魔女は弥生町に隠れ住む

 戦鎚が姿を消したとき、巧がくぐっていった扉は、跡形もなくなっていた。

 ユーズーが服の埃を払いながら言った。


「ちょっと! チャッカ! しっかりぶっ殺したんでしょうねぇ!?」


 真央は虚ろな目のまま、首を左右に振っただけだった。一言も喋ろうとしない。


「ったくもぅ! この靴、融通きかないんだからぁ! もぅ!」


 巧の祖父が作った禁制靴は、たしかに強力な術をもたらした。

 しかし、支配の術は対象とする靴によって、制御の難度が違いすぎた。ただの模造靴程度であれば数百人であってもコントロールできる自信がある。けれど悪魔となりかけている桜木の靴ときたら。

 

 ユーズーの術の精度は増し、孫の真央はバカのひとつ覚えといった様子なのに。

 この三年間、封印棺を使って教育してきたはずなのに。

 全力を注いで制御しなければ、今にも暴走しそうではないか。


 ユーズーは腹立ちまぎれに、折れた神像の頭を蹴りつけた。ウィングチップのつま先、百合を示す穴飾りに、小さな擦り傷がついた。


「まぁ、いいわ。チャッカはドラ子ちゃんの靴じゃ倒せないってわかったしぃ……」


 無表情を保つ真央の頬をペチンと叩き、闇に沈んだ小道に足を向ける。


「チャッカ! ついてきなさいな! あいつ、絶対に魔女の家に攻めてくるわ!」


 言いつつ、顔も向けずに手をこまねく。

 真央は沈黙を貫き、自らを呼ぶ手には目もくれず、ただ言葉に従い歩きだす。

 つい数分前まで教会のあった土地には、瓦礫しか残されていなかった。


 一方、いまはき扉の向こうでは。 


 巧が範子に抱き留められて、荒い息をついていた。

 範子がつないだ扉の先は、やはり廊下だった。つい先ほどまで細い月明かりの下にいたのもあって、蛍光灯の白い光が目に痛い。


 巧は冷え切ったコンクリート壁にもたれかかった。湿気を吸い込んでいるのか、心なしかしっとりとしている。どこか水に関わる施設の管理区域だろうか。

 にしても、危なかった。

 巧は額を壁に押し当てた。


「ありがとう。死ぬかと思ったわ……」

「……お礼などいりませんわ。こちらこそ助けられましたもの」


 口ではそう言っているが、巧を見つめる範子の目は、冷ややかだった。戦鎚が振り下ろされる瞬間に手を引いてくれなければ――その先は想像したくはない。


「――それで、どうする?」

「まずは逃げの一手、ですわ。躰を癒さねば、応戦できませんもの」

「てか、ここ、どこ?」

「……夜毎に西欧風の喪服を着た幽霊が出るので有名な、ダム内部の廊下ですわ」


 なんだそれは。

 失笑する巧に範子は言った。 


「嘘ではなくてよ? あそこを」


 指さす先には、二人を無感情に見つめる監視カメラがあった。


「……あの、俺、今、顔写っちゃったよね?」

「幽霊が二人に増えたのですから、大騒ぎですわね」


 そう言って、範子もカメラに顔を向けた。闇の中ではよく分からなかったが、額から溢れた血で左半分ほどが真っ赤になっていた。服もボロボロに擦り切れていて、肩口から胸にかけての出血でぐっしょりと濡れている。そして靴は、壊れているというより、かろうじて形を保っているといった方が正しい状態だ。

 巧は、さすが俺の作った靴だと強がる気にもなれず、ため息交じりに尋ねた。


「あの、大丈夫? なんか、俺に手伝えることというか」

「お気持ちだけで。いまは追われる前に、早く移動しないといけませんの」


 そう微笑みかけてくる。巧を安心させようとしているのだろう。

 黙って手を貸せばよかったんだよ。

 巧の顔が歪むのを見て、範子は困ったように目を逸らした。


「では、その、肩をお貸しいただけて?」

「えっ? あ、あぁ! もちろんだって!」


 巧は範子の右腕を首にかけ、腰に手を回した。

 血の匂いが混ざっていなければ、もっと違う緊張を覚えただろう。


「奥の扉までお願いしますわ」


 その言葉に首肯したものの、巧はすぐに思い直した。見た目以上に細くしなやかな躰は、失血のせいか、酷く冷たくなっていた。


「えぇと、ごめん。ちょっと失礼するよ」

「なんです――のぁっ!?」


 範子は小さな悲鳴をあげた。

 巧が、首に回した手を膝裏に移して、抱き上げたのだ。

 俗にいう、お姫様抱っこである。


「あっ、と、その――」

「急がないとヤバいんだろ? 移動はこっちのが早いし、扉を開ける時は下ろすよ」

「あ、えっと……はぃ」


 範子は言葉を忘れたかのように押し黙り、そっと巧のシャツを握りしめた。

 そうして巧は、扉の前に来るたび範子を下ろし、扉をくぐればまた抱き上げた。傍から見れば中々に間抜けな絵面だが、繰り返す度に二人は言葉少なになった。

 そして、小さな悲鳴すら無くなった五回目に、範子が囁くような声で言った。


「こ、この扉で最後ですので、もうその、アレは結構ですわ」

「えっと、うん。そう。分かった」


 なぜだか巧も動揺した。範子が気まずそうにしているせいだろうなどと見当をつけておき、手を繋いで扉をくぐる。

 ――暗い。

 すぐにパチリと音がして、蛍光灯が点った。

 随分と小さな玄関口に、革靴がいくつか並べられていて……、


「えと……ワンルーム……?」


 すぐ右手側には整然としたキッチンがあった。左手側の扉はおそらく風呂とトイレだろう。どこに逃げるのかと思っていたが、まさか普通に自宅ということでは――。

 巧が靴のまま上がろうとすると、「あっ」と、微かな声がした。


「念のため、靴は脱いで頂いて……そこのキャリーバッグに入れて頂けまして?」

「――えっ? あ、うん。了解……もしかしてここ、隠れ家とか?」

「……え、えぇ! 隠れ家! そう、隠れ家ですわ! でも、綺麗に使おうと――」


 範子は目を逸らしつつ宣言した。

 が、しかし、すぐに諦めたようにため息を吐く。


「――自宅ですわ……まさか、こんな形で家にお招きすることになるとは……」

「だ、大丈夫だって! すごい綺麗だし、か、片付いてるしさ!」


 しどろもどろになりつつ励ますと、それに応えるように、

 ドゴン。

 と、隣の居住者が壁を叩いた。

 追跡者を疑い顔を青ざめた巧に、範子は人差し指を口に当てていった。


「声は小さくしないとですわね。もう、夜も更けていますから」


 巧が頷くが早いか、範子は玄関の上がり框に置いてある小さな箱を開けた。取り出したカラス除けの目玉のような青いガラスのオブジェを、ドアフックに吊るす。


「――えと、なに? それ」

「ナザル・ボンジュでしてよ。元はトルコに伝わる邪視除けですけれど、私が少し手を加えていますの。簡単に言えば、追跡しにくくする、お守りのようなものですわ」


 青い硝子の目玉は、お守りにしては不気味だ。

 それにガラス細工のお守り程度で、魔女の追跡を阻害できるのか。


「……こんなんで追えなくなんの?」

「見た目は粗末ですけれど、扉を使った移動の痕跡を消す程度には。ただ、この部屋は中野富士見町駅から近いので――」

「中野富士見町駅」

「……? はい。このアパートは弥生町ですけれど……」

「アパート。弥生町」


 およそ魔女とは思えない単語の羅列に、巧は呆気に取られた。

 その間に、範子は小石ほどの黒い小箱を取りだし、玄関扉の前に置いた。

 巧は気を取り直そうと尋ねた。 


「……それは……今度は何?」

「赤外線の警報機ですわ? 魔女除けの紋章もありますけれど、足での捜索だと、他に対処のしようがありませんの」


 範子は扉を指さした。

 言われてみれば、馬の蹄鉄を逆さにしたような絵が扉に描かれている。


「……敷金、戻ってこないかもね」

「それは禁句タブーですわね」

 

 肩を落とした範子は、失笑した。


「なにを言っているんでしょう。私は」

「って、そうだ。手当しないとだ。ごめん」

「こちらこそ。それと、もうその、アレは結構ですから。ほんとに」


 アレというのはお姫様抱っこのことか。

 範子につられて巧もドギマギしつつ、肩を貸して居室に入った。

 六畳半ほどの居間だ。マットレスは掛け布団ごと畳まれ、普段着と思しき洋服でパンパンに膨らんだ半透明のビニール袋もある。汚れものなのか着替えなのかは分からない。


「えと、とりあえず、マットレス……か?」


 巧は黒いマットレスを広げつつ、部屋を見回した。

 窓際で干されている色とりどりの下着については、意外とデカいと思うに留めて、見えていないし気付いてないことにしておく。


 小さなちゃぶ台の上にはノートPCが一台置かれ、他には小さな本棚と壁棚くらいしかない。しかも本棚に並んでいるのは、服飾や靴にまつわる本と、オカルト本の類である。はっきり言って、魔女が住む部屋とは思えなかった。


「いくら巧さまと言えども、他人の部屋をじろじろと見るのはいただけませんわね」

「――っ! ご、ごめん! えと、そう! 手伝うことは!?」 

「深夜ですので、お静かにお願いしますわ」


 東京都中野区弥生町に住む魔女は、生活感あふれる忠告をして、壁棚を指さした。


「それと、そこにある箱をとっていただけまして?」


 赤やら黄色やらと賑やかな色合いの、酒瓶なのだか薬瓶なのだか判別不能な小瓶が並べられた棚の足元に、クリアボックスがあった。

 なんとも庶民的だと失礼な感想を持ちつつ手渡すと、範子は「ありがとう」と眠たげに呟いた。ずっと堪えていたが、自室に到着して気が抜けたのかもしれない。


 巧は朦朧とする範子をマットレスに横たえ、箱を開けた。変な匂いのアロマキャンドルや素性不明な軟膏類など、救急箱にしては見慣れない物ばかり入っていた。用途が分かるのはガーゼと絆創膏と、それに白い包帯くらいだ。


「――えぇっと、それで、どんな儀式を始めればいい?」


 元気づけてやろうと、冗談を言ってみる。

 幸いにも、範子は笑ってくれた。


「そこの、緑色の軟膏、それが切創用の軟膏で――でも、先に血を拭かないと」


 説明する範子の顔は、白いを通り越して青くなっていた。

 巧が気合を入れて確かめてみると、傷自体は致命的なものではなかった。また、範子自身の書見によれば、魔女の秘薬を使えば一晩である程度は回復するという。

 

 とはいえ、すでに失われてしまった血が戻るわけではないし、体力・気力は眠らなければ回復しない。それが人の摂理であり、魔女もやはり人である。

 巧が一通りの手当てを終えた頃には、範子は寝入っていた。

 

 そして。

 

 手当てを終えた巧自身は、一人孤独に思考――あるいは眠気と格闘していた。

 部屋には、範子の少し荒れた寝息と、レトロな目覚まし時計の針音しかなかった。

 明りはアロマキャンドルだけで、揺らめく炎と漂う香りが、殊更に眠気を誘う。他には範子手製の薬酒を一杯――正確には気疲れもあって三杯ほど飲んだのも、睡魔に力を貸していた。


 もっとも、薬酒には、まともな効果もあった。一舐めする度に疲労と煩悩を忘れさせ、集中力を高めてくれたのだ。もし薬酒がなければ、平常心を保ったまま範子の躰を濡れタオルで拭き着替えさせるなぞ、不可能だっただろう。


 現に巧は、酒精が切れてから以後、生白い肌ばかり思い出してしまう。時おり聞こえるうめき声、それに苦し気な寝顔も、複雑な緊張を喚起する。

 そこで巧は首を振り、ユーズーのサイハイブーツに思いを巡らせた。


 ユーズーの履いていた靴は、祖父の作った魔女の靴に間違いない。

 そしてまた、嫌々、しかしそれでも完璧に作られた靴だった。

 祖父が作る靴には大抵の場合、なにかひとつ遊びがあった。もちろん客の要望に応えた上で入れる遊びなのだが、ユーズーの履く靴にはそれが無かったのだ。


 サイハイブーツという靴は、むしろ遊びこそが魅力となるのに。

 見た目は少し派手なロングブーツと言えなくもない。なにしろ元は売春婦たちが貴族ウケを狙って履いたとされるブーツである。


 しかし一方で、デザインとしては――自然発生的な靴を除いて――一九〇〇年代には原型の見られる歴史ある靴ともいえる。ここ三十年ほどでファッションとしても定着したし、当時の祖父からすれば、挑戦的に色々な遊びを入れてもおかしくはない。


 けれど、あの靴は。

 ひたすらに図面に忠実に、これで最後と作ったような。

 それはまるで、巧が範子の依頼を受けた時と同じような。

 巧は、首を振って、違うはずだと思った。


 俺は龍鳴さんのために心血を注いで作ったはずだ。あんな、誰か代わりに壊してくれと言っているかのような靴とは、違うはずだ。


 ――本当にそうか?

 

 巧は、終わることのない自問自答を繰り返し、答えの出ぬまま眠りに落ちた。

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