対峙、魔女と狩人
ユーズーがつなぎ真央が開いた扉の先は、森だった。周囲の空気が少し薄い。真夏の夜だというのに虫の声がしない。それどころか、生き物の気配すらなかった。
猫の目のように細い月の下で、真央は首を振った。
扉はどうやら物置小屋に繋げられたらしい。薄い木製のドアには、黒い顔料で、両端が上を向いた馬の蹄鉄が描かれている。邪視を防ぐ呪いの一種だろうか。右下の隅に、擦って消したような跡があった。
真央は、もしやと鼻を近づけ手で扇いだ。線の消された辺りから、仄かにヘーゼルナッツの香りがする。そんな手法は魔女の家で学んでいないが、まさか邪視を惹きつけるための呪いなのだろうか。だとすれば、罠以外の何物でもない。
真央は半ば感心し、半ば呆れて前髪を掻き上げた。
小道の先に、壁に囲まれた建物があった。鐘を失った鐘楼の屋根の上で、十字架の影が星空を黒く塗りつぶしている。
怯えはいらない。祖母から受け継いだ、起源靴を履いているのだ。
祖母は一度魔女の靴に足を通せば恐怖を感じる暇はないと言っていた。それは狩人の血を引く真央も同じだ。漆黒の双眸は教会へと近づくたびに輝きを増す。
真央は
赤茶けた錆が剥がれ、耳障りな音が静寂を破る。教会の礼拝堂まで真っすぐ伸びる石畳は風化し、ミントと思しき草がそこかしこで小さな葉陰を作っていた。
人と魔女の気配が、ひとつずつ。
真央は両手をポケットの中で握りしめ、窓を睨んだ。窓辺に人影がある。範子にしては反応が遅い。彼女ならすでに逃げるか、攻撃を仕掛けてきているはずなのに。
真央は深く息を吸い込んだ。
「チャッカが来たぞ! ドラ子! お前を蹴り殺しに来た!」
咆哮が血を湧き立たせる。怒りと闘争心を秘め、じっと範子が姿を現すのを待つ。
範子は知る限りで唯一の逃げおおせた魔女だ。罠を用意しておかないはずがない。場所は敵の敷地内。通ってきた小道、前庭、石畳、目に見えずとも必ず何かが仕込まれているはずだ。
なんの前触れもなく仕掛けられれば、絶対的な不利に置かれる。
しかし、真央は、ただ待った。
粛清者として、あるいは、自由への羨望を抱えた復讐者として、突っ立っていた。
範子の血統に縛られぬがゆえの奔放な振る舞い。ずっと、羨やんでいた。羨望は空白の三年をかけて
出てこい、裏切者め。
胸中の黒い炎に応じるかのように、大扉が軋んだ。ゆるゆると押し開かれ、
裏切りの魔女が、姿を見せた。
漆黒の衣装に身を包み、龍鳴範子が踵を鳴らす。顔には冷たい笑みを浮かべ、首をわずかに傾け、花を背負っているかのように優雅に歩む。
まさか、正面から歩いてくるとは。
真央の両眼に殺意が漲る。範子が姿をみせた瞬間から、瞬きに要する〇.二秒すら危険を伴う。瞼を落としてはならない。石畳に、前庭のいたるところに、二十メートル強の空白すらも、すべてが罠だ。
真央は待った。靴音が教会を巻き込まずにすむ距離まで近づくのを待っていた。
一歩、二歩、三歩……。
真央は紫眼を睨んで注意を引きつつ、踵をごく僅か上げた。
魔女同士の戦闘では、第一撃が最も重要となる。喉と音声による詠唱が失われた現代、足で刻む詠唱や魔法陣は、扱う術の強さに比例し長大かつ難解になっていく。
言い換えれば、入念に準備を重ねた初撃こそが、最強の一撃となりうるのだ。
魔女の縄張りに足を踏み込んだ瞬間から安全圏は消失する。
ましてや相手は龍鳴範子で、しかも巧の作った起源靴を履いている。
もとより真央に次ぐ戦闘能力を発揮する魔女だ。修めた術は多岐にわたり、時間さえかければ真央をも凌ぐのである。蜘蛛が視認できない網を張るように、一挙手一投足すべてを次への布石とするはずだ。
対する真央は戦闘以外に能がない。空間を渡る術は二流で、薬草学を交えた術も、欺瞞や説得や誘惑の類にしても、初歩より先には進めない。
しかし、ただひとつだけ、天才に勝ると自負する魔術体系がある。
純粋な、力による、破壊の魔術だ。
我が身を顧みず強大な術を一瞬で構築する闘争心も、それを可能とする無尽蔵の精神力も、そして無遠慮に術を放つ冷酷さも、真央のすべてが戦に特化している。
起源靴に足を通した今ならば、罠すら跡形もなく叩き潰せる。
真央は範子の足元に目を向け続けた。微かだが、速度を落としている。教会――すなわち巧を人質として背後に置き、一方的に攻撃してくるつもりなのだろう。
させるものか。
範子の躰が、教会を巻き込まずに済む距離に入ろうとしていた。
一瞬が過ぎる間に、真央は上げていた踵を落とした。
コッ、と微かな詠唱音が鳴った。
範子の目が見開かれる。術は一音でほぼ完成していた。
真央は右足を半歩前に振りだし、つま先をついた。
間延びした時間の流れの中で、範子が口を開こうとしていた。何を言うつもりだったのか。もう知ることはないだろう。
左足を軸に旋回する真央の足元に術式が並ぶ。身を守る魔法陣はない。
魔女の戦鎚――ただひとつだけ誇る、人道から外れゆく一撃である。
「蹴り殺してやる」
不可視の垣根を越えて、真央の瞳が赤く輝く。拡大した瞳孔は流血を望む。
真央は一片の躊躇なく足を振りぬいた。つられるように、不可視の垣根の向こうから、ぬるり、と巨大な戦鎚が引きずり出された。
靴底が石畳を焼き潰す。踏み割ると同時に、戦鎚が猛然と振り下ろされた。
自らも不可視の垣根の向こうへ引きずり込まれかねない、捨て身の一撃だった。
戦槌が石畳を大きく陥没させ、爆音が教会を揺さぶる。砕けた石片が飛散し、黒々とした土煙が風に乗る。勝負は一瞬にして決した――かのように思えた。
真央は舌打ちした。戦鎚は盾を打ち抜いただけだ。
猛烈な速度で迫りくる様々な破片と破壊の残滓たる煙幕を背負って、両手を後方に伸ばした範子が、かっ飛んできた。飛翔しているのだ。
踏み抜いた足を戻す間はない。仕留め損ねた対価を払わねばならない。
真央は、歯を食いしばった。
範子が飛翔する数舜前、当人は狼狽させられていた。真央の性格からして怒声を発するのが先だと思っていた。仮に仕掛けてくるにしても、魔女狩りに慣れているゆえに、罠を警戒して防御を固めると推測していたのだ。
また、月明かりが細く、足元が見えなかったのも誤算だった。
範子は真央の僅かな前傾に気づけなかった。説得のため声をかけようとしたのと、小さな打音を耳にしたのは、ほぼ同じタイミングであった。
慌てた範子は、しかし、即座に前庭に張り巡らせていた最大の術を諦めた。可能な限り早く詠唱を刻む。罠としていた配していた陣を切り取っていく。
産み出すは尾白鷲の翼。それも黄銅色に輝く金属の翼だ。
盾代わりの翼が、不可視の垣根を越え始める。
間に合った――けど足りない!
範子の顔が歪む。降ってくる禍々しい巨大な戦鎚は、模造靴が喚びだす鎚とは次元が違う。真央の祖母が振るった戦鎚と遜色ない、破壊の化身に見えた。
かくなる上はと翼の維持をも放棄する。回避するほか生き延びる術はない。翼の盾に隠れて、靴底を削り切る覚悟で強引に陣を敷く。
――間に合え、間に合え、間に合え!
頭上の翼を通じて鎚の衝撃を感じた瞬間に、範子の術は発動した。地表の獲物を狩る鷲のように、低く、低く飛翔する。
間一髪、範子は戦槌の威力圏から逃れた。
しかし術の制御を欠いていた。
飛翔速度が高すぎるのだ。
飛翔術は制御がすこぶる難しく、範子をして最後の逃走手段と考えていた。
完全に出し抜き真央を視界の中心に捉えても、打つ手を考える余裕はなかった。先の一撃で魔法陣は粉砕されている。一部は飛翔のために使って消えた。空中では詠唱を重ねるのも難しい。
唯一思いついた攻撃は、相討ち覚悟の肉弾戦でしかなかった。
飛翔する範子と、真央の躰が、交錯する。
響く打音――。
戦鎚と鋼の翼がつくる爆音に負けじと、二匹の魔女が吼えた。
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