魔女狩り
森村巧の異能
真央に手を引かれて扉をくぐり抜けた巧は、目の前の光景に絶句した。
恐ろしくなるほどの人の数だ。会社員のおっちゃんから若者まで、そして服装についてもむちゃくちゃな、色とりどりの人の流れが作る大河だ。
生活圏が東京の外にある巧にとって、ある意味で異世界のようなその場所は――。
「し、新宿…………東口、か……?」
巧は巨大なモニターを見上げながら呟いた。手を引かれるままに街路樹の前まで移動し、腰を下ろす。
「へぇ、新宿ってこんな街なんだね」
「……はっ? えっ? 知らないの? 扉とかって、あちこち行くのに?」
真央は居心地悪そうに前髪を梳いた。
「いや、うん……その、ボクは普段ずっと魔女の家にいるし、遠距離の移動は全部ユーズーさまが開く扉を使うから、人の世界の地理には詳しくなくてね……」
「えと、どういう街なのか、とかも、知らない?」
「……話に聞いた程度なら……怖いとこだとか、魔都なんだとか……」
そう言って、真央はバツが悪そうに目を逸らした。
いつの時代の話だよ!
巧は心中でツッコミを入れ、また、前途に不安を覚えた。まるで新宿について知らない女の子を連れ、自分もよく知らない新宿を歩く。それだけで絶望的に思える。唯一の救いは、男の履く靴と顔、髪型をよく覚えていること。
黒のストレートチップを履く、日サロに通ってそうなアシンメトリーモヒカンの男など、そうそういるはずもない――が。
人、人、人。そして、靴、靴、靴。
新宿の雑踏を眺めて一足の靴を探すなぞ、そのまま『不可能』の比喩に使える。
「無理。無理だわ、こんなん」
「ん……どうしたんだい? 自分の作った靴なら分かるみたいなことを――」
「たしかに言った。言ったけど――残りの一足は黒ストなんだよ!」
巧は叫ばずにはいられなかった。奇異の視線などどうでもいい。
範子に渡したブーツならまだ見つけられる可能性はある。基本的な形こそありふれてはいても、極めて分かりやすい特徴がいくつもあるからだ。色づかいやリボンによる
しかし、黒単色のストレートチップは違う。
ビジネスマンにとってはド定番であり、革靴としてド定番であり、フォーマルでもカジュアルでも履きこなせる、万能デザインなのだ。まして巧の作った黒ストは内羽根式の短靴だ。日本国内だけで何百万足あるのか分からない。
真央は周囲に、平気です、なんでもないんです、などと言い訳し、
「森村くん、ちょっと落ち着いて――えぇと、あそこの喫茶店で、作戦会議しよう」
返事を待たずに巧の躰をひっぱり起こした。
巧は、ずるずると引きずられながら、一応は探してみた。
吐き捨てられたガムがへばりつく薄汚れた路面の上で、様々な靴が踊っていた。黒色に絞ることはできそうだ。短靴以外を除外する。判別はつま先だけでできる。
ストレート、プレーン、Uチップ、プレーン、ストレートストレート……。
頭、パンクするわ。
動き続ける雑踏の中でつま先を判別するなど、それこそ魔法のようだと思った。
巧は喫茶店に入ってすぐ、今日が土曜日だと知った。
範子に靴を渡してから丸々二十四時間が経過していることになる。
うだるような日差しにも拘わらず、窓の外を行きかう人々の密度は上昇している。
その意味では、休日の新宿駅前にある喫茶店に飛び込みテーブル席を得たのが、まず奇跡に等しい。まさか魔女の御業ということはあるまい。
うなだれる巧の対面で、ティーカップの置かれる音がした。
「それで? 靴を見分けられないって言ったかい?」
真央は前髪を掻き上げ、舌先で下唇を湿らせた。どうやら紅茶の味が気に食わないらしいらしい。砂糖をやたらに投入している。
巧はカプチーノを口に運んで、正直に言った。
「目が追いつかないんだよ」
巧の、というより、人間の動体視力と認識能力の限界だ。
「黒い靴でつま先がストレートかどうか見るので精いっぱい。顔まで見れない」
「顔が分からなくても、靴さえ見ればわかるって、そう言ったよね?」
「言った。たしかに言ったけどさ……無理。絶対無理だよ。あれだぜ?」
巧は目もくれずに窓の外を指さした。
「むしろ黒ストまで見極められた自分に驚いてるくらいだよ」
真央はティーカップを口に運び、片肘をついた。
「森村くんは、靴のどこを見て判別しようとしてるんだい?」
「どこって……色と、つま先と、羽根だよ」
「羽根」
呟くように言い、真央の目が巧に向く。真剣そのもの。しかし非難の色はない。
「あー、つまり、鳩目っていう、こう、靴紐を通す穴の周りがどういう構造かってことだよ。チャッカブーツなら革が外側についてるから外羽根。内側に縫いこむ形だったら内羽根式。そこまで見て、ようやく同じ靴かどうかわかる」
「もしかしたら……森村くんは、ちょっと細かく見過ぎなのかもしれないね」
「はぁ?」
巧の間の抜けた返答に、真央は背を反らした。窘めるように言う。
「たしかにキミの作った靴そのものを見つけられれば、話は早いんだけどね」
「と、いうと?」
「禁制靴さえ見つけられれば、はぐれ魔女を見つけられるのさ。魔女は巣づくりをするものだからね。つまり子供――手下を集めているはずだよ」
「えぇと、ファミリーとか、そういうことか?」
「……
手下もかよ、と思う。しかし魔女の靴かそうでないのかを判別するなら、見るべきは色でも形でもなく、その革を見慣れているかどうかだけでいい。
巧は短く息を吐きだし、外を眺めた。
牛革牛革馬革……情報量がまだ多すぎる。
巧は強く目を瞑り、自分の足を包むペニーローファーの皮革に意識を集中した。牛革とは違う感触だ。牛よりも柔らかく、柔軟性があり、靴に使うのだからもちろん破けにくい革だ。そして、この世のものとは違う、無機質な冷気。それを辿る。
そろそろと瞼を開く。靴への余計な情報を遮断する。普段と同じ目をしていればいいはずだ。つまり教室で授業終わりの鐘の音を待つ間の視界を再現すればいい。
巧は黒板に向かい背伸びをする実習生の足元を見るように、人混みを鑑賞した。
……ピンヒール、歩くの下手だな……蛇革、つま先尖らせすぎ……。
「……くん? ……森村くん? 聞こえてるかい?」
教室では聞こえるはずの無い声に、巧は引き戻された。
「と、悪い。ちょっと気抜けしてた」
「気抜けだって? 聞き捨てならないね」
巧は慌てて否定した。
「あ、いや違うんだって! 気を抜いて眺めれば、いけるかもしれないってこと!」
「ふぅん? まぁいいさ。判別できるならなんでもね。続けて」
そう言って、真央は肩を竦めた。テーブルの下で、ごく小さく踵が鳴る音がした。
巧は再び目を瞑り、息を大きく吐きだした。まだ取得する情報が多すぎる。必要な感覚は革への意識だけだ。風景を見るようにでは足らない。
つまり、思考すらも、邪魔なのだ。
さらに世界を遠くに見る。
視界に入る映像から人の気配を消していく。ただ、感性だけを働かせる。
…………。………………赤。
色彩の抜け落ちた世界に、色のついた靴があった。
「あった。あれだ」
巧は迷わず指さした。示す先には通り過ぎる一人の女。アンクルストラップの真っ赤なパンプスだ。間髪入れず「正解」という音が聞こえた。
急速に戻る意識が音の正体を認識する。真央の出した声だった。
「ごめん。ちょっと不安になって、森村くんを試した。彼女はボクが呼んだんだ」
「へ?」
と巧は間の抜けた声をこぼし、テーブルに突っ伏した。
「なんだよぉぉぉぉぉ……見っけたと思ったのにぃぃぃ」
「本当にごめん。謝るよ。キミの目はたしかだ。疑って悪かった」
言いつつ、真央はテーブルに両手を揃えておいて、頭を下げた。
「改めてお願いするよ。森村くん、靴を回収するのに、手を貸して欲しい」
下げられたままの真央の頭頂部は、涙で滲んで見えた。
「もうこういうのナシね。泣きたくなるから」
「分かった」
回答は簡潔だった。いつもの愛想笑いは消え、目は申し訳なさそうにしている。
すべてが演技だとしても、どのみち意志は変わらない。そもそもが自分で蒔いてしまった種なら、自分の作った靴が他人に害を及ぼすことなど、あってはならない。
とはいえ、
「ここで窓から眺めてるだけじゃ、見つけるのは難しくない?」
巧は顔を横に倒して、雑踏をみやった。もう変わった色は見当たらない。
真央は前髪をかきあげ、瞬いた。
「じゃあどうする?」
「例えばその、魔女が集まりそうなところを見回るとか……あ、顔覚えられてる?」
「ボクの? どうかな。いままで追っかけた魔女は必ず狩ってきたけど……」
そういや魔女狩りが専門だっけか、と巧は真央の顔を見つめた。上質な黒檀のような肌に、目を惹きつける彫りの深い目鼻立ち。それほど狂暴な人物には見えないが、異国の血を感じさせる相貌は人目を引くに間違いない。
「な、なんだい?」
真央は少し顎を引いて、ティーカップを手に取った。カフリンクスが差し込む陽光を受けて煌めく。香りもへったくれもない紅茶であっても、それお口に運ぶ所作はまるで貴族のようですらある。もっとも、ホンモノの貴族などクラスメイトどころか親の知人にもいないけれど。
起源だの血統だのが重要だと言うのなら、血がもたせた気品もあるのだろう。プーレーヌなんて珍妙な靴を履いてるオカマを『様』なんて敬称をつけて呼ぶのだし。
少なくとも休日の新宿ではやや浮いて――いやまて、それは巧も同じだ。
「念のため、変装した方がいいのかも」
「変装? なんのために?」
「魔女の集まりそうなところを探すんだろ? 顔がバレてたらまずいじゃん?」
「……そもそも、そんな危険なところに君を連れて行けと?」
真央は睨むような目をして言った。
巧は残り少なくなったコーヒーを飲み干して答えた。
「何も教えてくれないけど、時間ないんだろ? だったら居る可能性が高いトコに行った方がいいじゃん。それに靴も借りたし、さっきみたいに仲間を呼べばいいし」
言って、テーブルの下で踵を鳴らす。ただでさえ鋭い冷気が、躰の熱を奪いに来るような気がした。
巧は強張りかけた躰を弛緩させようと、肩を回した。
「別に叩きのめす現場までついて行こうとは思ってないよ。足手まといだろうしさ。場所を見つけるまで守ってくれればいいんだって――だろ?」
「そうは言ってもね」
真央はカップに手を伸ばし、止めた。すでに空になっていた。
「ちょうど飲み物もなくなった。しょうがないから、移動しようか」
「そうそう。しょうがないからな」
立ち上がった巧はしかし、尻のポケットに触れて真顔になった。
「……ええと、俺、金もってないんだけど」
「は?」
目を丸くした真央は、たっぷりと、そしてしっかり間を取って、失笑した。
「なにを言ってるのさ。大丈夫だよ。ボクが出すからさ」
「…………ゴチになります」
巧は顔を赤らめ、小声で答えた。今度から工房にいるときでも財布だけは肌身離さないようにしようと、固く心に誓った。
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