再び範子の唇が耳に近づく。ぞわぞわしてくるような感覚に耐え、耳を澄ます。
「店長は、元・魔女ですの」
「元・魔女……なるほど……」
すでに人から離れゆく真央を見ていたからか、不思議と驚きはなかった。
ただ、少しだけ複雑な気分にもなった。胸の奥に疑念が浮かぶのだ。カウンターに座る化け物が元・魔女であるのなら、外にいる生き物たちは――。
「もしかしてだけど……ここにある革って」
範子は、そっと巧の口を押さえ、小さく頷いた。
やはりそうかと納得する。口を塞がれたのは巧が叫ぶと想定したからだろう。しかし、特段、驚くような話でもなかった。
範子は訝しげに眉を寄せ、巧の口から手を離す。
「驚きませんの? 私は、もっと驚かれるかと――」
「いや、まぁ……龍鳴さんなら知ってるかもしれないけど、人皮装丁の本ってそこまで珍しいものでもなかったって言うしね」
「え、と? 人の皮を使った道具は存じておりますけれど、その……」
「……こういうと誤解されそうだけど、中世の話だし、あるかなって――いや、さすがに人の形のままなら、俺だって気持ち悪いとは思うかもしれないけど」
巧は『店長』を覗き見て、小声で言った。
「あれを人だと思うのは俺には無理だし。なにより、人の皮も、骨も、時代によっては別の意味があるし、それを言ったら骨壺に骨を収めるのだって変な話になる。皮だと用途は全然違ってくるけど、臓器提供とかと何が違うのか、とかね」
巧の脳裏に幼少期の記憶が過る。火葬場で残った祖父の骨を見せられ、形容しがたい寂しさを感じた。淡々とした説明を受けながら骨壺に収められていく骨を見て、なぜか欠片をひとつ手元に残しておきたいと思った。
父にそう話しても、苦し気な表情を見せただけだったが――。
「それに、なんで起源の靴って呼び方をするのかも分かった気がする。もしかしたら、魔女の履く靴は、ご先祖さま自身が靴として残っているのかもね」
「……私は存じておりませんが、そうかもしれませんわね……」
「俺が思うには、血統なんか関係ないんじゃないかな。魔女の家って自分たちで呼んでるし。魔女ってだけで家族で、血統で決まるってのが、もう間違ってるのかも」
ただの直感にすぎない。けれど、得体のしれない確信もあった。
巧は身の内に潜む魔女に従い、口を開いた。
「靴のデザイン、決めてなかったけどさ。俺に任せてもらってもいい?」
範子は一瞬だけ面食らったような様子を見せたが、しかし頷き返す。
「……えぇ。もちろんですわ。ただ、ひとつお願いがありますの」
「お願い? 好きなだけ言ってくれよ。できる限り聞くから」
「私の願いはたったひとつですわ。森村さまが悔いの残らない靴をお願いしますわ」
「中々の難題だけど――やりがいはあるよね」
巧は、跪礼をする範子を思い浮かべた。その足元に新しい靴をイメージする。つま先に白い革片を入れた黒いショートブーツだ。靴を編み上げるリボンがサイドで揺れる。少しだけ踵をあげて、激しい動きにも耐えられるようにパーツは少なくして。
そして、独特な靴音を立てる。
「今から俺が指さす材料、全部ください」
巧は臆することなく、店主に言った。
頭の中では、すでに靴を履く範子の画ができあがっていた。
*
「私になにか手伝えることがありまして?」
森村巧房に戻ってすぐ、範子が言った。
巧は祖父の机から紙と鉛筆を取りだし、範子を手招いた。
「ある、というか、絶対やってもらわなきゃいけないことがあるかな」
「なんですの?」
小首を傾げる範子に、椅子を指し示して答える。
「そこに座って、靴脱いで。木型から作るんだし、まず採寸しなくちゃ」
「えっ、靴を、ですの? でも――」
躊躇う範子の背をぐいぐいと押していく。
「ほらほら、早く早く。時間がないんだろ?」
「それはもちろん分かりますけれど……」
範子は顔を真っ赤にして答え、押されるままに椅子につく。椅子の前に跪いた巧は、範子の足を膝に乗せ、靴ひも代わりのリボンを手早くほどき始めた。
「あの、りょ、両方とも?」
「もちろん。人間の躰は左右非対称だし、足の形もサイズも違う。両方とも測るよ」
言って、メジャーを片手に少し赤みを帯びた足に触れる。巧の手よりも熱っぽい。
「悪いけど、少し我慢してもらえる? 正確に測れなくなっちゃうからさ」
「う、承りましたわ。その、お手柔らかにお願いしますわね……」
言葉とは裏腹に、範子の声は頼りなくなっていく。
巧が優しく傷つけないように触れるたび、幽かに「ぅ」とか「ぁ」などと甘やかな声をあげる。そうこうしている内にも、甲の高さや外周長が次々と紙に書き込まれていく。時間にしたらそれほど長い時間ではない。しかし範子にとっては違ったかもしれない。
最後に日付と現在時刻を書き込み、巧による範子の足の計測は終了した。
「龍鳴さん、足を無茶に使いすぎだよ」
「はい――って、そこですのっ? 私はそんなことより、その、この暑さで……」
言い切れずに俯いた範子を見て、巧はようやく気付いた。
いくら急いでいたとはいえ、なんてことをしていたのだろうか。炎天下をブーツで歩き回っていたのに、すぐに触られるとは。
しかも同性ならまだしも、異性に。
巧は途端に火照ってきた顔を扇いで、誤魔化した。
「と、とりあえず、もう採寸は終わったからっ!」
「はい……その、えぇと……恐れ入ります……」
範子はか細い声でそう言って、顔を背けた。
巧もまた、まともに顔を見れない。空調のリモコンをいじる。シャツで扇ぐ。
「と、とにかくっ寸法通りに木型作っちゃうから、楽にしててよ。眠かったらほら、そこの扉から家に行ってもらえば、ベッドもあるし……」
言って振り向いた巧は、赤面している範子に気付いた。
長い、まるで永遠のようにも思える沈黙があった。
「ち、違くて! ほんと、変な意味はないからっ」
「存じておりましてよ!? そんなふしだらな――あっ、違いますわ! 紳士ではないという意味ではなくてっ、そのっ、お茶! 私お茶を淹れて参りますわねっ!?」
範子はしどろもどろといった有様で、裸足のまま、巧の家へと引っ込んだ。
その背を見送った巧は、首を左右に振って気を取り直し、不可視の垣根の向こう側からもらってきた、紫檀に似た何かの塊を手に取った。
滅多に使うことのないツールボックス最下段から木工道具を取りだす。よく見てみれば、彫刻刀やノミ、また木槌すら、向こうの素材でできていた。
いままでこんなことにも気づかなかったのか、と巧は短いため息をつき、ノミを握りなおした。
万力を使って木型を作ることすら久しぶりだった。
しかし巧の手は、先の修理よりもさらに早くなっていた。何ひとつ迷いが生まれない。形はすでに見えていて、木の塊からそれを取りだすだけだ。手に残る範子のしっとりとした足の感触と寸法を頼りにして、淀みなく削り出していく。
無音の世界というものがあれば、巧の過ごしたそこに違いない。木型の仕上げ磨きを終えたとき、はじめて作業机に置かれたティーカップに気付いた。
範子は祖父の使っていたデスクに突っ伏し眠っていた。傍らに資料の山がある。
巧は目に映る型にしたがい革を切りつつ、呟いた。
「龍鳴さん。実は、ひとつだけ聞きたいことがあったんだ」
尋ねつつも、巧の手はひと時も休むことがない。
「あの黒いブーティさ、あれは魔女の靴じゃないだろ? なんであの靴を買ってくれたんだ? もしかしたら、俺が魔女の孫だと知ってたから?」
ずっと聞けずにいた質問だった。答えによっては、手が止まるだろう。範子が眠ってくれていなければ、決して聞くことはできなかった。
回答が欲しかったわけではない。
けれど、疑念を払うためにも、言葉にしておきたかった。
巧は苦笑しつつ、口元を緩めて眠る少女の背に、毛布をかけてやった。
範子が巧を信じてくれたように、彼は彼女を信じることにした。
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