魔女の決闘

黒衣の魔女はかく語る

 瞼を開いた巧は、自分が椅子に縛り付けられていると気付いた。

 いったい、どれほどの時間が経ったのか。

 ふいに靴音が聞こえ、巧は顔をあげた。黄色いトゥーキャップには見覚えがある。


「なんでこんなことするの? 龍鳴さんなら、俺を抑え込むくらい、楽勝だろ?」


 そう尋ね、巧は身を乗り出そうとした。椅子に拘束された両手に痛みが走る。縄は背もたれを通っているらしく、椅子の足が床と擦すれて軋んだ。

 足元のささくれ立った床板は、まるでその下を蛇が這い回っているかのように、波打っていた。


 巧の脳裏に、異様な光景が蘇る。

 色や質感が剥がれ上がって露わになった、世界の姿だ。

 なにもないように見えていた空間が剥落し、ずっとそこにいた何かが現れた。


 爬虫類のような肌で、目に痛いほどの極彩色が斑紋様に広がっていて、斑紋自体が表皮を移動していた。細く節くれだった、手とも足ともつかない何かが八本、コチコチと音を立てて蠢いていた。三メートルほどの体躯をもち、普通の動物なら背中というべきであろう場所に、目とも口ともとれる裂け目があった。一瞬、裂け目が震えたのを見た。その荒涼とした嘶きはただ悍ましく、悍ましく、悍ましく――。


 ふいに頭を撫でられ、巧は我に返った。呼吸をするのも忘れていたらしい。


「――あれは、あれはなんだったんだ?」

「ごめんなさい。不可視の垣根の向こうへお連れするのは、まだ時期尚早でした」


 生理的な恐怖が、巧の頬を伝う。

 範子は指先で巧の髪を梳いた。


「私たち魔女は、ただと呼んでいて、あそこから力を借りていますの」

「世界? 不可視の垣根? なんだったんだ? あの、あの」


 巧は思い出した。

 音を絞りだす切れ目の奥から、何かがこちらを見ていた。

 ひゅっと息を吸い込み、叫びだす寸前、範子の両手が頬を包み込む。


「落ち着いてくださいませ。不可視の垣根を越えない限り、彼らは森村さまに触れることすら叶いませんわ」


 水に濡れたアメシストのような双眸が、巧の顔を覗き込んでいた。


「それに森村さまなら、きっと不可視の垣根を超えても大丈夫。森村さまは、魔女としてのたしかな血統を持っておられますもの」

「……それ、桜木さんも言ってたな……不可視の垣根って? 俺が見たのは何だ?」

「……チャッカ――真央が? ……そう」


 躰を起こした範子は、部屋の隅から古びた椅子を運んだ。


「不可視の垣根というのは、その名の通り、垣根ですわ」

「それじゃ、答えになってないよ」


 対面に座った範子は足をゆったりと組み、目線を宙に彷徨わせる。言葉を選んでいるかのように、目を瞑り、首を巡らせ、やがて困ったように息を吐いた。


「魔女がなぜ魔女と呼ばれるかはご存じでして?」

「なんでって……なんで?」


 言われてみれば、魔女の魔女たる所以など、調べてみようと思ったことすらない。なんとなく三角帽子にマント、それにプーレーヌの老婆を想像するだけだ。歴史上実際にあったという魔女狩りなんて遠すぎて、全部ひっくるめて『昔』でしかない。

 範子は声を殺して笑った。


「色々と諸説ありますが、魔女は垣根を乗り越える者、という意味だそうですの。他には……悪魔信仰を持つ者たち、という意味もあったそうですわ」

「えぇと……それがその……アレと、関係が?」

「もちろん。森村さまの見た……なんというか、得体の知れない生き物。アレが古い魔女弾圧者たちの言う、悪魔でしてよ? 魔女は、彼らから力を借りてきましたの」

「あれが悪魔? あんなのに力を借りる?」


 巧の素朴な質問に「ええ」と短い回答があった。

 範子は腕を組み、唇を撫でた。


「何百年も前から――それこそ魔女なんて単語が存在しない頃から、私たちは彼らの力を借りて叡智を得てきましたの。たまたま、あそこにいたのは私たちの言葉が通じなかったけれど、意思疎通ができる悪魔もいましてよ?」


 我知らず、巧は唾を飲み込んでいた。真夏で空調もついていない小部屋だというのに、妙な肌寒さを感じる。部屋には椅子が二脚と黴臭そうなベッドくらいしか見当たらない。しかし、同じ空間に、あの、見えない住人がいるのだ。


「……もしかして、不可視の垣根ってのは、あいつらにも見えてるわけ?」

「そう。さすがは森村さまですわ。人の世界は、不可視の垣根が守っているから、秩序を保っていられますの。正しい世界がどちらなのかは置いておくとして、私たち魔女は、その垣根を飛び越えて行き来できますのよ」


 そう言って、範子は誇らしげに尾白鷲を模したという靴を指さした。つまり――、


「魔女の靴の力に依って?」

「仰る通りですわ」


 範子は首を縦に振った。 

 巧は、得体の知れない革の正体を理解した。注文と一緒に持ち込んできた革は、悪魔の表皮を鞣したものだ。つま先に縫いつけた黄色い革片に見覚えがある。

 

 今でこそ色はくすんでいるが、悪魔の体表で蠢いていた鮮やかな黄と似ている。

 巧は革の部材が何なのか、次々と思い至った。リボンは体毛を織り上げ、底材はあの世界の樹木だ。全てが不可視の垣根を超えて持ち込まれたに違いない。


「――でも、どうやってその革をこっち側に持ってきたんだ?」

「素晴らしい質問ですわ。森村さま。例えば皮なら、鞣せば持ち込めますわ」

「じゃあ、どうやって鞣すんだ? というか、まずあいつらを殺すのか?」


 範子はふるふると首を横に振った。緩く巻かれた茶色い髪が揺れ、初めて会ったあの日と同じ、潮騒の香りが、巧の鼻孔をくすぐる。


「森村さまならお分かりにならなくて? 皮を鞣して革にする技術は――」

「門外不出、か」

「仰る通りですわ。技術は隠蔽されるものですから、私も存じておりません」


 知らなくても無理はないと思う。職人の技術は、古ければ古いほど、言語という形で教えてもらえなくなる。技術の秘匿は、何もそれを生業として成り立たせるためだけに行うのではない。言語化が困難な技術を習得させるために最も効率がいいからでもあるのだ。


 たとえば、師が弟子に目で盗めと指示するとき、それは必ずしも言語化できないことを意味するわけではない。例えば目で盗むという行為そのものを習得させるためであり、自発的に技術をより高みに導こうとする意志を求められている。


 祖父にはしょっちゅう『いいかい? よく見ておくんだよ』と言われた。『よく見る』ことは、最も古い指導法であり、また最も難しい修練の始まりでもある。手取り足取り教えてもらったとしても、研がねばなまる。見方を伝えられなければ技術はそこで完結してしまう。完結した技術系は、進歩もまた失うのだ。

 そういえば、と巧は祖父の手つきを思い返し、口元を緩めた。


「森村さま? どうかなされまして?」

「いや、別に、なんでもなくて」

「それならなぜ――泣いておられますの?」

「……爺ちゃんを思い出しちゃって」


 いったい何の涙なのか。頬を伝って落ちる温かさは、気持ち悪いような、恥ずかしいような。いずれにしても、流れ落ちるに任せておくには、居心地が悪かった。


「龍鳴さん。手の縄、外してくれない? 俺は魔法なんて使えないんだしさ」

「それをしてしまっては、なんのために連れてきたのか分かりませんわ」

「なんで連れてきたのかなんて、もうどうでもいいよ」

「どうでもいい、とはまた。本当に、お聞きになりたいとは思いませんの?」


 巧は首を左右に振った。目尻に残っていた涙がぽつぽつと流れて、煩わしさが増すばかりだ。しかし、そんなことよりも、まずは祖父の教えを守らなければ。


「聞きたいのはそんな話じゃないし、それより、やらなきゃいけないことがある」

「やらなければいけないこと……? なんですの?」

「決まってる」


 巧は、ここぞとばかりに口の端をあげた。


「靴磨きだよ。龍鳴さんは、靴の手入れが雑すぎるよ」


 長い沈黙が、二人だけの、小さな部屋に訪れた。

 二人とも真顔のまま、意味を頭の中で反芻するかのように沈黙は続いた。範子が失笑するまでの間に、巧は、あっれぇおかしいな真っ当なこと言ったつもりなんだけど、などと冷や汗を垂らした。

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