終之巻

 兄新女は、猪女と共にあてがわれている室屋へ入った。

 中にはちいさな灯りがともされ、湯冷ましの水の甕も置いてある。脂肪が少し落ちた猪武者は、嬉しそうに言う。

欝色男ウツシコオとやらが、魚の干物を置いていった。うまいぞ」

欝色男ウツシコオ? あの物部の欝色謎ウツシコメの」

「年の離れた兄だ。日のもと日下くさか高宮たかみやを統べておるそうな。夕餉の大集会おおつどえのために、なにやらうまそうなものを船で運びこんでいた」

「かつては大きな銅鐸ぬてを盛んに作っていた物部の匠が、すすんでくろがねで剣を打ち、神の宝としてあがめている。そしていまだ銅鐸を吹く尾張などを、見下す。技術わざとは、人の心すら変えるものだな」

 二人がごろごろしていると、「宮つ子」の一人、男の子が呼びにきた。外はだいぶ暗くなっている。宴会がはじまっているらしい。

「おきたか、腹がすいた」

 兄新女はうたた寝していたらしい。ぼろぼろになった赤い比礼を首に巻き、母の形見たる袖無し革外套をかぶり、室屋から出た。

 冬でも半裸に近い猪女だが、この夕方だけは真新しい衣を羽織っている。

 少年について、宮の中央に案内された。広場には大きく火がたかれ、以前よりも多くの部族国家から代表者が集まっていた。

 その中には、山に住まう狩猟民や、海人らしい者もまじっている。さほど大きくない広場が、ごったがえしていた。その中で様々な意見が飛び交う。

「地霊隈に備えることも要るが、むしろ彼らとも誼をもとめるべきだ」

「いや、まだまだ狙いて攻め寄せるかもしけぬ」「しかし」「そうではない」

 それぞれの長老や代表がわめきあっている。だが黒田宮を統べる王は、言う。

「尾張の小止与オトヨにもすでに使いを出した。よい知らせもこよう。

 小止与とて、あえて我らと戦いを構えたいのではない。ただ己が国を戦いにまきこみたくなかったのだ。

 今や、邑々国々がいがみあう時ではない。山で狩りする者も、田作る者も」

 物部の精鋭をひきいる戦士長が表情を暗くした。小止与は遠い同族にあたる。

「しかるに賦斗邇フトニみことよ」

 と立ち上がったのは大目オーメだった。この一帯ではもっとも古い家柄を誇る。

「地霊隈どもは東の山に逃れたとはいえ、たやすくその恨みは捨てぬ。また我らの尊き山を穢され、かつ多くの命を失った。その恨みはいかに消すのか」

 一座がざわめいた。この場に集まる各地の代表やその代理は、さきの騒動で大なり小なり犠牲を出している。家族を、同族を失った者も、少なくない。

 そしてかの戦闘的狩猟部族が、自分たちのつくりあげてきたものを総て滅ぼそうと、今も願っていることも知っていた。

 今度は賦斗邇フトニ王にも、簡単に収拾出来そうにない。真向かいに立つ長身の女戦士の顔を、悲しげに見つめる。

 立ち上がった兄新女は輪の中心に入って行き、声を張り上げた。

「今こそ古き恨みを捨て国々が一つにまとまるべき時だ。今をおきて他はない!

 多くの血が流れたことは知る。されど恨みはあらたな恨みを生む。この俺は恨みを捨て、かく生き延びる。捨てられぬ者は、滅んだ。

 しかし覚えておくがいい。まずは恨みを作らぬことを。敵とはいえど、いつかは誼を結び、友となすべきことを。

 さもなくばお互い、殺し尽くすまで戦い抜くしかなくなる」

 磯城大県主や春日の王、鴨族、葛城族や巻向大市を管理する諸王は、口をつぐんでしまった。名も無き狩猟民の代表、川の民や海人の彦は目を輝かせる。

 大和族を統べる賦斗邇命、その王子国玖流クニクルや、百襲姫も息を飲んだように恩人を見つめている。

 少し気まずくなり、兄新女はゆっくりと後ずさりし、筵に腰をおろした。その背中を軽く、猪女がたたく。日に焼けた顔は、不敵にほほ笑んでいた。

 薪のはじける音だけが聞こえる。一陣の夜風が、火の粉をまいあげた。

 ややあって、大柄な中年戦士が立ち上がった。高貴な顔立ちと、豪華な衣装である。兄新女ははじめて見る顔だった。

「いまや邑ごとに巫女、神人かんどを出していたのでは、大いなる恨み、あらぶる魂、わけても大国魂おおくにたまを鎮めることはかなわぬ。

 我らは、部族連合うからのつながりに加わる」

 兄である欝色男ウツシコオの言葉に、少女戦士欝色謎ウツシコメと、物部技術集団を統率する真利尼マリネが瞳孔を開いた。

「我ら物部の民は、日々霊威ものを尊び日の神を仰ぐ。凡てひとえに安らかな暮らしを求めてのことだ。鉄を溶かしつるぎを打つのも、戦のためではない。同族を守るためだ」

「我らとて」

 と立ち上がったのは、磯城大県主の大目だった。

「それはよい」「我も」「俺もだ」と諸部族の代表者は次々に声をあげた。その様子を見つめていた賦斗邇は、涙ぐんだ。


 酒も回り、部族大集会はそのまま宴会に移行した。部族代表のみならず、宮の大人たちも次々と座に加わり、踊りを披露するなどしだした。

 ふと気づくと猪女がいない。食べるだけ食べ、にぎやかな雰囲気から逃げ出したらしい。兄新女も少し酔いやや疲れた。もう自分の出る幕はなさそうだった。

 用をたすふりをして立ち上がり、そのまま気づかれないように中央広場から離れた。

 宮の北側には湖水が広がり、鮮やかな月を映している。静かな波打ち際にたち、まだすこし冷たい夜風を楽しんでいた。

 すべて終わった。そして、まだなにも終わってはいない。

 自分はなにを求め、旅を続けているのか。これからどこへ向かい、何を見極めようとしているのか。まだ答えの出せていない自分が、もどかしい。

 背後で足音がした。ふりかえると、小柄な影がゆっくりと歩いている。足取りは不確かで、徘徊しているようにも見えた。

 それは次の大和の次の王たるべき、少年だった。

「いかがした、国玖流クニクル

 酒に酔ったのか顔をあからめ、呆然としている。

「え、兄新女……」

「王や彦たちが集う。次の王たる汝いましが、逃げてはならぬ」

「……欝色謎ウツシコメが」

「美しくたくましき物部の姫が、いかがした」

「た、真利尼マリネが密かにうちあけた。この俺に、娶わせたいと」

「おお、それはよい。物部の姫と大和の皇子みこたる汝が一つになるのか」

 国玖流は目を見開き、背の高い女戦士を見つめる。

「うれしくはないのか」

「そ、そんな。うれしいが、俺は……俺は」

 かつて大和の部族や葛城の邑にとって、河内の物部は北方の脅威だった。それが今や、婚姻を申し込むまでになったのだ。

 湖水周辺に新たな動きが、確実に生まれつつあった。

「さあ照れることはない。たけく美しい乙女、汝も気にいっていたではないか。

 戻りて、申し出をうけよ」

 照れているのか恐れているのか、それともまだ信じられないのか。当惑し時にぎこちない笑みを見せる少年の背中を押し、兄新女は宴会の場へと追い立てた。


 炎は、明け方前にほぼ消えていた。不寝番があくびをしながら見回った頃、宴に参加した人の半数は、それぞれの宿舎である室、高殿で眠っていた。

 残りは広場の筵の上で、好き勝手な格好で高いびきだった。

 不寝番は宮の大門「みかど」のところに戻った。いつもは二人が夜警で、しかも深夜には交替となる。

 今夜は宴会に借り出され、彼一人で御門を守っていた。

 が、その夜警担当も、門柱に寄りかかり槍を杖にして、居眠りをはじめた。

 夜明け前、一つの影が夜通し開け放たれていた大門に現れた。炊かれていたかがり火は、もう消えている。

 兄新女は真利尼から貰った新しい鉄剣を吊り外套をはおり、蔓を編んだかごに食料や褒美の玉などを詰め込んで、そっと黒田宮から出た。

 幸い、猪女は一晩中戻らなかった。別れぐらいは告げたかったが、仕方ない。

 長身の女戦士は「みかど」を出ると南下、すぐ近くの森へと入って一度立ち止まった。ふりかえると、黒田宮が見渡せる。

 もう一度振り向いて驚いた。二つの影が、行く手に立っている。

「どうしても行くの?」

 可憐で聞きなれた声は、白い衣に茜染めの比礼をかぶった、百襲姫ひめだった。となりには、少し男らしくなったように見えるその兄がいる。

「残ってくれれば、父もよろこぶ。皆は兄新女のことを、頼りにしている」

 兄新女は困ったように微笑んで、少女の頭に手をおいた。

「汝らはまだ、母や叔母のかたきよ。層富県そほのあがた波多はたの丘岬を滅ぼしたのは、そう古い話ではない。

 猪女の里も、あかがね八十健やそたけるたちも……

 でも昔のことはもういい。罪滅ぼしの為にも皆をまとめて、あたらしい国をつくって。この磯城洲しきしま、葛城や大和が一つにまとまるのよ」

「我が父は、まこと国々を一つにまとめられるのか」

「まとめたではないか。賦斗邇フトニみことで終わらなければ、汝が為せ、国玖流クニクルよ」

「俺が?」

「汝の力で足りぬなら、妹の持つ奇しき力を合わせよ。

 百襲姫が香具山や三輪の大神をまつる神女となり、おのおのの部族の心を合わせ、神に安らぎと実りを祈れ。

 汝らにかなわぬなら、汝と欝色謎ウツシコメの子が為せばよい。

 そしていつか邑々、国々が一つにまとまり、戦いのない平らかな天下あまのしたたを、大八洲国おおやしまぐにを作れ」

 兄と妹は顔を見合わせる。

「そのことこそが死んだものどもの魂を、まこと鎮めることになる。

 速熊鷲ハヤクマワシや、蛇雷ムイグルたちの。我が母も叔母も、猪女の母も……。いつか戦がなくなることを、俺も祈り続ける」

 夜明けはもうすぐだった。うっすらと朝霧が流れている。風は春の匂いを微かに運ぶ。

「すこやかに暮らせ」

 兄新女はふりかえり、東へとむかいだした。その行く手は明るい。

 道のかなたへ、長身の影が消えていくのを、国玖流は見つめ続けている。なぜこんなに悲しいのか、自分でもわからなかった。

 しかし涙だけはなんとかこらえられた。

「兄よ」

「……姫。兄新女はいつか、戻ってくるだろうか」

「わからぬ。されど……」

 それ以上答えなかった。少女は静かに涙をこぼした。兄は妹の小さな手を握り締めた。心にある決意が、確実にわいていた。


 兄新女は振り向かなかった。振り向けば、戻りたくなる。それはおそらく許されない。彼女はすすみ続けるしかなかった。

 どれぐらい歩いたろう。東の山々から、ついに朝日が顔をだした。森は途切れ、湿地と草原が入り乱れている。ところどころに雑木林も見えた。東へ伸びる道の先は、あの巻向の大市、その先は東の国々へむかう山の道だった。

 とくに行くあてはない。

「水臭いね」

 突如、道のわきにある古木の陰から声がした。

 兄新女は立ち止り、微笑んだ。すぐに小太りの女が、姿を表せた。猪の毛皮をまとい、足には皮製の「はばき」をつけている。

 猪女も旅姿だった。

「やつらのはなを明かすんじゃないのか」

「………さあね、忘れたよ」

 猪女は兄新女と並んで、朝日にむかって歩き出した。



 黒田の廬戸いおとの宮で部族連合を取り仕切っていた大倭根子日子おおやまとねこひこ賦斗邇ふとにの命、即ち孝霊天皇は様々なことに奔走し過労し、やがては床についた。

 かわって大和の王として部族連合から共立されたのは、嫡子たる大倭根子日子おおやまとねこひこ国玖流くにくるみことだった。

 彼は欝色謎、ついで物部軍事技術部族最大の実力者の妹をめとり、ますます物部・磯城系現地豪族との関係を強化していく。

 この国玖流王、即ち孝元天皇はその晩年、宮を内つ淡海、のちの大和海原の北へと進出させた。あらたな連合時代をつくるべく。

 そして彼の死後、そ孫である御間城入彦五十瓊殖尊みまきいりひこいにえのみことはついに、中つ国々最大の聖地、三輪山麓の巻向の統治者となった。

 そして大和から河内、伊賀周辺の部族国家を統一した。その国は「そらみつ大和」、やがて日の本と呼ばれることになる。

 その五十瓊殖尊いにえのみことこそ後世、御肇国天皇はつくにしらすすめらみこととも呼ばれる、崇神天皇である。

 その国家統一過程において、彼の大叔母たる偉大なる巫女、倭迹迹日やまとととひ百襲姫の果たした功績は、大きい。

 こうしてついに、大和朝廷は芽吹いたのである。




カンナクシメ         完

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聖巫女≪ひじりのみこ≫カンナクシメ 小松多聞 @gefreiter

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