語られる真実
月明かりの差し込む部屋で、布擦れの音が断続的に響いていた。
ときに激しく、ときにゆったりと、それでいてリズミカルに。吐息と、木の軋む微かな音が混ざっていた。
「――なんだか、とてもいけないことをしている気分になりますわ」
範子は艶やかな声でそう呟いた。なぜか頬が仄かに上気している。
灯はなく、青白い月の光はか細く、その妖しげな表情は巧には窺えない。
巧は指先に巻きつけていた布の切れ端を解き、そっと範子の靴のつま先を撫でた。
「靴磨きってのは、長く履き続けたいなら、かかしちゃいけない作業だよ」
「そうはおっしゃられましても、殿方に靴磨きをさせるなんて……」
いささか演技がかった、煽情的な声音だ。
巧は口を真一文字に結び、じっと範子の顔を見上げた。
「――ごめんなさい。あまり一生懸命だから、少しふざけてみたくなりましたの」
そう言いながら、範子は悪戯っぽく微笑んだ。口元を隠しているのは恥ずかしいからではなく、笑いを堪えきれなくなったからだろう。
「あのね。俺は半人前でも、靴職人なの。靴を磨くのも、修理するのも仕事なの」
呆れまじりに口にして目を逸らす。
「まぁ、修理する道具がないんだけどさ」
巧は指に布を巻きなおし、今度は踵についていた擦れた痕を拭った。
縄を解いてもらってからすでに十分近く、ひたすら靴を磨き続けていた。もちろん靴磨きの道具はロクにないので代用品である。黴の生えたシーツを剥ぎ、細かく裂いた切れ端だ。
なんでも、ここは放棄された教会であり、住居としても使われていないので、好きにしていいらしい。
巧は新しい布を指先に数回巻いて、汚れを拭き取っていく。しつこい汚れには窓の霜を含ませた布を使い、その後で乾拭き。アッパーの
仕上げ磨きには窓にかかっていた古びたカーテンを使う。フランネル――つまり綿百パーセントの厚手の布だ。さすがの範子も、苦笑していた。
そうして無心になって磨いていると、どうしても不満が漏れる。
「なんで魔女ってのは、靴の扱いが、雑なんだよ……」
「……ほとんどの魔女にとって、靴はただの魔道具に過ぎませんわ」
乾いた靴磨きの音に混じって、範子の落ち着いた声がした。
「もちろん、私にとっては違いますけれど」
「だったらなんでこんな汚れたまんまなの? 何か、踵もすごい減ってるしさ」
「申し訳ありません。時間がなくて。少し、新しい術を練習していましたの」
「へぇ? やっぱり練習しないとなんだ。あの……ダンスみたいなやつ」
「歩法詠唱ですわ。そらで踏めなければ実践はとても……。それにこの靴は特別ですから、一から構築しなおさなくてはいけなくて。でも森村さまの靴のおかげで、とても楽しい時間になりましたわ」
靴を渡した日にも耳にした声色だ。その静かな感謝と抑えきれない喜びの混じった言葉を聞くだけで、うぶ毛を撫でられたようにくすぐったくなる。
ただ、同時に違和感も覚えてしまう。
巧の作った靴を自慢げに履く範子は、なぜ魔女の家と、真央と敵対するのか。
和やかな空気が名残惜しい。けれど範子と真央は対峙するのだ。自らの責任は自ら取らなければならない。そのためなら、嫌われる覚悟だってできる。
「……なんで、魔女の家に追われてんの?」
巧の躰はまるで告白の返答を待つかのように強張った。
しかし範子は、さも当然かのように答えた。
「それを尋ねる必要がありまして?」
言って、磨き終わっていると言わんばかりに、つま先をあげた。
巧は肯定的な回答と解釈し、足首から手を離した。
「ある。これは俺が龍鳴さんのために作った靴だし、そのせいで怪我人が出てる」
「……そのうえ、放置しておけば死人まで出るようになりますわ」
巧は眉間に皺を寄せた。
「だったら、なおさら俺は聞いておかなくちゃ。魔女の家で何があったんだ?」
「魔女の家で何があったのか……素晴らしい訊ね方ですわ、森村さま」
範子は、巧に椅子に座るよう促し、窓の外に浮かぶ大きく欠けた月を眺めた。
「私が魔女の家を追放されたのは三年前。でも、理由がありましたの」
「俺はその理由が聞きたい」
「分かっていましてよ。ただ知ってしまえば、森村さまも逃れられなくなりますわ」
「もう十分巻き込まれてる。それに俺は逃げられやしないんだろ?」
「……たしかに、そうですわね……」
範子は胸に手を当て、ひとつ深呼吸をした。紫の瞳が巧を真っすぐ見つめる。
「森村さまが連れられて行ったのは、正しくは魔女の家ではありませんの」
巧は言葉の意味が一息に理解できず、開いた口から声を出すこともできなかった。
語られはじめた範子の話は、魔女の家で聞かされた話と食い違っていた。
魔女の家が世界に十三箇所あるというのは事実だという。しかし巧が連れこまれたのは、正当性を失った、言わば十四番目といってもいい魔女の家なのだそうだ。
日本には長らく魔女の家がなかった。今、魔女の家を自称しているのは、第二次大戦後に、広大なアジアにあった一か所を移設したものだ。そして、全ての始まりとなる反逆は移設の混乱に乗じて始まった。
静かに、深く、誰にも気づかれないように。
そしてその反逆を企てたのは――、
「ユーズーですわ。あの男は、ある一人の魔女を脅迫して、反逆を完遂しましたの」
「あの、オカマのおっさんが……? でも、反逆って、誰に対して?」
「ほかの魔女の家と言うべきか、当時の家長というべきか……少なくとも、戦中は戦闘術に長けた魔女が尊ばれていて、ユーズーはこと
「権力欲……ああ、それでか……」
巧は今になって、ユーズーが抱いていた靴への奇妙な愛着を理解した。
つま先の大きく反りあがったプーレーヌは権力を象徴する靴だ。歩く必要も戦う必要もない者でなければ、履いて生活することはできない。つま先に彫られていた穴飾りは、雄牛の角。力の象徴でもある。
「足元を見れば、その人が分かるとは言うけどさ……」
「私は、森村さまに嘘を吐くような真似は、いたしませんわ」
「何か証拠とかないの? 言葉だけで信じてくれって言われてもさ……」
範子は小さくかぶりを振った。
「ユーズーがやったという直接的な証拠はまだですけれど、状況証拠だけなら」
「状況証拠……って?」
「――なぜ大人の魔女が少ないのか。なぜ彼が家長なのか。そして、なぜ新たな起源靴の制作が行われていないのか。それらと森村さまをつなぐ証拠が――ここに」
範子は胸元から大型のロケットペンダントを引き出し、中から小さく畳まれた紙を取り出した。開かれた古い紙には、靴の絵が描かれていた。
「これ……爺ちゃんの!?」
巧は紙を受け取り、食い入るように見つめた。描かれているのは祖父が好むとは到底思えない、真っ黄色のサイハイブーツであった。右下には祖父のサインもある。
すいと範子の手が滑り込み、紙を再び取り上げた。
「お爺さまは、ご子息、つまり森村さまのお父上を人質に、靴を作らされましたの」
権力を求めたユーズーにとって、最大の障害は、当時最強の魔女と呼ばれた真央の祖母だった。戦闘術を不得手としていたユーズーは、しかし交渉や幻惑といった術には長けていた。
その力は秘密裏に身内に向けられ、裏側から魔女の家を乗っ取っていく。
「お爺さまがユーズーの企みに気づいた時には、すでに人質を取られていたのでしょう。ただ、簡単には従わなかった。新宿での森村さまと、同じ判断をしましたの」
「俺と同じ判断? それって……靴を作れるのは自分だけだから……」
「そう。自分の命を賭して、契約を結ぶように迫ったのだと思いますわ。契約は魔女にとって絶対。ユーズーは靴を手に入れ、引き換えにお二人から手を引いた」
「……でもそれ、全部推測の話だろ?」
「仰る通り。信じていただけるかどうかは、森村さまにお任せします。私は……」
立ち上がった範子は、窓の外に目を向けた。
「真央を説得しなくてはいけませんわ」
「桜木さん? 来るのが分かるの?」
「えぇ、もうじきに。森村さまの靴は魔女の家のもの、それを辿ってくるはずですわ。私の予想通りなら、真央は一人でくるはず。真央さえ説得できれば、ユーズーを落とすのはそれほど難しい話ではなくなりますわ」
範子は凛としてそう答えた。
巧は魔女の家で履かされたローファーに目を落とした。
真央と範子と、どちらを信じるべきなのか。
真央の異常なまでの範子への執着と、苛烈なまでの怒り。
範子の示してくれた祖父のデザイン画と、親友を気遣う瞳。
信じるべきは――、
靴の話をする、範子の喜びに満ちた微笑みだ。
巧はペニーローファーに挟み込まれた
「これを。龍鳴さんと桜木さんで一枚づつ。戦う前に身に着けて」
「これは……森村さま」
護符を受け取った範子は、
「お心遣い、ありがとうございます」
「気を付けて。桜木さん、多分、めちゃくちゃ強いよ」
「存じていますわ。だから、ここにおびき寄せましたの」
くすりと微笑を浮かべて、範子は部屋を後にした。
と、同時。
中庭から響く雷鳴のごとき怒号が、窓を震わせた。
「チャッカが来たぞ! 龍鳴範子! お前を蹴り殺しに来た!」
夏真っ盛りの月夜に虫の声が一切しない。立木も芝生も静謐そのもので、古びた石畳の上にたった一人で、チャッカ――桜木真央は佇んでいた。
両手をポケットに突っ込んで、ようやくたどり着いたと言わんばかりに教会を睨みつけ、ただ、突っ立っていた。
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