禁制靴、あるいは裏切りの魔女

 常軌を逸した速度でぶつかってきた範子の腕は、まさしく肉弾だった。

 衝撃で真央の足が地面を離れ、激痛が遅れて続く。範子の骨が軋む感触があった。体勢を崩した真央は、朽ちかけた石畳で背中を打たれた。


 衝突した拍子に、範子は空中姿勢を維持できなくなっていた。

 二人は絡み合いながら地面を抉り、なお突き進む。けれど範子は、掴んだ足首から手を離そうとしない。天地が目まぐるしく入れかわる。

 真央はそれでも、壁を認めた。

 コンクリートで固められた、煉瓦の壁だ。分厚く硬い、凶器でもある。


 真央は獰猛な笑みを浮かべた。範子が纏まりつく足を引き寄せる。

 どうせぶつかるのならお前が先に行けと腕を伸ばす。襟首を掴んだ。

 反転。まず範子の躰が壁に打ちつけられた。壁が罅入る。一瞬遅れて真央が続き、とうとう壁に穴が開いた。粉砕された煉瓦が崩れ、乾いた音を立てる。

 巻き上げられた土埃にまみれて、真央は苦悶の声をあげた。


「ぐぅ――っは、ぁ」


 強打した背中の痛みも忘れ、酸素を求めて口を開く。衝撃と痛みで横隔膜が痙攣している。肺は、まるで息を吸おうとしてくれない。

 ふいに右足首に激痛が走り、真央は眉間に皺を寄せた。

 負った傷の総量は確実に範子の方が多いというのに。先に立ち、足首を両手で掴んでいた。靴を脱がせるつもりなのか、レザーベルトに指までかけている。


 靴が欲しいのかい?


 いますぐ靴への妄執から解放してやる、と真央は唇の両端を吊りあげた。

 足首を取られたまま、仰向けに寝転ばされた体勢のまま、感覚を頼りに左の踵で印を彫りこむ。魔女の蹴りだ。


 踵を力任せに振り下ろし、一音の詠唱を終える。

 範子は狙いに気付いたのか手を離した。しかし、逃げようと躰を捻る寸前、瞬いてしまった。流血が目に流れ込んだのだ。

 瞬目反射が、範子の一〇〇ミリ秒を奪った。


「欲しいなら、くれてやる!」


 真央は決死の覚悟で、左足を振り上げた。

 両者の足元で刹那の間もなく大地が隆起し、破裂する。土砂を巻き上げ粉塵散らし、魔女の靴が塔のようにそびえた。

 真央は、自分ごと範子を蹴り飛ばしたのだ。


 暗い夜空を、二人の魔女が、襤褸切れのようになりながら舞った。

 真央は全身を引き裂くような痛苦に耐えて、仇敵の姿を探した。

 魔女は、燃え散る塵に紛れて、真央を見ていた。この期に及んで、哀れむかのように嗤ってすらいる。その紫色の双眸が、侮蔑を含んでいるように思えた。


 なんだその目は。なんでボクを嗤う!


 痛みを忘れるほどの怒り。真央の表情かおが狂気に歪む。

 ふいに上昇が止まり、一瞬の静寂と浮遊感が満ちた。落下が始まる。土と血に汚れたシャツが風にはためく。

 真央は足を振って姿勢を整え、大口を開いた大地を見据えた。


 着地と同時に蹴りつけてやる。


 真央は対象の位置を把握しようと首を振った。

 範子は器用にも地面と水平に躰を倒し、こちらを見つめていた。

 妖しく笑う唇が、小さく動いた。


 ご

 き

 げ

 ん

 よ

 う


 その瞬間、真央は自分が致命的なミスを犯したと理解した。

 戦いの熱にやられて罠を失念していた。

 もし蹴りあげてしまった壁にも仕掛けがあったなら――。

 いや、ないはずがない。


 範子はまるでピルエットでも始めるかのように両手を広げ、猫のようにしなやかに腰を捻った。躰が旋回する。足が一本、前に伸びる。靴先が風を切っている。

 降り落ちる煉瓦の欠片がいくつか輝きだした。

 それは魔法だった。バラバラに砕けた陣に新たな解釈を与えているのだ。


 しかし、いくら範子といえど、空中で詠唱することはできないはずだ。着地時に最速の一撃を入れさえすれば、最悪、相打ちには持ち込めるはず――。

 真央は愕然とした。煉瓦がひとつ、範子の靴先に吸い寄せられていく。


「その手があったか」


 真央の躰の奥で『チャッカ』が怯えた。ただ死なずにすむことだけを祈った。

 巧の作った禁制靴の、黄色いトゥキャップが、赤茶けた煉瓦にぶつかる。術は範子の得意としていた、大地を穿たんとする踏みつけである。

 ただし、みどり色の雷霆らいていを伴っていた。

 

 雷が真央を呑みこみ垂直に落ちる。雷鳴が音をかき消し、稲光が視界を奪う。

 落下点は陥没し、黒焦げ、火花を散らした。

 間もなく、真央は痛みを認識できなくなった。

   

 雷を落とした範子は、地面にぶつかる寸前、風切り音を頼りに虚空を蹴った。靴一足分だけ垣根が剥がれる。まるでそこに石でもあるかのように、を足場にして軽やかに跳躍する。反らした背中でゆるやかな弧を描き、残り火燻る大地に降りた。


「ご堪能いただけまして?」


 言って、範子は即席クレーターの中心に転がる真央に跪礼をした。

 同時に舌打ち。

 とっておきのゴシックパンツはすでに裾がボロボロで、左腕は痛みが激しく動かしにくい。見れば靴もかなりの傷を負っている。

 ふぅ、と短く悲痛を吐き捨て、範子は言った。


「これでようやく、落ち着いて話ができますわ」

「……その薄気味悪い喋り方をやめろ。ドラ子」


 爆心地に倒れていた真央が、地面をのた打ち躰を起こそうとしていた。


「……私はあなたに謝らないといけませんの」

「謝るだって?」


 真央は大地を踏みしめた。焼け焦げた土が赤熱している。生木が燻るように緩く煙が立ち上っている。どうやら範子の雷霆は、大部分を靴に受け止められたらしい。

 がづん、と打音を重ねて、真央が幽鬼のように立ち上がる。


「裏切者が、ボクに何を謝るっていうんだ!?」

「真央。あなたのお婆さまを、守れなかったこと」

「なっ……ボクを馬鹿にしてるのか!」

「――お願いだから、私の話を聞いて。ほんの少しの時間だけでいいから」


 範子の口調が変わった。

 拍子抜けした真央は、躰の芯から熱が逃げていくのを感じた。しかし、油断はしない。足元に刻んだ術式は残し、詠唱を可能としたまま訊く。


「……内容によっては、ボクはお前を殺すよ、ドラ子」

「えぇ。もし信じて頂けないのなら、私はあなたの靴を破壊してでも、お婆さまの仇を取らなくてはいけない」

「仇だって? 何を言ってる!? ボクは、お前が殺したって――」

「いくら靴が欲しくても、私が親友のお婆さまに手をかけると?」

「お前以外の誰がお婆さまを殺せたって言うんだ!」


 真央はそう叫びつつも、違和感に気付いていた。

 あの夜、真っ先に工房に駆けつけた真央は、罠に嵌って敗北を喫した――はずだ。

 正確には、自室の扉が叩かれ、開けなかった記憶しかない。あの夜の他の記憶はすっぽり抜け落ちているのだ。


 すべてが終わった後で、ユーズーに祖母が死んだと伝えられた。

 亡骸も残っていないと言われ、うやむやの内に事後処理が成された。

 気づけば、真央には範子への怒りだけが残っていた。


 そんなこと、ありえない。

 たしかに裏切りを働いたのだとは思う。だがあの夜、扉を叩いた範子は、何かを伝えようとしていたのではないか。そればかり何度も思い返して三年を過ごした。


「あの夜、なんでボクの部屋に来た?」

「やっぱり、いましたのね――その質問が、答えですわ」

「どういうこと? お婆さまを殺したのは誰?」

「ユーズー、またの名をムーチャー」

「それって……!」


 はぐれ魔女が呟いた名だ。ムーチャーから靴を手に入れたと言っていた。

 範子は深く息をつき、眉を寄せた。


「私はあなたに会えなかったあの夜、お婆さまのところに行きましたの。お婆さまは真実を語ってくれましたわ。魔女の家がユーズーに支配されていることも、頻出した追放者たちは、ユーズーにとって都合の悪い魔女だったことも。そして――真央。あなたを守るために、お婆さまはユーズーを討とうとしていた」

「でも……でも、ユーズーくらい、お婆さまが本気になれば楽に倒せたはずだ!」

「それは――」


 範子の声は続かなかった。代わりに、甲高い靴音が響く。

 その音を耳にした途端、真央の瞳が光を失う。


「その質問には、私が答えてあげるわネ。チャッカ」


 下草を踏み越え、ユーズーが姿を現した。

 足元は範子の持っていたデザイン画と同じサイハイブーツである。使用したのは魅了の魔術を発展させた、支配の力だ。


「今のあなたみたいに、この靴で、操らせてもらったの。あんまり抵抗するから、ちょっとやり過ぎちゃってね? 悪魔になっちゃったのよぉ。ごめんなさいねぇ」


 その声を、真央は霞がかった頭の中で聞いた。

 躰が自由に動かない。意識は残っていても、指先どころか口先すらも動かせない。範子に「逃げて」の一言すら言ってやれない。


「ユーズー!」


 叫んだ範子は、魔女の蹴りを呼ぼうとした。

 しかしそれより早く、


「なぁにかしらぁ? クソガキ!」


 ユーズーの詠唱に従い、真央の足がステップを刻んだ。

 範子は対峙する真央の背に、戦鎚を握る騎兵を幻視した。

 打音。

 戦槌は、呼び出された魔女の蹴りごと、範子の躰を殴打した。

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