魔女のように
奇妙な注文を安易に請け負ってから、三日。
巧は作業机を前に、範子と隣り合わせて座っていた。
慣れない素材を扱ったのと三日間の大半を作業に費やしたせいだ。疲れはとうに
巧は本日六杯目になる漆黒のコーヒーに口をつけ、白い紙箱を範子の前に置いた。
「こちらが、ご注文の品になります」
目を輝かせた範子が、受けとった箱をすぐに開く。中にはもちろん注文の靴が入っている。尾白鷹を模したというショートブーツだ。
「素晴らしい。素晴らしい出来栄えですわね……!」
範子は恍惚とした声で呟いた。白く細い指先が、慈しむようにブーツを撫でる。
巧は静かな緊張に耐え、狭まった喉から、慎重に声を絞り出した。
「どうですか? 出来栄えは」
範子の紫がかった瞳が、爛々と輝いていた。
「……完璧、ですわ」
「そう言っていただけると、俺も嬉しいですよ」
巧は頬を緩めずにはいられなかった。完徹で仕上げた甲斐がある。
「それで、その、履いてみてもよろしくて?」
「もちろんですよ。履いてやってください。もうその靴は龍鳴さんのものですから」
「私の靴……ありがとう存じます」
範子は礼を述べるやいなや、箱からブーツを取りだした。黄色いトゥーキャップが粘るような光沢を返す。
我ながらよい出来だと、巧は思った。素性の分からない革は繊維の走り方も変わっていて、酷く苦労させられた。渡された底材も変な固さがあったし、接着剤と書かれた薬品も指示通り混ぜると湯気が立ち薄気味悪かった。
しかし、やり遂げ、讃辞も頂いた。
――って、素足で履くのかよ!
感慨に浸っていた巧は虚をつかれた。まぁ靴はどう履こうが持ち主の自由だが。
真新しいブーツに範子の生白い右足が差し込まれていく。やや窮屈そうに前かがみになり、外踝側のリボンを締め上げて、蝶結びにして垂らす。つま先を立てるように数度曲げ伸ばしをして立ち上がり、靴底で軽く床を叩く。
コツン、とクリアな音が響いた。
その様子を、巧は固唾を飲んで見守っていた。
デザインは完璧。では履き心地は?
範子は、巧の不安を打ち消すかのように、微笑した。
「お見事、ですわ。森村さま」
巧は安堵の息をついた。
範子の幽かな鼻歌が、絹をすり合わせるような音と、混じる。
巧は完璧の二文字を噛み締め、至福の時に入ろうとした――のだが、
古めかしいブザーの音が、邪魔をした。自宅とは別に工房用に引かれた呼び鈴だ。
「こんなときに……ちょっと失礼しますね」
「えぇ、お気になさらず」
範子は微笑み返し、さっそく左足のつま先を曲げ伸ばしし始めていた。巧はその姿をみるだけで誇らしくなり、自然と背筋が伸びるのを感じた。またブザーが鳴った。
はいはい、いま行きますよ、と小走りで扉を開けに行く。
金属扉は勝手に開いた。
風変わりな客が、また一人。褐色の肌は何年もかけ磨き抜かれたオイルレザーのような深い艶をみせている。すっきりと通った高い鼻筋が凛々しい。
「やぁ、すごい木型だ。ここが森村靴巧房で、間違いなさそうだね」
客は黒髪を掻きあげ、柔らかな声で言った。手首に巻かれた時計が外光を反射していた。中性的な顔立ちに騙されかけたが、声色からするに女らしい。目線を落とすと、無地の白シャツも、その下にある慎ましやかな双丘に押し上げられていた。
捲り上げられた袖が、肌の色艶をより健康的にみせている。下は黒のデニムで、裾に蓮と睡蓮を縁取った模様が入れられていた。
そしてやはり、同年代の女性としては、珍しい靴を履いていた。
黒いチャッカブーツだ。なんの装飾もされていない、
チャッカブーツが横を向いた。
「いきなり人の足元をみるのは、少し失礼じゃないかな?」
巧ははっとして、客と視線を合わせた。
客は薄手のハンカチでうなじの汗を拭った。後ろで三つ編にした髪が揺れた。
「想像以上に若かったね。同い年くらいかな?」
「え、えっと?」
「念のため聞くけどキミがここの職人かい? それともお師匠さんがいたりとか?」
お師匠とはまた、妙な言い方をする。
「あー……いえ、もうその、靴屋はやってないんです」
「でも靴を売ってたよね?」
「靴の販売って、フリマのですか?」
「どうかな? 多分それだ。キミが職人なら、キミの作る靴に興味があるんだよ」
巧は客の前にもかかわらず、ため息をついてしまった。
最初は面白がっていた依頼でも、こう何度も続くと困る。あくまでも靴づくりは趣味の範囲でやっていて、人に売るとなると、そう気楽にはいかない。
それでもまぁ、客は客。訪ねてくれたのはありがたいし、断るにしても丁重に。
「申し訳ありません。ちょっと今は、注文を受けていないんです」
「そうなのかい? それは残念だ」
客は眉を跳ねあげ、すぐに訝しむような目をした。
「できれば、理由を教えてもらえると助かるんだけどね」
「理由ってほどでもないんですけどね――って、そうか。忘れてた」
巧は肩越しに工房を覗き込んだ。
「ええと、龍鳴さんのご紹介ですよね?」
「龍鳴だって?」
声色が変わった。腕組みをした手に筋が浮き立つ。
「龍鳴範子が、ここに来たのかな?」
「そうでしてよ?」
――ガツン、と靴の音がした。
振り向いた巧は、思わず息を飲み込んだ。
範子が、唇の両端を不気味に吊り上げていた。ついさきほど見た、プレゼントをもらった子供のような雰囲気は、欠片も残っていない。
その紫の瞳は、まるで笑っていなかった。
「だったら、どうしますの? チャッカ」
「決まってるだろ? ドラ子」
チャッカと呼ばれた客は、巧の胸に手をあて、そっと押しのけた。
「蹴り殺してやる」
「まぁ、お元気ですこと。チャッカ」
言うなり、範子は踵で床を蹴りつけた。僅かにつまみ上げられたスカートの裾下で靴が踊る。ネオンのような白と黄色の光跡を残して、つま先と踵が床を叩く――。
爆発音が、巧のすぐ横で鳴った。
傍らの少女――チャッカと呼ばれた少女が、靴底で床を打ったのだ。陰。巧を守るように巨大な黒い塊が現れた。それが何かは分からない。
巧の目には、チャッカブーツのつま先に見えた。ほとんど同時。強烈な突風に躰ごと吹き飛ばされていた。
道路に転がった巧が目を瞬かせると、シャッターがズタズタに切り裂かれていた。
「――ッ! こいつはキツいね」
巧は声の聞こえた方に首を振った。チャッカが、顔を歪めていた。額から鮮血を滴らせ、シャツも細かく引き裂かれている。巧は慌てて背後に目をやった。塀も、アスファルトも、巧とチャッカの真後ろ以外は、穴だらけになっていた。
チャッカは呆れたような片笑みを浮かべて、巧に言った。
「まったく。森村くんと言ったかい? キミ、大した靴を作ってくれるよ」
「ええ、ほんとに。森村さまの靴は、まさに私の求めた
恍惚の表情を浮かべた声の主が、引き裂かれたシャッターから悠然と歩み出る。
妖しく笑うその立ち姿は、まるで、魔女かなにかのようだった。
範子が首をぐらりと傾けた。チャッカに笑いかけている。
「どうしますの? チャッカ。その
「やっぱり起源靴か……まずいな」
チャッカは自身の履く靴に目をやり呟いた。
「森村くん。悪いんだけどね。ちょっと付き合ってもらうよ?」
「え? なに? なにすんの!?」
「悔しいけど、戦略的撤退さ」
そう言って、チャッカは、踵を大地に打ちつけた。まるでスレッジハンマーでコンクリートをぶち割るかのような音だった。踏まれた一点が赤熱している。チャッカはその場で高速旋回し始める。踵がアルファルトを削り取っていく。
足元に真っ赤に燃える円環を引いたチャッカは――、
蹴った。
チャッカと範子の間には約十メートルの空白があった。だというのに、まるで範子が目の前に立っているかのように、蹴りつけたのだ。
蹴り足に同期し、虚空に穴が開かれる。巨大な戦鎚が滑り出る。
そして、横なぎに振られた。
戦鎚の打面が風を切り裂き、範子を打ち据えようとしている。
しかし相対する範子は微苦笑を浮かべただけだった。チャッカが魔法陣を敷く間に、新たな詠唱を踏み終えていたのだ。
範子が左足を軸に旋回し、逆回し蹴りを打つ。
巧の目には、範子は迫る戦鎚を蹴ろうとしているように見えた。
だが実際に戦鎚を受け止めたのは、同じく何もない空間から突如として現れた、巨大な、白い尾羽であった。
尾羽と戦鎚が衝突する。耳をつんざく破砕音がした。
轟音とともに鎚が砕ける。チャッカの靴に数条の深い切り傷が刻まれる。その間も、範子の足元では、深紅のリボンが揺れていた。
「今日こそは、私の話も聞いてもらいましてよ?」
ぞっとするほど冷たい笑顔で、範子は、そう呟いた。
異常な事態を目の当たりにして、巧は気が遠くなっていくのを感じた。急速に薄れゆく意識。チャッカに襟首を掴まれた。
範子の靴先が路面を削っている。
巧が最後に目撃したのは、家ほどの大きさがある尾白鷲の、鋭い嘴だった。
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