魔女の家
魔女の靴工房
森村巧は鼻で息をつき、自らの手を引く桜木真央に声をかけた。
「ところで……えーと、桜木さん」
「なんだって?」
真央はギギギと錆びついた歯車の音でも出しそうな様子で振り向いた。とはいえ握られた手の感触からすると、怒っているわけではないらしい。
訝しげに首を傾けて、思い出したかのように空いた手を振った。
「いや、ごめん。怒ってるわけじゃないよ。ただ、なんだろう……苗字で呼ばれるのは慣れてないんだ。ほら、みんな、ボクのことをチャッカって呼ぶからさ」
照れ笑いをしつつ頬を掻く仕草は、少年のようですらある。彫りの深い顔立ちも手伝って、目元が強い印象になるだけなのだろう。
巧は急に照れくさくなり足元に目をやった。気づけば床は大理石から、ブラックチェリーにも似た、ややくすんだ木目になっていた。
「あー……でも、俺はチャッカって呼ぶのは、なんか違和感があるというか……」
「なんでだい?」
「チャッカって、靴の方ばっかり想像しちゃって。それにほら、その靴」
巧は真央の靴を指さした。ズタズタと言ってもいい壊れっぷりである。
「あんまりチャッカブーツが好きなわけじゃなさそうだし」
「あぁ、なるほど」
真央は目を瞑り顎をあげた。気まずそうに唇を湿らせた。
「嫌いなわけじゃないよ。靴が身代わりになってくれるから、感謝してるくらいさ」
「靴が身代わり、ねぇ……でもチャッカってのはなぁ……」
どうにも靴のイメージが先行して、目の前の少女と結びつかない。チャッカブーツ自体は珍しいものではないし、真央が履いている型も、そこまで変わったモデルではない。しかし好んでいるならボロボロになるような履き方をしてくれるなとも思う。
真央は前髪を掻き上げ、困ったように笑った。
「食い下がるね。まぁキミは外の人間だし、好きに呼んでいいよ……かな?」
「かな? って……じゃあ、ほら、例えば学校でのあだ名とかってないの?」
「学校の意味によるね。ボクは魔女の家で学んだから、外の学校には行ってない」
「んじゃあ、真央……さん、とか?」
巧は下の名前を呼んだ時点で、気恥ずかしさに挫けていた。
「やっぱ、桜木さんで。なんか、こう、無理っぽい」
「……うん。なんだか照れるけど。慣れるよう努力はするよ」
仄かに頬を染めた真央は、目を逸らしつつ承諾した。なぜ苗字を呼ばれるのが恥ずかしいのかは理解しがたいが、その様を見れば気まずくもなる。
「えぇっと、その、そういやさっきの話なんだけど、龍鳴さんってここ出身――」
適当に話を繋ごうと無理した結果、地雷を踏みぬいてしまったらしい。見開かれた真央の黒い瞳は「そうだよ」と答える間にも色を変えていく。
「ドラ子は、ボクを蹴りつけ、出ていったのさ」
声音に滲む怒気に気圧され、巧の背筋は勝手に伸びた。ぐいぐい近づいてくる魔女の全身から殺気が溢れる。
迂闊な回答をすれば、地雷はサイズを倍化させて吹き飛ぶだろう。
「な、仲、悪いんスか……?」
これも地雷だったら、と思わずにはいられない。どうか爆発しないようにと願う。
幸運にも、真央の双眸から力が抜けた。どころか、瞳が泳いだ。
「そう……だと思う。正直、良く分からない」
真央は空いた手を腰に、窓の外に目を向けた。
つられた巧は、なんだこりゃ、と口にしそうになった。
窓の外には、翠色の雲が浮いていた。
窓際には、小刻みにうねって自立する、蔦植物が生えていた。咲いている花からするとトケイソウの類らしいが、鋼のような光沢をもつ白く長細い花弁は波打っていて、毒々しい紫の輪を幾重にも重ねている。メシベも悪魔の角のように捻じ曲がり、黒と橙色のボーダーカラーで見る者を威嚇しているかのようだ。
もちろん、巧は圧倒された。
「こ、ここ、どこ?」
「ん?」真央は血の気を失った巧の顔を見て言った。「ああ……そっか。いやでも、君は知らなくていいよ。ここは魔女の家。それだけ分かってればいいから」
「そ、そっスか……」
「それと、ボクに敬語はいらないよ。多分、同い年くらいだよね?」
「いえいえいえ。魔女ってくらいだし、数千歳とか言われても、もう驚かないし」
嘘だ。驚く。冗談でも言わないと気が変になりそうだっただけである。
真央は口元を緩めて、首を左右に振った。
「魔女と言っても躰は人間と同じだよ。ほとんどね」
一部は違うのかよ!?
という腹の奥底からせりあがってきた疑問は口の中に留め、巧は無感情に笑った。結局、龍鳴範子との関係については聞けずじまいである。龍鳴だからドラ子というあだ名なのだろうが、二人はどういう関係なのか。
しかし、聞いたところで真央は答えないだろうし、なによりさっきの目が怖い。
結果、巧は小気味良く動くボロボロのチャッカブーツを眺めるしかなかった。見ているだけでも、コッ、コッ、とキレのいい靴音が耳奥で再生される。
先ほど執務室で、真央は自分の靴をあまり評価していなかった。模造靴とやらと、起源靴とやらの違いを言っているのは分かる。しかし一般的な靴の定義でいけば、真央の履くチャッカブーツは、間違いなく高級靴に分類できる精度である。
その靴が、古ぼけた扉の前で止まった。
「それじゃあ、靴工房にようこそだね。森村くん。心の準備はいいかい?」
振りむいた真央の目は子供っぽく輝いていて、どこか自慢げだった。
巧は唾を飲み込み、頷いた。
真央が扉を押し開ける。途端に革とワックスと木型の香りが廊下に流れてきた。聞きなれた音もする。ゴシゴシと革を切り、ポンチを使い穴を開け、木型に固定するため釘を打ち込む。あるいはヒールを留めているのかも。
真央に連れられ期待と共に工房に入った巧は、「え」の単音を発して固まった。
延々と続く壁棚に、そこかしこに積まれた色とりどりの革――まではいい。工房には大きな作業台がたったふたつ。万力やミシンが並ぶのはいいとして、人が少ない。
巧は『魔女の家』の規模からして、見える範囲は作業台で埋まり、大勢の職人が懸命に靴と向き合っているとばかり思っていた。実際にいたのはたった五人だ。しかも動いているのは二人だけ。残りは作業台の前に座って、リラックスモードである。
「マジかよ……」
延々と続く壁棚に並べられた木型は埃まみれで、作業途中も数えるほどだ。
見れば分かる。趣味でやってる巧より、やっていない。
巧は全身の力が地の底に抜け落ちていくのを感じた。熱気があると思い込んでいた。趣味の工房と違い、職人として靴を向き合っているのだと――。
「あー。その、普通の靴工房とは、ちょっと、違うかも、だけど」
真央の声は上滑りしていた。説得するかのように言い訳を繰り返してすらいる。しかし巧の耳に、通り一遍の説明は通用しない。なにしろ彼自身もセミプロで、工房の有様をみれば実態など手に取るように分かるのだ。ゆえに、
「そっすか」
それだけを口にし、巧は唇の両端が下がっていくのを放置した。
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