魔女と過ごす朝
早朝、巧と範子は小さなちゃぶ台を挟んで、黙々と朝食をとっていた。
トーストが二枚にベーコンエッグ、魔女の薬草が入っているというスープ、そしてインスタントのコーヒーが並ぶ。
どれも範子が手ずから作った料理で、ごくごく素朴な味だった。
巧はトーストにバターをつけてかじり、ベーコンエッグをつつく範子を盗み見た。
まだ乾ききっていない茶色い前髪の下からはガーゼが、肩口からは包帯が覗く。
それだけなら昨夜の戦争じみた光景を想像し、身を震わせただけだろう。
しかし、範子が着ているTシャツの柄のせいで、そうはならなかった。
魔女っ子。
白地に力強い筆文字である。首から上は幻想的とすら言いたくなる雪のように白い顔があり、そのすぐ下には筆文字の『魔女っ子。』である。
しかも下は毛玉がついた赤いジャージだ。部屋着だと分かっていても目眩がする。
ついでにゴス服は細身に作られていたのか、想像以上の着やせタイプであった。特に一か所について。
『魔女っ子。』の文字は横方向に間延びして――、
「なんですの?」
範子がぼそりと呟いた。拗ねたように頬を膨らませている。
「えと、いや、なんでもないです」
巧は慌ててそっぽを向いた。カーテンに吊られた丸型のピンチハンガーから、昨晩ぶら下がっていたはずの下着がなくなっていた。たしか割と素朴な色合いの青いブラが――と思ったところで巧はムリヤリ卓上に目を落とした。
がしかし、戻った先には『魔女っ子。』が鎮座し、その下にうっすら透ける青色を認識してしまった。昨日は見なかったことにできたのに、今日はできそうにない。原因は明白である。
「あの、あまり、その――な、なんでもございませんわ」
ものすごく恥ずかしそうにする範子のせいである。そうに違いない。
夜が明けると雑然としていた棚は整理され、着替えの入ったビニール袋は、もちろん下着の類も含めて、どこかに押し込められていた。
つまり目覚めた範子が始めたのは――。
なぜもっと早く起きなかったのかと悔やまれる。せめて水音で目覚めていれば。
「それと、昨晩はその、ありがとうございました」
範子の消え入りそうな声で、巧は我に返った。
それは気まずさを打ち破る鍵だった。つまり昨晩見たモノについては不問としますと、ようやく宣言してくれたのだ。勝手な解釈ではあるが。
「えと、こっちこそ、その、ありがとうございます」
「えっ――?」「ん?」
範子の短い疑問めいた声を耳にして、巧は思わず聞き返した。少し潤んだ紫色の瞳と視線が交差する。
しまった。言葉の選択を誤った。
範子の顔がみるみる内に朱に染まる。巧の脳が、昨晩、勝手に焼き付けておいたであろう艶めかしい裸体を、半強制的に再生する。
「ち、ちがくて! そのえーと、裸じゃなくてっ!」
過ちは二度繰り返された。範子の気の毒になるほど白い肌は、見ているだけで恥ずかしくなるほど上気していた。
自分の失言のせいだが、沈黙は長引きそうだと巧は悟った。
結局のところ、静寂は二人が朝食を食べ終わるまで保たれた。二人が無音の壁を打破したのは必要に迫られたからであり、共通の理由によった。
すなわち、ちゃぶ台の上に並べられた、引き裂かれた魔女の靴である。
「……直せまして?」
「さすがにここまで壊れてるとね……元通りというのは、ちょっと……」
巧は慎重に言葉を選んだ。しかし残酷な現実は変わらない。
なにしろ
しかし穴が開いているのでは。
リボンは切れかけ、ヒールもガタつき、極めつけに全体が少し焦げている。通常なら修復を依頼されても断る状態だった。
とはいえ。
今にも涙を落としそうな範子を前に、捨てろなんて言えるわけがない。
巧は何か手はないかと玄関に目をやった。ナザル・ボンジュとかいう青い目玉のようなガラスのオブジェが、非難するかのようにこちらを見つめている。
「でも、なんとかしないといけませんわ。この際、古い模造靴を使ってでも」
範子は涙を拭って、そう言った。しかし昔の模造靴とは、二丁目のはぐれ魔女たちが履いていた、出来の悪いレザースニーカーのような代物だろうか。
「……魔女の靴には詳しくないけどさ。それで、桜木さんに勝てんの?」
びくり、と範子の躰が震える。彼女自身、無理は承知の上らしい。
「いざとなれば、喉を使って呪文を唱えますわ」
「喉ってことは……声? 声でもああいう、魔法みたいなのが使えるの?」
「えぇ。中世を過ぎる頃には失われた技術ですけれど、一度くらいなら使えますわ」
「……言いたくないけどさ。だったら、なんで昨日の夜に使わなかったんだ?」
分かり切っている。あの土壇場で最善手を選び続けないはずがない。打つ手の候補から漏れたのなら、使うことができない理由があったに違いないのだ。
範子は唇を強く噛み、悔しそうに呟いた。
「……それでも、真央は、私の大事な友達ですもの。たとえ命がけでも――」
「俺はそんなん嫌だよ」
範子は驚いたように顔をあげ、すぐに手元に視線を落とした。
巧は扉に描かれた馬蹄を眺めて続けた。
「俺にとっては、龍鳴さんが最初のお客さんだったんだ」
「最初の……?」
「そうだよ。ずっと趣味で作ってきてさ。一度でいいから誰かに履いてもらいたくて、出品して。長いこと売れなくて、諦めて取り下げようと思ってたくらいなんだ」
巧は玄関に置かれた黒いブーティを指さした。
「あれを買ってくれたのは龍鳴さんだ。たしかに俺はそれで調子に乗ったよ。注文通りに魔女の靴を作ったさ。だけど、それだけなんだ。龍鳴さんがウチに来た時には、ただ言われるとおりに作るのに飽き飽きしててさ……。もちろん、いい加減に作ったつもりはないよ。だけどさ、昨日の夜、爺ちゃんの作った靴を見て、思ったんだよ」
巧は充血してしまった紫の双眸を見つめた。
「あの爺ちゃんの靴、同じなんじゃないかってさ。嫌々作ってるようなところがあって。そりゃ爺ちゃんは脅迫されて作ったんだし、当たり前なんだけど。だけど、俺がいい加減過ぎたから、こんな壊れ方しちまったんじゃないかって思ったんだよ」
「そんな、それは違いますわ!」
範子は即座に否定した。
「森村さまに作って頂いた靴がなければ、私はあの場に立てなかった!」
「ありがとう。でも俺は、龍鳴さんが命を賭けなきゃいけないのなら、そうせずに済むように手伝いたいんだよ。爺ちゃんが作った靴が元凶で、俺が作った靴のせいで、最後にしくじることになったんだ。せめて、できる限りは手伝わせてほしい」
嘘偽りのない本心だ。
それに範子は自分を責めているが、問題の本質は違うと思う。
元を正せば、脅しに屈した祖父が責任を取らねばならない。
靴を欲していたユーズーは、職人である祖父を殺せなかったはずだ。祖父には、息子を殺せば靴は作らないと、要求を突っぱねる道もあったはずだ。
しかし祖父は契約して靴を作り、自らを放逐させて記憶に蓋までしてしまった。それは、生前の祖父が語っていた『誠実な態度』とは言い難い。
そして巧は、一晩悩んで出した結論を伝えた。
「俺にもう一度だけ、チャンスをくれないか? デザインは同じでもいい。素材も同じじゃなきゃダメならそれでもいい。今度は龍鳴さんのためだけに、靴を作らせてほしい。それで、龍鳴さんに、爺ちゃんが作っちまった靴を、回収して欲しいんだよ」
範子は目に涙を滲ませて、巧の手を取った。
「ありがとう存じます、森村さま――いえ、巧さま」
そう言って、範子は涙をこぼして微笑んだ。
巧は手を強く握り返して言った。
「それなら、まずは出来ることから始めよう。すぐに新しい靴を作れる?」
「革がありませんわ。取りに行くにしても、まず靴を直さないと、不可視の垣根を安全に越えることがままなりませんの」
「だったら、最初はどうやって革を手に入れたんだ? 靴はなかったんだろ?」
「……魔女の家に協力者がおりますの」
「なんだって?」
巧は身を乗り出した。
「だったら話は簡単じゃんか! 革を持ってこれるなら、そいつに頼んでもってきてもらえばいいんだから!」
しかし、範子は首を左右に振った。
「今朝早く、危機は伝えましたわ。でも、まだ姿をみせておりませんの」
魔女の家にいる相手に連絡するのは骨が折れる。はぐれ魔女である範子には、定期的に特定の場所にメッセージを残す以外に連絡する手段がない。
「じゃあ――そうだな。この靴が使えれば、革は手に入る?」
「ええ。起源靴さえ使えれば、不可視の垣根を越えられますわ」
「それなら工房に行ってみよう。実は、ほんの少しだけ、革を余らせてあるんだ」
「本当に!? でも、それで直せますの?」
「やれるだけやってみるよ。ただ、ちょっと不格好になっちゃうけどね」
冗談めかした巧の答えに、範子はしごく真剣そうな目をして小さく頷いた。
「では、その案で参りましょう。まず靴を直して、次に革を取りに行く」
「んでもって、次は靴を作る、だね」
範子は力強く頷き、巧に手を差し出した。
巧は差し出された白い手を取り、ふと思った。
「――あの、龍鳴さん」
「なんですの? まずは巧さまの工房に行くのではなくて?」
「そうなんだけど……普段はその……その服でも外に出るの?」
自分の服を見た範子はすぐに顔を赤らめ、巧は部屋から追い出された。
やはり『魔女っ子。』Tシャツは恥ずかしいのか。
巧はぼんやりと朝日を見つめ、肌に張り付くシャツをつまんで、扇ぎはじめた。
初めて来た弥生町の朝は、すでに汗が滲む蒸し暑さだった。
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