終之巻
兄新女は、猪女と共にあてがわれている室屋へ入った。
中にはちいさな灯りがともされ、湯冷ましの水の甕も置いてある。脂肪が少し落ちた猪武者は、嬉しそうに言う。
「
「
「年の離れた兄だ。日の
「かつては大きな
二人がごろごろしていると、「宮つ子」の一人、男の子が呼びにきた。外はだいぶ暗くなっている。宴会がはじまっているらしい。
「おきたか、腹がすいた」
兄新女はうたた寝していたらしい。ぼろぼろになった赤い比礼を首に巻き、母の形見たる袖無し革外套をかぶり、室屋から出た。
冬でも半裸に近い猪女だが、この夕方だけは真新しい衣を羽織っている。
少年について、宮の中央に案内された。広場には大きく火がたかれ、以前よりも多くの部族国家から代表者が集まっていた。
その中には、山に住まう狩猟民や、海人らしい者もまじっている。さほど大きくない広場が、ごったがえしていた。その中で様々な意見が飛び交う。
「地霊隈に備えることも要るが、むしろ彼らとも誼をもとめるべきだ」
「いや、まだまだ狙いて攻め寄せるかもしけぬ」「しかし」「そうではない」
それぞれの長老や代表がわめきあっている。だが黒田宮を統べる王は、言う。
「尾張の
小止与とて、あえて我らと戦いを構えたいのではない。ただ己が国を戦いにまきこみたくなかったのだ。
今や、邑々国々がいがみあう時ではない。山で狩りする者も、田作る者も」
物部の精鋭をひきいる戦士長が表情を暗くした。小止与は遠い同族にあたる。
「しかるに
と立ち上がったのは
「地霊隈どもは東の山に逃れたとはいえ、たやすくその恨みは捨てぬ。また我らの尊き山を穢され、かつ多くの命を失った。その恨みはいかに消すのか」
一座がざわめいた。この場に集まる各地の代表やその代理は、さきの騒動で大なり小なり犠牲を出している。家族を、同族を失った者も、少なくない。
そしてかの戦闘的狩猟部族が、自分たちのつくりあげてきたものを総て滅ぼそうと、今も願っていることも知っていた。
今度は
立ち上がった兄新女は輪の中心に入って行き、声を張り上げた。
「今こそ古き恨みを捨て国々が一つにまとまるべき時だ。今をおきて他はない!
多くの血が流れたことは知る。されど恨みはあらたな恨みを生む。この俺は恨みを捨て、かく生き延びる。捨てられぬ者は、滅んだ。
しかし覚えておくがいい。まずは恨みを作らぬことを。敵とはいえど、いつかは誼を結び、友となすべきことを。
さもなくばお互い、殺し尽くすまで戦い抜くしかなくなる」
磯城大県主や春日の王、鴨族、葛城族や巻向大市を管理する諸王は、口をつぐんでしまった。名も無き狩猟民の代表、川の民や海人の彦は目を輝かせる。
大和族を統べる賦斗邇命、その
少し気まずくなり、兄新女はゆっくりと後ずさりし、筵に腰をおろした。その背中を軽く、猪女がたたく。日に焼けた顔は、不敵にほほ笑んでいた。
薪のはじける音だけが聞こえる。一陣の夜風が、火の粉をまいあげた。
ややあって、大柄な中年戦士が立ち上がった。高貴な顔立ちと、豪華な衣装である。兄新女ははじめて見る顔だった。
「いまや邑ごとに巫女、
我らは、
兄である
「我ら物部の民は、
「我らとて」
と立ち上がったのは、磯城大県主の大目だった。
「それはよい」「我も」「俺もだ」と諸部族の代表者は次々に声をあげた。その様子を見つめていた賦斗邇は、涙ぐんだ。
酒も回り、部族大集会はそのまま宴会に移行した。部族代表のみならず、宮の大人たちも次々と座に加わり、踊りを披露するなどしだした。
ふと気づくと猪女がいない。食べるだけ食べ、にぎやかな雰囲気から逃げ出したらしい。兄新女も少し酔いやや疲れた。もう自分の出る幕はなさそうだった。
用をたすふりをして立ち上がり、そのまま気づかれないように中央広場から離れた。
宮の北側には湖水が広がり、鮮やかな月を映している。静かな波打ち際にたち、まだすこし冷たい夜風を楽しんでいた。
すべて終わった。そして、まだなにも終わってはいない。
自分はなにを求め、旅を続けているのか。これからどこへ向かい、何を見極めようとしているのか。まだ答えの出せていない自分が、もどかしい。
背後で足音がした。ふりかえると、小柄な影がゆっくりと歩いている。足取りは不確かで、徘徊しているようにも見えた。
それは次の大和の次の王たるべき、少年だった。
「いかがした、
酒に酔ったのか顔をあからめ、呆然としている。
「え、兄新女……」
「王や彦たちが集う。次の王たる汝いましが、逃げてはならぬ」
「……
「美しくたくましき物部の姫が、いかがした」
「た、
「おお、それはよい。物部の姫と大和の
国玖流は目を見開き、背の高い女戦士を見つめる。
「うれしくはないのか」
「そ、そんな。うれしいが、俺は……俺は」
かつて大和の部族や葛城の邑にとって、河内の物部は北方の脅威だった。それが今や、婚姻を申し込むまでになったのだ。
湖水周辺に新たな動きが、確実に生まれつつあった。
「さあ照れることはない。たけく美しい乙女、汝も気にいっていたではないか。
戻りて、申し出をうけよ」
照れているのか恐れているのか、それともまだ信じられないのか。当惑し時にぎこちない笑みを見せる少年の背中を押し、兄新女は宴会の場へと追い立てた。
炎は、明け方前にほぼ消えていた。不寝番があくびをしながら見回った頃、宴に参加した人の半数は、それぞれの宿舎である室、高殿で眠っていた。
残りは広場の筵の上で、好き勝手な格好で高いびきだった。
不寝番は宮の大門「みかど」のところに戻った。いつもは二人が夜警で、しかも深夜には交替となる。
今夜は宴会に借り出され、彼一人で御門を守っていた。
が、その夜警担当も、門柱に寄りかかり槍を杖にして、居眠りをはじめた。
夜明け前、一つの影が夜通し開け放たれていた大門に現れた。炊かれていたかがり火は、もう消えている。
兄新女は真利尼から貰った新しい鉄剣を吊り外套をはおり、蔓を編んだかごに食料や褒美の玉などを詰め込んで、そっと黒田宮から出た。
幸い、猪女は一晩中戻らなかった。別れぐらいは告げたかったが、仕方ない。
長身の女戦士は「みかど」を出ると南下、すぐ近くの森へと入って一度立ち止まった。ふりかえると、黒田宮が見渡せる。
もう一度振り向いて驚いた。二つの影が、行く手に立っている。
「どうしても行くの?」
可憐で聞きなれた声は、白い衣に茜染めの比礼をかぶった、百襲姫ひめだった。となりには、少し男らしくなったように見えるその兄がいる。
「残ってくれれば、父もよろこぶ。皆は兄新女のことを、頼りにしている」
兄新女は困ったように微笑んで、少女の頭に手をおいた。
「汝らはまだ、母や叔母のかたきよ。
猪女の里も、
でも昔のことはもういい。罪滅ぼしの為にも皆をまとめて、あたらしい国をつくって。この
「我が父は、まこと国々を一つにまとめられるのか」
「まとめたではないか。
「俺が?」
「汝の力で足りぬなら、妹の持つ奇しき力を合わせよ。
百襲姫が香具山や三輪の大神をまつる神女となり、おのおのの部族の心を合わせ、神に安らぎと実りを祈れ。
汝らにかなわぬなら、汝と
そしていつか邑々、国々が一つにまとまり、戦いのない平らかな
兄と妹は顔を見合わせる。
「そのことこそが死んだものどもの魂を、まこと鎮めることになる。
夜明けはもうすぐだった。うっすらと朝霧が流れている。風は春の匂いを微かに運ぶ。
「すこやかに暮らせ」
兄新女はふりかえり、東へとむかいだした。その行く手は明るい。
道のかなたへ、長身の影が消えていくのを、国玖流は見つめ続けている。なぜこんなに悲しいのか、自分でもわからなかった。
しかし涙だけはなんとかこらえられた。
「兄よ」
「……姫。兄新女はいつか、戻ってくるだろうか」
「わからぬ。されど……」
それ以上答えなかった。少女は静かに涙をこぼした。兄は妹の小さな手を握り締めた。心にある決意が、確実にわいていた。
兄新女は振り向かなかった。振り向けば、戻りたくなる。それはおそらく許されない。彼女はすすみ続けるしかなかった。
どれぐらい歩いたろう。東の山々から、ついに朝日が顔をだした。森は途切れ、湿地と草原が入り乱れている。ところどころに雑木林も見えた。東へ伸びる道の先は、あの巻向の大市、その先は東の国々へむかう山の道だった。
とくに行くあてはない。
「水臭いね」
突如、道のわきにある古木の陰から声がした。
兄新女は立ち止り、微笑んだ。すぐに小太りの女が、姿を表せた。猪の毛皮をまとい、足には皮製の「はばき」をつけている。
猪女も旅姿だった。
「やつらのはなを明かすんじゃないのか」
「………さあね、忘れたよ」
猪女は兄新女と並んで、朝日にむかって歩き出した。
黒田の
かわって大和の王として部族連合から共立されたのは、嫡子たる
彼は欝色謎、ついで物部軍事技術部族最大の実力者の妹をめとり、ますます物部・磯城系現地豪族との関係を強化していく。
この国玖流王、即ち孝元天皇はその晩年、宮を内つ淡海、のちの大和海原の北へと進出させた。あらたな連合時代をつくるべく。
そして彼の死後、そ孫である
そして大和から河内、伊賀周辺の部族国家を統一した。その国は「そらみつ大和」、やがて日の本と呼ばれることになる。
その
その国家統一過程において、彼の大叔母たる偉大なる巫女、
こうしてついに、大和朝廷は芽吹いたのである。
カンナクシメ 完
聖巫女≪ひじりのみこ≫カンナクシメ 小松多聞 @gefreiter
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