巻第十五
ムイグルの全身がまばゆい光に包まれた時、モモソ姫は膝立ちになったまま瞳孔を見開いていた。深い悲しみと苛立ち、そして死への恐怖が彼女をとらえる。
「これは……」
なんとか立ち上がった
「なにゆえ、俺を雷で打たぬ」
やがて長身の戦士は、幼い
「泣いている。あの人は、悲しいの。そして怖いのよ」
しかしその光る姿は、もうこの世のものではなかった。黄泉へ続く洞窟一杯に広がった光の塊は、長い髪を振り乱す女の形をとりはじめた。
真の闇に通じるべき洞窟の虚像が、細かな雷鳴と濁った光に満たされて行く。
「
泣きじゃくり、
「ど、どうしたい?」
聖なる巫女の心から、瞬間恐怖心が消えた。
「……怖いの。
突如少女は立ち上がり、目を裂けるほど見開く。兄新女も驚いた。
「……
「呼んでいる……求めている」
と、光にむかってよろよろと歩き出す百襲姫。兄新女は慌てて追おうとする。
「待て姫、奴はもう人ではない!」
「エ…エ、兄新女! な、なんだあれは? あれは!」
振り向くとあちこち傷つき、返り血を浴びて真っ赤な
「おおさすが、生きていたか! あの化け物は、やったのか」
女武者は、肩で息をしている。多少傷ついても意気軒昂だった。
「……傷つけたが、やはり奴は死なぬ。しかしあの、髪を振り乱した影は」
小さな悲鳴とともに、少女は後ろへ飛んだ。無数の雷の蛇が、はじけている。 長身の女戦士はかけより、大和の神奈奇女を助け起こした。
少し先に、上部が砕かれた愛用の鉄剣が転がっていた。助け起こされた聖なる巫女は、手をのばして光る姿にむかって叫んだ。
「やめてっ! 難事はまだ人なのよっ! 戻って!」
「いや、奴はもう人としての心を失っている、逃げよう」
さすが豪胆な兄新女も、怖れにとりつかれていた。
「違う、我が命をあくまで救おうとした。
お願い
百襲姫は突如また目を見開いた。なにがおきているのか判らないが、兄新女は自分の視界が暗黒に閉ざされるのを感じた。
いや、真の闇ではない。自分は視界を失った存在になったのだ。
神奈奇女の血を引く女戦士は、わが国最大の神奈奇女の意識を間近に、いや自分の「すぐ外側」に感じた。驚いたが、声は出ない。
目の前でぼんやりとなにかが輝きだした。兄新女の意識はそれに集中される。
確かにその輝くものは、あの禿頭の、眉の吊りあがった野性的で美しい少女だった。しかし身に一糸もまとっていない。顔は、諦めたように悲しげである。
「あれは?」と自問した。
「……そうよ」と百襲姫の声が答える。
「戻ってきて、汝は悲しみ苦しんでいる。こんなことはしたくないはず。
でも
もうよい。戻ってきて! 汝も蘇らせたくないのに!」
「………す・ま・ぬ」
その声は百襲姫を介して兄新女の心にも響いた。
「
叫ぶ百襲姫。次の瞬間、兄新女の精神は肉体に引き戻された。
その衝撃に耐えかねたのか、長身の女戦士は片膝をつく。その下では、青ざめて胎児のように縮まった少女が、瞬きもせずに涙を流している。兄新女の心にも、温かい悲しみがしみ込んでくる。
目の前さほど遠くないあたりで、虚無の洞窟いっぱいに膨張した邪悪な光のかたまりが、今にもはじけそうだ。もう人の力ではどうしようもなかった。
突如兄新女の頭の中で、なにかが光った、強制介入した「意思」が、彼女に語りかけたようだ。視線は、ひとりでに右手前へと移動する。
存在すら曖昧な洞窟の片隅で、なにかが光っている。兄新女の本能は悟性よりも先にそれを理解した。そのときすでに、彼女は飛び出していた。
右手がつかんだのは、手に馴染む剣だった。しかし上半分は砕けている。躊躇をかんがえる暇もなかった。その半身になった剣を、光めがけて投げつけた。
また光の圧力にはじき返されるのは、明らかだった。
しかし長身の女戦士は、それを為すことをなにかに強く求められたように、片膝ついて身構えた。大きな眼は異様に光っている。
そして折れた剣の刀身を右肩上に構え、槍のように投げつけたのである。投げた瞬間、まばゆい光に、目をかたくつむってしまった。
水平に飛んだ中折れ剣は、無数の火花を散らす光の塊に、吸い込まれていく。 次の瞬間、その神聖の反対側にある光塊がはじけた。
光圧が兄新女の肉体を転がした。なにかが頭の中をかけぬける。それに感応して、百襲姫は突如起き上がり、弾け崩壊しつつある光に叫ぶる
「
転がりつつ近づいた大きな肉体が、華奢な少女におおかぶさった。我らかえった
相当な砂をかぶった兄新女は、恐る恐る首をもたげ、ふりむいた。黄泉津比良坂の奥が、まだぼんやりと明るい。猪女の乳房の下から、すすり泣く声がする。
「姫、痛むのか」
少女は兄新女に助け起こされつつ、かぶりを振る。
「ム……蛇雷………そう、魂が、喜んでいる」
倒れた少女の肉体は、まだ名残惜しそうに輝いていた。その上に巨大な顔がうっすらと現れた。金色の髪の神々しい女性の顔は、悲しげに微笑み、すぐに薄らいで消えた。誰も見た事のない、美しい顔立ちだった。あれが大神なのか。
百襲姫はひざまずき、嗚咽しだした。しかし悲しんでいる暇もない。闇の底から、不気味で邪悪、本能を脅迫する唸り声がいくつも迫ってくる。
立ちあがった女猪武者も、土埃を払いながら近づいてきた。
「姫よ、泣いてる暇ないぜ。急ごう兄新女! 出口の奴が蘇る前に」
兄新女と猪女は、力を出し切ってよろめく少女を守って、黄泉津比良を登りだす。しかし地に足がついているのかどうかも、定かではない。
自らの実在感すら、薄れだした。しかしまだ生きている実感はある。
怒り狂った醜女の身の毛もよだつ唸りが複数、確実に迫ってくる。
「蛇雷!? 汝ら、我が尊き
三人は立ち止まり、目を見開いた。その若き戦士マキリは左の肩にあいた深い爪あとから、血を迸らせている。顔は失血で青ざめていた。
その他にも全身傷だらけで肩で息をしながら、右手に下げた剣は手放さない。
「俺たちはあの乙女が果てるのを見届けただけだ。それよりもあの声を聞け」
ようやく岩らしくなった洞窟の底から、吐き気のするような声が響いてくる。 猪女は銅剣の柄を握り締める。失血し青ざめ、目だけを炯炯と輝かせていた
やがて瞬きを忘れた二重の目から、涙をこぼした。
「ム、蛇雷? ……そうか、人に戻り、亡くなったか」
兄新女は驚く
「な、なにゆえそのことを……」
「魂が、かく語る。その乙女らを生きて戻せ、とも願う」
勇壮な縄文戦士は涙をこぼしたまま、微笑んだ。彼が愛し仕えた神奈奇女は、自らの死によって部族の使命を果たした。そして自らの意思をも全うしたのだ。
「
ただ
闇の底からは、邪悪なうめき声がますます迫る。その奇怪な姿が、奥から現れ出した。
「………急げ、ここは食い止める」
「汝は如何する」
「その乙女をかどわかすことを薦めたのは、俺だ。
獲物を見つけた黄泉津醜女は数鬼、その後ろにも影が見え隠れしている。
「兄新女! こりゃ、とてもかなわないぜっ! 奴は死ぬ気かよ」
黒い石を磨き上げた先祖伝来の剣を振り上げた
先頭の鬼の目を、石剣で切り裂く。すさまじい悲鳴が洞窟を震わせる。
残った力でさらに攻撃しようとして、鬼女どもに襲いかかられた。抵抗らしい抵抗は、無理だった。
「ぐあああっ!」
骨の砕ける音に、断末魔の悲鳴が重なる。鬼女たちは真切を食らいつつ、手足を争ってお互いにかみ付き合う。長身の女戦士は叫ぶ。
「奴が囮になっているあいだに、急げっ!」
二人で姫を両脇から担ぐようにして走った。三人はようやく岩らしくなってきた洞窟を逃げる。緩やかな坂の果が、仄かに明るい。また少女が転んだ。
「だめ、先に逃げて」
「どうした、気を確かに!」
兄新女は焦る。少女は全身の力を使い切ったかのようだ。
「乗れ!」
兄新女は片膝をついて、背中を低くした。猪女も手を貸し、背負わせる。
「さ、行くぞっ! あと少しだ。奴らは日の光に弱い」
しばらく行くと、全身傷だらけの黄泉津醜女が一匹、岩壁にもたれかかっていた。右手を切り落とされ、全身傷だらけで赤黒い血を噴出している。
それが真っ赤な目を見開き、逃げてきた人間どもを見つめて牙をむく。
「しつこいね。死にぞこない!」
猪女は銅剣を構え、大きな胸を揺らして駆け出していた。起き上がろうとする赤黒い鬼女の前で立ち止まったとき、剣は右横に空を斬り終えていた。
ゆっくりと、大きな目を輝かせた野獣じみた首が落ちた。しかし投げ出された足は痛そうに動いている。手は震えつつも、落ちた首を捜している。
「まったくなんて奴だい。でもこれで暫くは」
闇の奥からは不気味なうめき声が迫る。
「猪女、先に行け! 出口にまだ
先に片づけておけと言うのだ。少しためらった猪女は、返り血で赤い顔で微笑むと駆け出した。出口の明かりが、ほんのりと周囲を照らしてくれる。
そのとき、また大地と洞窟がゆれた。視界が歪み、天井岩が少し崩れる。
黄泉津比良坂の出口付近は「実体化」しており、脆く崩れやすい。兄新女は前のめりに転んでしまう。
「ひ、姫、怪我はないか」
「それよりも、もうだめ………汝だけでも逃げよ」
兄新女は起き上がり、振り向いた。数体の鬼女が、牙と爪をむき出しつつ迫っている。想像以上に足が速い。姫をかばっての戦いは、不利だった。
「急げ、兄新女っ! 地霊隈は防ぐ!」
出口から猪女が叫ぶ。兄新女は痛む膝に耐え、少女を負ぶったまま走り出す。
「あきらめるな、あきらめれば負けだ。
汝にはつとめがある。国々をまとめ、戦いの無き世を作るために」
また洞窟がゆれる。石や土砂が崩れ、濛々たる土煙がたちこめる。兄新女が見上げると、坂の尽きる辺りから差し込めていた淡く儚げな日の光が、土ぼこりの中で薄らいでいく。
背負われた少女が振り向くと、至近の距離まで「闇」が迫っている。その中で赤く邪悪に輝くいくつもの奇怪な目。そして耳元まで響くうめき声。
兄新女は走ろうとするが、さすがに膝が震えて、なかなか進めない。
「闇に飲まれる。ひ、光がない!」
「光、光よっ! 闇を蹴散らしまたえ」
百襲姫は叫んだ。突如、黄泉比良坂の奥から、明るい何かが急速に這い登って来た。百襲姫は確かな意思を感じ、振り向いた。形のいい目を見開く。
巨大な光る龍のようなものが、束になって突進してくるのだ。兄新女は本能的に危機を感じ、姫を背負ったままその場に伏せた。
その直後、地獄の鬼の体が電撃にうたれ、白く輝く。少女は光の圧力の中で気を失いつつ、確かに意思を感じてつぶやいた。
「ム、
地鳴りとともに香具山は鳴動し、大地も森も震える。空間がその歪みにたえきれず、はじけた。比良坂の出入り口付近にいた猪女も半裸の女戦士たちも、光圧に飛ばされる。
立ち枯れた木々の上にあいた闇の出入り口は、光にはじかれて四散する。
気を失った軽い少女を背負った大柄な女戦士は、光につつまれた中で肉体が宙に浮くのを感じていた。続いて、落ちていく自分を発見したが、すぐに胸などを強くうって意識を失った。
「起きよ、兄新女っ! 気を確かに」
枯れた下草と降り積もっていた枯葉や小枝が、地上に落ちた兄新女と百襲姫を守ってくれていた。それが、山の意思でもあるかのように。
兄新女が顔をもたげると、青空が見えた。天高く、淡く輝く靄が慌しくのぼっていく。黒く不気味な雲も急速に薄れつつ、四散していく。そのあとから青空が顔を見せだした。
空は本来の明るさを取り戻しつつあった。そしてついに、すでに高くのぼっていた太陽が、万物を育む至高神の化身が顔を見せたのである。日の光に照らされ、ぐったりしていた華奢で可憐な少女も少しづつ目を開けた。
「……………姫、神奈奇女よ」
「こ……ここは? 日の光……助かったの」
「ああ、そうらしい。誰かが、力を与えてくれたのかな」
天の香具山上空の黒雲は去った。透明感のある冬の寒々とした青空のもと、全山枯れ木となった聖なる山が静かに横たわっている。わずかに山肌に霞が漂う。
各部族は、さきほどおきた光の爆発のあと、呆然とするしかなかった。
やがて百襲姫を背負った猪女と、太い木の枝を杖にして、足を引きずり降りてくる兄新女の姿が山肌に見られた。その姿に最初に気づいたのは、
「あれをっ!」
王子の指差す方向を、人々はいっせいに見つめた。
天の香具山。冬でも低い山一帯を覆っていた鬱蒼たる森は、総て枯れ木になってしまった。下草も全面、茶色に変じている。しかしその枯れ草の中に、緑の新芽が混じりだした。暖かい雨が降る頃である。
しかし
体を動かしていないと、なまってしまう。
各邑から派遣された巫女、神人たちは山をとりかこんで草庵を作り、聖なる火をたいて昼夜祈りを捧げている。祈る神もことなれば、その作法も違っていた。
しかし皆、穢れた大地の聖性を回復し失われた魂を鎮めようとしているのだ。
東へ戻った地霊隈残党の噂も、春前には聞こえてきた。新しい族長に
いがみ合っていた者達も連帯の必要性を感じ、なにか大きな動きに参加しようと模索しているようだ。総てが確実に、変化しつつあった。
「遅いな。夕餉が近いぞ」
宮をとりまく木柵の前で、剣を振り回しつつ猪女が待っていた。宮での暮らしは山育ちの彼女にとって贅沢すぎる。食べ物がうますぎると文句を言っている。
「夕餉か。腹がすいた」
今夜も晴れそうだ。今日は
猪女は華やかしい宴、儀式が苦手だったが、珍しい酒は好きだった。その製法は、物部のものだけが知る。米を噛んでつくる「噛み酒」よりも強い。
「宴か。遅くまで続くのであろうな」
兄新女は自分に確認するように言う。その寂しげな横顔を、猪女は不思議そうに見つめておもった。なにかを企んでいるのか、と。
「
「朝から悩んでおる。一筋縄ではいかない部族の長どもを、いかにまとめるか。
…………俺なら、逃げ出すがな」
拡張されつつある宮には、いくつか高殿が建設されつつある。各部族の使者などを泊める、一種の迎賓館だという。
宮を囲む堀の外には、大きめの市もできかけている。のちに
湖水の水は葛城の山の北から、物部一族の根拠地である
この大和の族は、さまざまな部族や国と交流し、ますます発展するだろう。そんな予感がしていた。猪女はうまい酒に、少し酔っていた。
「
「それを助けるために、兄新女は仇を捨てたのだろう」
「………おかしなものだ」
「どうした、嬉しくはないのか」
「そうではない。国々がまとまるまでに、さらに血が流れよう」
「……神が望むならな。もう古き世は去らねばならぬ……か」
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