戦略的撤退

「信じてくださいませ」


 範子はそう呟くと、破れた靴で踵を鳴らした。

 防御魔術が展開し巨大な円盾が現れる。しかし盾は戦鎚を受け止めきれず、押し込まれていく。


 爆音が巧の頭上で鳴り響き、くぐもったうめき声は顔の下から聞こえた。

 教会を丸々叩きつぶした鎚が消える。遅れて崩落した天井の部材が降ってきた。

 残されたのは火だ。衝突の熱量のせいなのか、真央の扱う魔術の特性なのか、崩れた礼拝堂に、木々が焼ける臭いが満ちていく。


「い、生きてる?」


 巧は舞い上がった埃と煙に咳き込みつつ、瞼を開いた。真っ暗だ。周囲を確認しようと首を伸ばし、再び頭をぶつける。声にならない悲鳴が漏れた。

 ぶつかったのは屋根の残骸だった。どうやら神の御業で命拾いをしたらしい。

 

 言い換えれば、神像の台座が残骸をひっかけてくれたのだ。罅だらけになった台座が砕けなかったのは、範子の張った防御術のおかげなのだろう。

 巧は人生で初めて神と魔女へ感謝の祈りを捧げた。すぐに窮屈な姿勢のまま天井を押し上げようと試みる。当然ながら相当な重量らしく、動く気配はない。


「んぅ……なんとかなりましたわね」


 範子の声とともに、細い吐息が顔にかかるのを感じた。近い。これが夕日の差し込む教室なら赤面もしただろう。しかし現在進行形で命が脅かされている今は別だ。

 巧は膝上のたしかな鼓動に内心胸を撫でおろしつつ、小声で尋ねた。


「龍鳴さん。これからどうしたらいい?」

「まずは瓦礫をどけて、次に――」

「ちょっとぉぉぉぉぉぉ! ちゃぁんと、死んでるのぉぉぉぉぉ?」


 範子の声を遮るようにして、歓喜に震えるユーズーの声がした。


「ユーズー……!?」

「ユーズーは魔女の家での名前ですわ。ムーチャーが裏の名前」

「裏の名前?」

「ユーズーは手下を使って、森村さまに靴を作らせた。彼が全ての元凶でしてよ」


 巧の中で、聞きたいことが山のように積みあがっていく。

 しかし、いま優先すべき問題は、


「チャッカちゃぁん。生きてるかもしれないから、もう一発いってみようかぁ」


 ユーズーのおかげで、すぐに決まった。

 巧は纏まり切らない頭で、脱出の方法を考えた。


「龍鳴さん。あの、蹴りで瓦礫ごと」「無理ですわ」


 食い気味に回答があった。

 さり、さり、と範子の靴が埃積もる床を滑る。


「靴が、壊れかけていますの。いま魔法を使えば、完全に壊れてしまいますわ」

「靴くらい後でいくらでも作ってやるって! いまは早く逃げないとだろ!?」

「この上ないご提案、痛み入ります。けれど、そうではなくて――壊れたら扉を開けなくなりますわ。そうなれば、ここから逃げる方法がなくなってしまいます」

「……開く扉が残ってりゃいいんだけどね……それなら、どうする?」


 範子が、ふふん、と鼻を鳴らした。随分と余裕を感じる反応だが、その実、鼓動は早くなっている。打つ手なしという状況に、自然と笑みがこぼれたのかもしれない。


「俺にできること、なんかある?」

「……森村さまが履いていらっしゃる靴を使えば、なんとか」

「靴? いいよ。いま脱ぐから――」

「そうではなくて、森村さまが蹴るんです」


 なるほど。で済まされるわけがない。

 巧は慌てて言った。


「いや俺が蹴るって、んなことできるわけがねぇだろ!?」

「できますわ。私を受け止めてくださいましたもの。今度は私が信じます」


 信じるなんて言われても! 

 たしかに無意識のうちに踵を鳴らしたし、祖父が魔女なら巧も魔女なのだろう。

 しかし、だからと言って、


「いやいや、いやいやいやいや。俺、やり方も分かんないって!」


 巧は思わず声量をあげてしまっていた。

 間髪入れずにユーズーの歓喜の声が木霊こだました。


「アラッ!? アラアラアラアラアラ!? ボウヤ! そこにいるのねぇぇぇ!?」


 しくじったと慌てふためく巧の頬を、範子の冷たい手が包み込む。


「もちろん、やり方をご教授させて頂きましてよ。ただし」

「ただし?」

「蹴り開けてからは、どうなるか分かりませんの。だから、決して私の手を離さないように。そして私のことを信じて、巧さまにすることを受け入れてくださいませ」


 どうなるか分からんが全てを受け入れろ。無茶苦茶な。だが今更でもある。

 ほとんど光のない空間だというのに、範子の瞳が妖しい紫色を放った。


「チャッカちゃぁぁぁん! こっちきて! 裏切者を蹴り殺しなさいな!」


 時間がない。やれることがあるなら、やるしかない。

 巧は大きく息を吸い込み、細く吐き出した。


「分かった。教えてくれ。やるだけやってみる」


 他に手はない。それに本当に自分が魔女なら、きっとできるはずなのだ。


「では、初学者向けのやり方でやりましょう。足を少し上げていただけますこと?」

「了解――!」


 巧が足を引き上げると、すぐに範子の右手が足首を掴んだ。左手は巧の手を掴む。ひやりとした柔らかい感触に、高まる緊張が少し和らいだ。


「靴に意識を向けて、私が蹴ってと言ったら、全力で蹴りつけてくださいませ」

「靴に意識を集中して、蹴ってと言ったら全力で――」


 言われた言葉を復唱しつつ、巧は掴まれている右足の靴に意識を向けた。妙に冷たい革の感触を得る。きっと靴を探すときと同じでいいはずだ。意識を揺らがせる。

 

 範子の手が少し力を強めた。柔らかな手の感触を遠くする。次に嗅覚を消して香水と血の匂いを忘れる。残すのは体表の感覚だけでいい。意識を、靴に食わせてやる。

 範子が掴んでいた巧の足を引き、円陣を作った。小さく掲げて素早く落とす。


「蹴ってくださ――」

「――どおぉぉぉらぁぁぁぁぁ!」


 巧は範子の合図にノータイムで蹴り込んだ。

 魔女の蹴りは、たしかに範子の助力を得て発動した。

 ほぼ無意識にまで落ち込んでいた頭が覚醒する。不可視の垣根を越えて引きずり出された蹴りは、範子や真央と比べれば、小さな一撃だった。

 しかし、残骸を吹き飛ばしユーズーを怯ませるには、十分でもあった。


 二人が飛び出したとき、ユーズーは腕で顔を庇って、躰をのけ反らせていた。

 範子は巧を連れて駆けつつ、ユーズーを瓦礫の小山から突き落とした。

 巧は転がり落ちていく黄色のサイハイブーツを一瞥して叫んだ。やはり、違う。


「やっぱ嫌々作ってんじゃねぇか! 許せねぇ!」

「いまは逃げるのが先ですわ!」


 振り返る巧の手を力任せに引っ張り、範子は足の回転速度をあげた。

 埃だらけとなったユーズーの、怒号が飛んだ。


「チャッカァァァァ! そいつら逃がすなぁぁぁぁ!」


 声色は完全に男のそれ。飛ばした先は瓦礫の中に一人佇む真央だ。

 真央は虚ろな目のまま片足を振り上げた。瓦礫を踏み抜き打音が響く。同じく魔女の蹴りを使う気だろう。ただし巧よりずっと早く、ずっと強力に違いない。


「やべぇ」「心配ご無用ですわ!」


 範子は怖気づく暇を与えなかった。駆ける足を緩めることなく、瓦礫から突き出る木片に手をかけ投じる。木片は高速回転しながら飛翔し、真央の軸足に直撃した。軸足が滑って膝から崩れる。

 しかし、前蹴りは止まらない。


 魔女の蹴り自体は発動した。

 巨大な靴は、巧と範子の真横五センチほどを掠めていった。かろうじて残っていた神像の台座が粉砕される。立ち上がったばかりのユーズーがよろめく。

 範子と巧はそれらを尻目に、鉄筋剥き出しとなった柱の間を目指して走った。壁が壊れて中身が丸見えのではあるが、扉だけが原型を留めていた。


「チャッカァァァァ! いちいち命令させてんじゃないわよぉぉぉぉ!」


 しかし怒号は、命令として成立しなかった。真央の虚ろな瞳が二人の背を追う。

 ユーズーは足元に転がる破れた絵画を踏み抜いた。


「チャッカァ! 戦鎚ウォーハンマーぁぁぁ!」

「………………」


 真央が示した反応は、まず開けた地面を探して、そこに降り立つことだった。戦鎚の召喚にはいくらか長い詠唱を要する。ユーズーにとっては『戦鎚で』という命令が仇となり、巧と範子にとっては幸運となった。


 扉にたどり着いた範子は、踵を鳴らして扉を開く。

 範子が逃げ道となる扉に滑り込んだまさにそのとき、真央の術が完成した。


「ぶっ殺せぇぇぇぇぇ!」


 ユーズーが吼え、真央が戦鎚を喚び出した。教会を叩き潰した殺意を纏う巨鎚が、小さな扉目掛けて振り下ろされる。

 唸りを上げて迫る破壊の権化を見上げ、巧は硬直した。

 子供の頃に踏み潰してしまった蟻んこは、同じ光景を目にしたのだろうか。

 爆音とともに扉を含めた一帯が陥没し、暴風が地表を撫でた。

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