不可視の垣根を超えた先

 修理の終わった靴は、たしかに継ぎ接ぎだった。一目でどこをどう修理したのか分かるように当て革が縫いつけられ、見る人によっては不格好と呼ぶだろう。

 しかし、範子にとってはまったく問題とならなかった。

 初めて手に入れた、自分だけの魔女の靴。

 製作者の巧も含めて、愛すべきものであることに変わりはなかった。


 範子は修理の終わった靴に足を通した。吸いつくような履き心地にため息が零れる。魔女の靴特有の冷水に浸るような感覚の奥に、仄かな温かみが隠れている。

 もし巧が自分のためだけに新たな靴を作ってくれたのなら。

 範子は未知の感覚に思いを馳せて、不安げな顔をしている巧を見つめた。


「私は今すぐにでも行けますわ。早く新しい靴を作って頂きたいくらい」

「いますぐって……」

「俺としちゃ今すぐにしてほしいんだがな。チャッカ姐さんを人に引き戻せるのは、あと三日あるかどうかだぜ? 俺も一度魔女の家に戻って、あいつらの靴をユーズーの靴の管理下から外さないといけねぇし、バレたら即、戦闘が始まっちまう」


 三日。それほど長く真央がもつのだろうか。

 あの日、真央が靴とどれだけ混ざり合ったのかは、予想もつかない。

 しかし時間がないのは分かっていも、巧についてきてもらなければ――。


「俺、時間がないって言われると弱いんだよな……じゃ、早く行って、早く作ろう」

「ありがとう存じます。本当に、森村さまには助けてもらってばかりですわね」


 範子は口から出そうになった弱気を押し込め、巧の手を取った。胸の奥で、真央を思う危機感と、新たな靴への期待感が入り混じる。

 こんなときになんて不謹慎なのだと思う。 

 けれど、と範子は指を握り込む。より早く靴を作ってもらえば、より早く真央を助けることにつながる。目的も動機も違うのに、求められるものは同じだ。


 早く、早く、早く。


 逸る心に促されるまま、範子は扉を開いた。

 目指すは不可視の垣根を超えた先にいる、皮なめしの老魔女だ。

 一枚、二枚と扉を抜ける。


「えと……御苑?」

「――仰る通りですわ。不可視の垣根を超えたあちら側で特定の場所に行くときは、特定の座標を利用しないと難しくなりますの」

「そうなの? でも昨日の場所はランドマークでもなんでもなかったような?」

「昨日は非常手段として不可視の垣根を超えただけでしてよ」


 嘘は言っていない。正確にいえば、扉を使った移動を極力減らし、見つかりにくくするためだった。スータリに傷を負わせたのも偽装と時間稼ぎのためだ。


「これから不可視の垣根を飛び越えますわ。絶対に手を離さないでくださいませ」

「分かった。他になんか注意点はある? 例えばその……」


 巧は言葉に困っているようだった。おそらく悪魔のことだろう。初見で気を失ってしまったのもあり、まだ恐れがあるのかもしれない。

 しかし、彼らはごく単純なルールさえ守れば、恐れる必要はない。


「絶対に彼らに近づかないことですわ。それと、決して目を合わせないこと、彼らの言葉に耳を傾けないこと。でも一番大事にしてほしいのは、意識すること」

「意識する?」

「ええ。巧さまご自身が魔女であり、人であると。それが一番の対処法でしてよ?」

「えぇと、自分が魔女で、人で……」


 ぶつぶつと呟きはじめた巧に、範子は厳かに告げた。


「ご不安があおりでしたら、私の手を握っていてくださいませ」

「自分が魔女で、人で……」


 同じ文言を自分に言い聞かせる続ける巧に苦笑しつつ、範子は靴音を立てた。

 世界が剥がれ上がっていく。無数に罅入った卵の殻が剥がれていくように、人の世界を守る不可視の垣根が崩れて、見え方が変わっていく。


 つい一瞬前まであったモルタルの建築物もバラバラと剥がれて、ねじり曲った奇妙な木々が姿をみせた。うっすら透ける門衛所もやがて消え、不気味な樹木の姿だけが残る――いや、見た目は植物に似ているからといって、油断はできない。

 範子は握られた手に微かな痛みを感じた。巧の手が震えている。


「私がついていましてよ? それに巧さまも魔女。恐れることはありませんわ」

「あっ、うぅっ、りょ、う、かい」


 声が上擦っている。無理もない。範子自身も、初めて不可視の垣根を越えたときは同じように震えたものだ。

 すぐに慣れたのは、魔女として訓練を受けていたからに他ならない。

 二人の横を通り過ぎていった三本足の獣も、必要とあらば追い払える。それを知っているかどうか。また知っていてもできるかどうかで、怖さは異なるのだ。


 ただ範子はそれらの事実を黙っていた。もちろん、内心では悪いと思うが、悪魔を怖がりしがみついてくる巧が可愛らしかったのだ。

 範子は手の暖かさを堪能しつつ、歩きだした。


 その悠然とした姿に、巧はようやく周囲を観察できるようになった。

 空はマゼンダカラーとでもいうべき紅紫色に輝き、雪の結晶のような形の雲が三原色で明滅している。不規則かつ高速に変化する色合いは、それだけで目を幻惑してくるようだった。


「……なんか、すげぇ……」


 巧はその光景に圧倒され、誰に言うでもなく呟いていた。

 ねじ曲がった木。幹はやはり鮮烈なピンクや青色で、金属質な光沢をもった実をつけている。しかし奇妙なことに、七色の波紋をつくる芝生に落ちた果実は、崩れた青い石英のようでもあった。おそらく熟成に応じて質的に変化していくのだろう。


 大気は暖かくも冷たくもある。空間ごとに温度がまだら模様になっているのだ。

 重力も空気の厚みも異なるようで、地面にバネが仕込まれているかのように弾む。

 ふいに範子が振り向き、つないだ手を揺すった。


「もうじきに着きますので、絶対に手を離してはダメでしてよ?」

「……ここ、そんなに危ないとこなの?」

「ええ、とても。空間も時間も人の身から見ると歪んでいますの。垣根が突然切れていたりもして、抜け出てみたら崖だった、ということもございますわ? たまにありませんこと? どうしてそんなところで死んでいるのか。そんな事件」


 巧は唾を飲みこみつつ、記憶を探った。半笑いで尋ねる。


「例えば、空から人が降ってきた、とか?」

「大昔には。いまでも見られるのは、殆どが迷い込んでしまった人たちですわね。そう――例えば、薬物中毒で飛び降りた、なんて言われる方々ですわ」

「なるほど……って、どういうこと!? クスリで不可視の垣根を超えるのか!?」

「大声を出してはダメ。彼らが反応してしまいましてよ?」


 範子の視線の先には、三メートルはありそうな、枯れ枝のように細い足で歩く、奇妙な生き物がいた。顔と思しき楕円の塊には小さな切れ込みがあり――、

 見ていたら、ダメだ。

 巧は範子の言葉を思いだし、目を逸らした。


「正解ですわ。私たちは人であり、魔女である。それを忘れてはダメ」


 範子も目線を切り、遠くに見える不気味な森に向かい、直角に曲がった。


「先ほどの質問にお答えすれば、答えはイエスですわ。古い魔女たちは薬草と儀式を併せて不可視の垣根を越えたそうですの。現代でも魔女の真似事をして、偶然にも飛び越えてしまうことがある。そういうとき無事に帰ってこれるかは運次第ですの。大抵の場合は、そのままこの地にとどまるか、あるいは抜け出ても狂うか……」


 なんて恐ろしいことをサラっと口にするのかと巧は思った。

 事実なら、不可視の垣根は生死の彼岸と此岸に等しい。飛び越えれば帰ってくるのは難しいというのも頷ける。だとすれば、魔女たちが戒律を作って知識の拡散に慎重だったのは、人の世界を守るためだったのかもしれない。

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