闇に紛れて誘う声

「うおゎっ!?」


 と、巧は首をすぼめて頭を庇った。ついさきほど曲った角の奥――真央たちの入っていった新宿二丁目の端も端にあるダンスクラブから、爆発音がしたのである。

 まるで隣国からミサイルでも飛んできたのかと思った。止まった車も、ビルの窓ガラスまでもが、恐怖に震えていた。


「っパねぇな……さすが姐さん……!」


 護衛役のはずのスータリが角を覗き込み、口を半開きにして呟いた。

 つられたように他の魔女も覗きこむ。巧も好奇心に負けて目を向ける。

 瞬間、バカじゃねぇの? と、胸中で口にしていた。

 

 開いた口が塞がらない。ビルの屋上部分は吹き飛び、壁面に大穴が開いていた。どうやら二階の床まで一部なくなっているらしい。バラバラと断続的に聞こえてくるのは、空高く舞い上がったコンクリート片が降り落ちる音だろう。歩行者は道路に伏せ、中には気絶したのか、寝転がったまま動かないのもいる。

 巧は、耳障りな警報音に顔をしかめた。


「……無茶、しすぎじゃね?」

「俺も分かんねぇけど。多分、チャッカ姐さんが、本気で蹴ったんだよ」


 と、路面を蹴りつつスータリが答えた。


「蹴っただけで、あんななるか?」

「正直、前に見たときより、威力があがってる」

「前?」

「そうだよ」


 スータリは声を潜めた。


「二年前だったかな、魔女の家で裏切り者が出てな。そんときとか、マジでパなかったンだよ。まぁあんときは制御不足だったらしいけど」

「へぇ……そりゃすごいな……」


 巧の答えは棒読みだった。実感が湧かない。つい数時間前に一緒に買い物していた女の子が、今はビルの爆破解体をしている。赤くなったり慌てたり、はしゃぐ足取りが妙に子供っぽくて、面白い人だと思いかけていたのに。それが。


「……魔女って、怖ぇね」


 巧は誰に言うでもなく呟いた。

 が、しかし、


「私は違いましてよ?」


 返答があった。よく通る、そのくせコロコロとした声色には、聞き憶えがある。特徴的すぎて耳に残ってしまう口調は――、


「龍鳴さん!?」


 巧は勢い振りむいた。

 範子が妖艶な笑みを浮かべていた。相変わらずのゴシックで、けれど今日はパンツスタイルで、泰然としている。昨日今日の間になにかあったのか、少しやつれているようにも思えた。


 一拍か二拍か遅れて、魔女たちが殺気づく。真っ先に行動を開始したのはスータリだ。右足を軸に転回しだす。だが、機先を制したのは範子の方だった。


「余計なことはしないよう、お願いいたしますわ」


 その冷たい声色だけで、スータリが動きを止めた。迂闊には動けないのだろう。

 それは巧も同じだ。どう声をかければいいのか分からない。

 落ち着き払った佇まい。しかし、まるで日の当たらない谷を延々と歩いてきたかのような切迫感は、触れれば血を見る茨のそれだ。


「あれが今の本気、ですのね」


 範子は、そこにいる魔女たちを無視して、呟いた。

 通りの先を見ていた紫眼が、巧に向く。


「お待たせいたしました、森村さま。かどわかしに参りましたわ?」


 蠱惑的な声色に、しかし巧は怖れを抱いた。是非を問うつもりなど無いだろう。

 青紫の空の下、闇に紛れる本物の魔女が、誘っていた。

 スータリが震える声で叫んだ。


「させるわけねぇだろ! チャッカ姐さんから言われて――」

「安心して? 殺しはしませんわ」


 やめろ。そう叫ぶ暇すらなかった。

 すでに範子の足元で魔法陣が輝いている。小石が転がるような小さな音がした。

 地面すれすれの空間から湾曲した黒い柱が伸びる。鷲の爪だ。六本の鋭い爪が、正確無比に五人の魔女を貫く。残る一本は巧の股下を掠めていった。


「が、あ、あ、ああぁぁぁぁぁぁ!」


 魔女たちが苦痛に喘ぎ、穿たれた穴から鮮血が迸る。

 果敢にも、スータリは足を振って着地した。靴を囲むように細い円陣が浮かび上がっている。着地の瞬間を利用し、最後の力で魔法陣を作ったのだろう。

 突然の惨劇に通行人の悲鳴があがる。にわかに人も集まりだした。


 しかし範子は気にも留めていないようだった。魔女たちを貫いた時点で一人は戦意を失っていないと気づいていたらしい。踵が浅く上がっている。後は下ろすだけだ。

 止めなかったら、殺されちまう! 


「やめろ!」


 巧の声を受け、範子は長い睫毛を瞬かせた。音を立てないように、踵が静かに地に降りる。

 スータリは派手に切り裂かれた胸を押さえてうずくまった。野次馬たちが、映画の撮影か、はたまた喧嘩かと、声をあげていた。

 巧は喉を絞った。躰が強張り、呼吸が苦しい。


「こ、殺したら、俺はついてったりしないからな……」


 声が震える。お客様用の口調じゃいられない。ただ、自分の価値は分かった。人を殺傷せしめてでも欲するのなら、それを利用しない手はない。


「殺したら、俺は、舌、噛み切ってでも――」

「それは困ってしまいますわ。私は、森村さまにお力添えいただきたいので」


 範子が傾げた首は、出来るのか、と言外に語る。

 巧は歯を食いしばり、虚勢を張った。


「俺が靴を作ったせいで人が死ぬなら、それより早く、死んでやるっての」

「ご安心を、この程度では彼らは死にませんわ」


 範子は薄く笑って、生白い手を差しだしてきた。


「それと、私と手を繋いでいただけまして?」


 巧の背後でスータリがうめく。溢れ出た血が路面に広がっていく。


「あいつの言う通りにしとけ……殺されたりは、しねぇよ……」

「分かってる。龍鳴さんが欲しいのは、俺の腕だけなんだろうから」


 巧は、笑う膝を叩いて踏みだし、範子に頼んだ。


「ついてくから、こいつら、見逃してやってくれるよな?」

「最初から殺すつもりなどございません。ただの脅しでしてよ?」


 何だって?

 と巧が口にするより早く、範子がその手を取った。剣呑な雰囲気に似つかわしくない暖かさ。巧の掌が冷え切っているのかもしれない。

 範子はクスリと微笑み、踵を打ち合わせた。一度、二度、三度。


「お、おい!」


 巧は慌てて叫んだ。範子が倒れる魔女たちに止めを刺す気なのだと思った。

 しかし範子は首を小さく横に振り、踊るように巧の周りを一周した。


「不可視の垣根を飛び越えるだけですわ。どうか、お気を強くお持ちくださいませ」


 詠唱音が打ち鳴らされる。その瞬間、森村巧は異景を目にした。

 視界に収まる世界の全てが、風化したテンペラ画のように、空に向かって剥がれ上がっていく。世界が極彩色に染まる。すぐ脇で八足の獣が唸っていた。可聴域を超えた音が耳奥を殴り脳を揺さぶる。言い表しがたい臭気が鼻をつき、腹の底を撫でた。

 巧の正気は、ぷつりと途切れた。



 桜木真央は破壊の余韻を味わうように伸びあがった。雲ひとつない群青に、欠けた月がぽつり。切断されたパナマハットが滑り落ち、解けた髪が風に流れた。

 こつん、こつん、と天井の破片が降っていた。千切れた配管が水飛沫を噴いていた。舞い散る埃が水分を得て、罅だらけの床に滲みこんでいく。

 真央は自らが作った暴力的なルーフバルコニーの端まで歩いた。


 いくらか、気が晴れていた。


 ふらふらと空を泳ぐ紙きれを掴む。はぐれ魔女が処分しようとしていたものだ。見た目はまるっきりLSDのシートである。しかし鼻を近づけると、仄かに、甘い草の香りがした。不可視の垣根を渡るための儀式に使う、魔女の秘薬に違いない。

 中世の魔女が悪魔と取引するために生み出した薬品である。現代では、管理外の魔女が新たな禁制靴を手に入れるために製造し、信徒たちに使わせていることが多い。


「君らは、いったい何人、あっちに送り込んだんだい?」


 真央は対岸のビル壁に開いた大穴を見やった。赤光明滅する人工的な洞穴に、一人の男が倒れている。立ち上がるどころか、指一本動かさない。

 真央は気怠さを吐き出し、前髪を掻き上げた。


「……やりすぎたかな?」

「チャッカ! 大丈夫!? って、うわ! なにこれ!?」


 サパタリアが押しつぶされた扉を飛び越え、部屋に入ってきた。

 振り向いた真央は、シートを差しだし、肩越しに対岸のビルを示した。


「ボスはあっち。こいつを持ってたよ。それも大量に。いや、なかなか驚かされた」

「秘薬だね。道理で禁制靴を履いてる奴が多いわけだ」


 サパタリアはシートを受け取り、真央の親指が示す先を覗き込んだ。


「……殺した?」

「多分死んでない、と、いいんだけどね。森村くんの作った靴は怖い。気づいた?」

「なにを?」

「壁さ。まるまる両断されたよ。ボクの作った盾ごとね」


 言いつつ、真央は右足のつま先を立てた。足首のあたりまで斜めに切り傷がある。


「盾ごと!? いくらアイツの作った起源靴だからって、そんな――」

「そう。驚いた。つい、本気で蹴り返してしまったよ。そのせいでこんなことに。ただ向こうが壁を作らなかったのは予想外だった。下手したらほんとに殺してるかも」


 真央の眉が歪む。だとしたら大失態だ。『ムーチャー』なる人物にたどり着けなくなってしまう。いずれにしても――、


「さっさと靴とあいつを回収して帰ろう。ボクは森村くんのところに戻るよ」

「了解。と、髪の毛。とりあえず、これで結んどきなよ」


 サパタリアは頭に巻いていたバンダナを解き、差し出した。

 真央は苦笑しながら受け取った。すぐに後ろ髪をまとめようとして、舌打ち。


「……まさか、汗臭いとか言わないよね?」

「もちろん違うよ。髪の毛がね……別に伸ばしてたわけじゃないけど、頭にくる」


 毛先の一センチか二センチほどでしかないのに、不当に躰をまさぐられたかのようだ。全くもって腹立たしい。もう一発くらい蹴りつけてやろうか。

 厳しい顔になった真央を見て、サパタリアがため息をついた。


「大騒ぎになってんだから、早くお気に入りのカレのトコに行ってやんなよ」

「お気にいりって、何バカなこと言ってるのさ」


 真央は平静を装い軽く答えてみせた。いつもの『チャッカ』でいなくては。

 サパタリアは意外そうに背を反らせた。まじまじと真央の足元から顔まで眺める。


「――ま、いいけどね。あとは任せて」

「うん。頼んだよ。またあとでね」


 言いつつ、真央は後ろ髪を簡単に結わい、通り過ぎ間際にサパタリアの頬を撫でた。「だから」と抗議が聞こえた頃には、足元に見える二階に飛び降りている。


「そういうのやめてって!」


 サパタリアの照れの入った怒声が、夜の街に響いた。

 無くなった壁から道路に飛び降りると、集まっていた野次馬たちがどよめいた。じきに警察や消防が出てくるだろう。到着する頃には魔女の家から交渉人――モンクスも同着し、すべてが有耶無耶になるはずだ。

 ……さすがに、少し派手にやりすぎたかもしれないが。


 小走りで角を曲がった真央は、絶句した。

 人だかりができていた。野次馬の握るスマートフォンが一点に向いている。漂ってくるのは血の臭い。その姿は見えなくても、何が起きたのかは分かる。


 舌打ちした真央は強く地面を蹴りつけた。響く靴音は獣の咆哮となり一目を惹く。その間につま先を滑らせ旋回、灰色の路面に丸い光跡を引く。その中心点で靴音を鳴らす。すると、幾何学的な文様が浮かび上がった。幻惑術は最も苦手な部類で、扱える術も限られる。


 音で集めた好奇の視線に、真央の幻惑の術がぶつかる。不可視の波紋が逆位相の波として伝播し、魔女の気配を打ち消していく。

 野次馬の目は虚ろになり、興味を失ったかのように散会した。

 掃けた人の輪の中心で、スータリが血の池に浸っていた。


「スータリ。大丈夫かい? すぐに助けがくるよ」

「ね、姐さん……サーセン……やられ、ました……」

「ドラ子かい?」


 スータリは荒い息をつきながら、力なく頷いた。

 龍鳴範子。真央の瞳が朱に染まる。


「ドラ子は森村くんを連れて、どこに行ったんだい?」

「不可視の垣根の向こうに、消えました……」

「なんだって? ドラ子が垣根を超えた? 森村くんの靴はそこまで……?」


 呼び掛けても無駄だった。スータリは意識を手放していて、目覚めそうもない。

 すぐに魔女の家から交渉術に長けた魔女たちが現れた。

 真央は部下の回収を任せて、魔女の家に戻った。

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