新宿を歩く魔女

 桜木真央は、自分が浮ついているのを感じていた。

 変装があった方がいい、という巧の主張に従い、数年ぶりにの服飾店に入ったのだが、これが思いのほか新鮮な感覚で、目に映るもの全てが気になって仕方がない。

 護衛対象として巧を伴っている今、極めて危険な状態だ。


 けれど、と真央は思う。

 巧の主張もまた全く正しく、変装は間違いなく必要な行為なのだ。実際、真央自身は欺瞞の術などロクに扱えないし、かといって得意な部下に任せるのは戦闘面で不安が残る。なにしろ相手は龍鳴範子だ。真央以外に巧を守ることはできない。


 だから、仕方ないのである。

 仕方ないのだが――、

 まさか、魔女として生きてた自分が、こんな体験をできるとは!


 魔女以外の同世代、しかも異性と店を回れるなんて。ファッションのことなどまるで分からないが、それゆえに、どれが似合うか尋ねられるなんて。

 なにもかもが初めての体験だった。


 今の位階を拝命した日の高揚感に勝るとも劣らない。むしろ儀式の日は飲まされた秘薬の影響もあっただろうから、きっと今の方が楽しい。多分。 

 真央は緩みそうになる口角に気を張りつつ、巧に手を引かれて帽子を見て回る。


「夏だし、麦わらとかでいいんじゃない?」


 なんて巧が勧めてくるのはつばが広く、納得いかない。趣味に合わないわけでもないけれど、やはりかつて祖父のようなカンカン帽ボーダーがいい。祖父は日本生まれで、よく白い麻のジャケットに袖を通して、象牙色のハットを被っていた。


 もちろん、流行りでないらしいのは見ればわかる。けれど、どうしても目は似たような型を追う。対照的に、巧は中折れ帽子を推してきて、都度お互い唸って戻す。

 そうして見て回った二人の結論は、折衷案によるパナマハットだった。

 本来なら、自分で買うだけなのに折れてもらう必要もない。しかし真央は、二人で決めたというだけで、胸が躍った。


 なにしろ儀式で被った三角帽子以来の経験なのである。

 せっかくだからと、巧の「サングラスがあれば完璧」にも従う。

 変装(?)を終えて鏡を見た真央は、思わずにやけてしまった。鏡の前に『チャッカ』がいない。こんなことなら、ダブルカフスなんか着てこなければよかった。


「暑い? 汗が――」

「えっ、あっ。ああ、大丈夫だよ」


 巧の気遣いにすら焦る。

 真央は、暑いのは誰のせいさと、三つ編みを持ち上げうなじにハンカチを当てた。

 服装に頭を悩ませるのは、範子が追放されて以来――。

 そう思った瞬間、視界が真っ赤に染まるかのような怒りを覚えた。躰を流れる血が一気に冷却され、意識に『チャッカ』が帰還する。


「とりあえず、これで変装はよさそうだね」

「――ぇ? と、分かった。それじゃあ俺は眺めながら歩くよ」


 巧は急変した真央の態度に戸惑ったようだった。しかし、すぐに黒い双眸から焦点が抜け落ちる。顔の緊張感も消え、まるで眠気に耐える子犬のようだ。

 珍しい靴をみたときの狂喜乱舞も苦手だが、どちらかといえば、魔女の家で時折見せたスカした雰囲気の方がよほど鼻につく。まるで範子のようで――、

 

 ――同族嫌悪みたいなものか。


 真央は魔女の家でのふるまいを自嘲し、巧の腕を取った。

 店を出ると、時刻はすでに十七時を過ぎていた。

 八月の新宿はまだ日が高い。


 追放された魔女が巣作りをするなら、どんな土地を選ぶのか。

 伝聞ながら、だいたいの見当はついていた。森村靴巧房を訪れる前に回収した禁制靴の持ち主――三ケ木のような女が馴染める場所だ。

 つまり、歓楽街の隙間となっている地域である。


「って、あれ? 桜木さん?」


 傍らの巧がなにかに気づいたのか、声をあげた。魔女が近くにいるのか。

 真央は警戒を強めて、小声でいった。


「どこにいる?」

「あ、いや、そうじゃなくて」


 気抜けする。高めた緊張が無為に終わる瞬間は一番嫌いだ。躰の中の『チャッカ』が、怒鳴りつけろと言っている。しかし、そうしても委縮させるだけだ。

 胸の内側で膨らむものを、吐息に隠して吐きだす。


「じゃあ、なんだい?」

「いや、その、ごめん。なんでこんな何もないトコなのかな、と思って」


 巧は申し訳なさそうな顔をして、辺りを見回した。

 東西南北、全方位の区画の端にそびえる巨大なビルやマンションは、周辺の小さな建造物を守る防壁のようにも見える。

 なにしろ、西へ向かえば歌舞伎町があり、南下すれば二丁目だ。

 魔女の身としては恐れるような場所でもないが、巧が慣れないのも無理はない。


「すぐ近くに歓楽街。それにマイノリティの集まる街もある。少し間をとって外国人も多く出入りする。ここはその中でも空白地帯にあたるんだよね?」


 真央は知識として頭につめこまれている情報を口に出しつつ、それらしき人影を路地に求めた。ちょうど通りの先に、ホスト然とした男が一人。顎先で巧に示す。


「まだ少し早いけど、もうじきに逢魔が時だよ、森村くん」

「……根城があるなら、この辺りから出てくるか、あるいは戻ってくるか?」

「もしくは準備のために、一度集まるのか。いずれにしても、可能性は高い」

「納得した――って言っても、あんまりウロついてるとバレそうだけど……」


 一理ある。いくら変装したといっても、十六歳が二人だ。ウロチョロしていれば人目にもつくし、人気ひとけがなければ見つけるのも難しい。


「じゃあ、一旦、入り口のあたりまで戻ろうか」


 そう言って顔を向けると、巧の目が見開かれていた。


「……いたかい?」


 巧が小さく頷いた。


「こっちに向かってる?」


 今度は一拍の間を置き、かぶりを振った。つまり魔女の靴を履いた誰かが通り過ぎていったのだ。いま戦闘を仕掛けるのは避けたい。雑魚は泳がせて本命を狩る。最大目標は、伸びた枝葉ではなく幹――龍鳴範子だ。

 真央はとっさに巧の腕に絡みつき、耳打ちした。


「ボクの方を見て。離れたらすぐにボクの手を引いて、追いかけて」


 向けられた巧の顔は笑いそうになるほど引きつり、躰が火照っていた。

 もっとも、真央自身も躰は火照ってはいた。怒りのせいではあるが。


「あいつだ。あのレザースニーカーの男」


 角を曲がってすぐ、巧が呟いた。

 日陰を歩く人影は三人。こちらに向かって歩いてくるのは除外する。並んで歩く二人の男。一人はくすんだワインレッドのシャツを着ていて、もう片方はTシャツから覗く左腕に派手なタトゥーを入れている。

 どちらの靴も、遠目ではただの革靴とスニーカーにしか見えないが――。


「タトゥーの方。あんまいい出来じゃないけど、あいつのだけ色がついて見える」


 巧が確信をもって言うなら、見間違いはありえない。自身は気づいていないが、起源靴を作れる才気は魔女の中でも希少で、超凡の域にある。相当の血脈が背後に連なっているのか、あるいは範子のように偶然発露した力なのか――。

 いずれにしても、巧は天賦の魔女に違いなく、なれば彼の目は魔眼に等しい。


「それで、どうするんだ?」

尾行ツケるのは専門じゃないからね。仲間に頼むことにしてる」


 言って、真央は踵を小さく鳴らした。ごく初歩的な伝聞の魔術コーリングである。

 元は空間を捻じ曲げて移動する魔女の、救難信号だ。狩られる側に察知されないように、受信は発信に比して複雑かつ難解な術式でしか残っていない。扱うには高度な知識と技術が必要で、はぐれ魔女に気付かれることはまずあり得ない。


”はぐれ魔女を見つけた。追尾を引き継いでくれるかい?”


 真央の飛ばす命令は、常に疑問形を取る。しかし彼女を長とするカヴンの成員は拒否しない。魔女狩りに特化した集団で、長の意志が行動原理となっているのだ。


 ほどなくして、どこからともなく、派手な服の女とスーツ姿の男が現れた。両者は視線すら交わさないが、カヴンに属する追跡者である。

 斥候の男が、肩越しに真央を見た。

 真央は左腕を一撫でし、指先で歩く人のジェスチャーをした。

 斥候がつま先でアスファルトを叩いたのを確認し、真央は口を開いた。


「もう大丈夫。引き継いでもらった。一旦離れよう」

「了解」


 巧はやけに素直に了承し、角を曲がった。


「出てきた瞬間に気付いたのかい?」

「え? ……まぁね。つま先でトントンやってたし、すぐ分かったよ」

「大したものだね。森村くんの目があれば、禁制靴の回収はもっと捗りそうだ」


 巧の唇の両端が、嫌そうに下がった。


「冗談でもやめてくれよ。怖いから」


 真央は目立たぬように声を殺して笑い、謝罪した。


「それじゃあ代わりに面白い話を。彼らは尾行や調査を専門にしているけど――」

「ああ。だからシークレットシューズ?」


 巧は呆れたように失笑し、返答を待たずに続けた。


「もしかして、エドガー・フーバーも魔女だったとか?」

「……誰だい? それ?」

「誰って、初代FBI長官の――」

「……ああ、なるほど。どうだったかな。ボクは聞いたことはないけど」


 真央は感心を通り越して閉口した。さすがに靴についてはよく知っている。


「ただ、秘密結社に所属してた、なんて話は聞いたことがあるね」

「えぇ……? やっぱ魔女の世界って、そういうオカルト的な話も信じんの?」

「どうかな。それらも含めて、古い魔女が流した欺瞞情報かもしれないしね」


 旧い魔女たちは長い時をかけて、欺瞞情報を流布しすぎた。いまや本物の魔女でも情報の真贋を判断するのは難しくなっている。

 唸り始めた巧をなだめつつ、真央は斥候の報告を待った。

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