巻第十四
「タケマリネ、火矢が整う」
天の香具山を取り囲んだ各部族えりすぐりの兵士の中でも、黒い甲冑に鷹の羽飾りと赤い首巻きをつけた物部軍精兵三十余人は、ひときわ目立つ。
マリネと共にはるばる東まで遠征した生き残りも、新たな戦装束で戦列に加わっている。超人的な体力と戦意である。
大きく炊かれた火が風に流される中、前列兵士は立膝をつき、後列兵士は立って矢を弓に番えていた。木製の鏃には、物部の「秘薬」たる「越の燃ゆる泥」を精製したものが塗りつけられている。
周囲の各部族も、いつでも突撃できる態勢だった。兜を脱ぎ短い髪を寒風にさらしながら、ウツシコメも静かに興奮している。
この内つ淡海周辺の邑々から馳せ散じた戦士たちは、万を遥かに越えている。
マリネが命じると、松明をもった兵士が鏃にどんどん火をつけて回る。
「構えよ」
驚いたウツシコメが駆け寄る。クニクルも心配そうに近寄る。
「火矢をかけるの?」
「おまかせあれ。エニーメどもに力を合わせる」
マリネは先頭に出て、黒雲と霧で見えない山頂付近を指差す。少し離れたところで心配そうに立つフトニ王を一瞥した。彦フトニはゆっくりと頷く。
「エニーメたちに当たらぬよう、山の頂を狙え。風の流れを読め」
放て、の号令とともに火矢は一斉に飛んだ。山頂までは、それでもかなりの距離がある。しかも風が強い。その風にのるようにして、羽を広げた特殊な火矢は山頂を目指し、横並びに渦巻く雲海にのまれた。
エニーメとイノメが斜面を登ろうと苦心していると、五十もの火矢が光の尾をひきつつ、邪悪で濃厚な空気を切り裂いて頭上をかすめ飛ぶ。
「あれは、モノノベの羽々矢か?」
「や、山を焼き尽くすつもりか」
「山を焼くには下から火をかけるしかない。しかもこの霧と風で火は広がらぬ」
羽を伸ばした燃える矢が、山頂めがけて落ちた。そして木々にささると、枝などに小さな火をつける。とは言え大した威力はなく、火も強風に耐えきれない。
「きゃあ」「いや」などと悲鳴が飛ぶ。火矢のいくつかは、全裸で胡坐を汲んで一心不乱に念をおくっていた異形の巫女たちの周囲に落ちた。
火矢は三次斉射、五次斉射と次々と送られてくる。
「いかん、ひとまず火矢をさけよ」
やはり全裸で巫女たちを指揮していた、ニウトベが刀をふるって命じた。
神女、巫女たち数人が動揺し退避しだした。そのとき、一時的に結界が消えたらしい。
「エニーメ、あれ!」
木々のあいだ、斜面の上の濃い霧の壁に、やや明るい一角がある。エニーメはきき腕を伸ばし、長い神剣を突き出した。
「霧の抜け道だ。行くぞ、イノメ!」
斜面を駆け上がりつつ、木の枝を雲の結界ごと切り裂いて行く。今は亡き大きな相方に祈り、イノメは目をつぶって突進する。
なにか暖かいものを感じて、立ち止まり目を開けた。
「こ、ここは?」
すでに小高い丘の上に達しているらしい。しかしそこはまさに、「現世」ではなかった。
「エニーメ、なんだここは?」
「……鬼の世となった、香具山だろうな」
冬でも青々としていた木々は全山ことごとく枯れ、鳥はおろか地虫すら死に絶えている。冷たい雪まじりの風はふき、空には黒い渦がゆっくりと巻いている。 雷鳴はとどろき、暗い天が時折輝く。そしてモノノベの精兵が放った火矢が、木々や地面につきささって、そこここで小さな炎をあげている。
また小さな地震がした。二人は呆然とこの地獄の光景を見詰めていた。
天の香具山に続く広い原生林の中、万を越える戦士が神聖なる山を取り囲んでいる。各部族はそれぞれの作法で火を大きく炊き、それぞれの方法で各部族の巫女、神人、禰宜などが様々な祈りを捧げている。
また各部族軍団の物見、「
しかし巨木のかげから見つめる彼ら斥候たちは皆、我が目を疑った。山肌や森が、暗がりの中で霞み、歪んで見えるのである。まるで陽炎か蜃気楼のように。
「な、なんだあれは」
「朧、まぼろしか」
時空が曲がり、遠近感が判らない。斥候、物見たちは恐ろしくなり、叫びつつ我先に逃げ帰るしかなかった。
枯れ木の立ち並ぶ中、灰色の靄が流れる。どこか景色が歪んで見える。頭の中に、恐怖でもおびえでもない不快感が広がっていく。
生暖かい、そして生臭い風がそよぐ。エニーメは目を凝らした。枯木立のむこう、灰色の帳のむこうに、洞窟の穴のような黒いものが見え出した。
「なんだ。あれは」
「エニーメ!」
イノメは叫びながら前に出た。そのとき、枯れ切っていない巨木の上から、ツチクモの一人が銅剣を振りかざして飛び降りてきた。イノメは頭上で剣を払う。くるぶしを切り開かれた相手は地上にひざから落ち、転がる。
さらに木陰から、別のツチクモが飛び出して来た。何人かは女だった。エニーメはまるで剣を振って舞うように斬り、イノメは力まかせに猪突猛進する。
二人の女戦士は簡単に敵を蹴散らす。しかし多勢無勢、しだいに息切れしてきた。エニーメが見た黒い影は、空中に出現した巨大な穴だった。しかしまだ「実体化」途中である。
その前、平たい大きな石の祭壇上に横たえられた白い千早の少女は、意識を取り戻せないままもだえていた。汗みずくである。
若い戦士マキリやウカシコに守られ、禿頭のムイグルが両膝で立ち、両手を組み合わせ瞑目している。思念をモモソ姫に送り込もうというのか。
後ろには白髪を霧に塗らした大長老オーエカシ、その後ろには恍惚として白目をむいて踊り続けているほぼ全裸の巫女五人が。
一人は泡をふいて痙攣し、気絶しかけている。
「まだか、乙女は頑なに心をとざしておるか」
オーエカシは杖をつきつつ前へ出た。
石祭壇のむこう、木々を背景に空中に現れた黒い渦は、まだはっきりとしないながらゆっくりと回転しているように見える。
老人は懐から、黒い石を鋭く研ぎあげた小刀をだし、杖を投げ捨てて左掌に傷をつけた。見ていた一族のものも、少し驚く。
さらに前にすすむと、長老は血の滴る左手を、ゆっくりと回転する黒い渦にむけて振り上げた。血しぶきが渦に吸い込まれると、また軽く山自体が振動する。
鋭い悲鳴とともに、裸で踊り狂っていた巫女が一人、また一人と白目をむいて気絶しだした。
取り巻いていたツチクモ戦士も、なにかに取り付かれたように震えだす。
目をつぶっていたムイグルは、表情を険しくする。
すでに数人づつ斬り、数人を撃退した。イノメもこれほど人を手にかけたのははじめてで、疲れても興奮していた。肩で息をし、大きな胸が揺れている。
「な、なんと言うやつらだ。斬っても斬ってもひるまない」
「東の者は死を恐れぬ、恐ろしきつわものよ。行くぞ! 姫は近い」
「なにゆえ判るのだ?」
答えず、エニーメはまた長剣で、ねっとりとした灰色の霧を切り裂き、木々の尽きる広場へと出た。そこで二人とも凍りついた。
空の渦と、山頂をつつむ霧の渦が交わるあたり。そこはもう現世より、黄泉への入り口と化していた。目の前に現れた黒い穴が実大化しつつある。
石の台に横たわる乙女、その前でひざ立ちになる禿頭の乙女。二人は淡い光に包まれている。
それを見つめる黒い異形の戦士たち。折り重なって倒れる裸形の女ども。
二人が呆然と見守る中、頭上で激しく雷鳴がほえ、山全体が震えた。香具山の北に広がる内つ淡海でも波が騒ぎ、魚たちが飛び跳ね、水鳥が狂ったように泣き叫んだ。
「なんたることだ!」「おそろしや!」「あさましや!」
麓で包囲していた各部族の部隊も、動揺し興奮していた。天空を覆っていた巨大な黒い渦が竜巻のように収束し、聖なる山の頂に吸い込まれていく。
この世の邪悪とおぞましき穢れの総てが、大国魂こもる聖なる山に集まっているように見える。
そして低き御山は、その不快と屈辱に耐えかねて震え、地をとよもす。
「おのれ、山を汚すか」「尊き斎庭ゆにわを守れ!」「穢れを祓うべし!」「行けっ!」
いきりたった何人かが、さまざまな武器を手に、遮二無二森の中を突進して行く。あるものは松明を掲げ、ある者は魔をはじく鏡を胸に抱いて。
日ごろは田を耕し、山に狩りし、川や湖にすなどる者たちは、統制もなく感情だけで霧と邪気の塊に突進する。
「いくな、危うい! さがれ!」
と手を広げてとどめているのは、フトニ王である。その子クニクルも太刀をふり突撃しようとして、突如父王に足蹴にされた。
生まれてはじめての経験に、王子は唖然とした。
「まだ判らぬか、おろか者! 人の手におえるものではないっ!」
大地が激しく揺れた。香具山が鈍く輝き、空の黒い渦が激しくなる。
突風が吹きつけ、雷が処かまわず落ちだした。高い木、立てた槍、燃え盛る炎、そして戦く人々。みなは泣き叫び、わめき罵り逃げ惑う。
エニーメとイノメはあえぎつつ、ツチクモの精鋭と戦い続けていた。
しかし二人対数人、分が悪い。体力の化け物のような猪祝も、寒さの中で汗みずくである。
狩猟部族の若者が防いでいるあいだ、長老オーエカシは、裸体に比礼ひれだけを巻いた戦士ニウトベに命じた。
「ついに黄泉津比良坂が開いた。神奈奇女を媒体よりしろとなし、黄泉津大神を蘇らせる。ムイグルの魂を戻せ」
しっかりした体型の女は、恍惚として白目を剥いているムイグルの背中を両手で突く。我にかえったムイグルが驚いていると、彼女を立たせた。
若いマキリと立ち向かっているエニーメは、五度ほど剣を交わらせた。実力はほぼ互角だが、背の高いエニーメの力がやや勝っている。
「恐ろしき女め……」
とマキリは後ずさりした。その肩越しに、エニーメは見た。あの禿頭の少女が、ぐったりとしたモモソ姫を負ぶって、黒い渦の中に進みつつあることを。
マキリ以下数人が、続いて飛び込もうとする。少女は振り向いて叫ぶ。
「他は来るな! われらのみにて行う」
「……行くぞムイグル、乙女を中へ!」
オーエカシは杖をつきつつ、暗い空間へと入る。彼自身は生きて戻るつもりはない。しかしムイグルは、「古く正しき世」が蘇れば、必要とされよう。
マキリやニウトベは悲しげに見送る。エニーメ、続いてイノメも飛び込もうとした。しかし先ほどの若い地霊隈戦士と、半裸の女が立ちはだかる。
「俺はマキリ、いつくしきムイグルに仕える。いざ」
二対二の壮絶な戦いが、この世のものならぬ山頂で繰り広げられる。
空間に出現した穴は、高さにして人二人分ほど。岩で出来ているのであろうが、足元が靄に包まれるような不思議な感覚がある。
明かりなど一切ないのに、洞窟のような内部が見通せる。しかし目を凝らしても、岩肌はぼんやりしている。総てが悪夢のようだ。
ムイグルは驚くほど軽い少女を背負い、長老は左手に愛用の杖、利き腕に先祖伝来の石剣をさげ、進んで行く。
禿頭の聖なる巫女は、泣き出しそうになるのを堪えていた。
闇の奥で奇怪なうめき声がする。オーエカシは立ち止まった。闇の底から爛々と輝く赤い瞳が近づいてくる。血を煮詰めたような、吐き気のする匂いが漂う。
「ムイグル、来たぞ。ここは俺が防ぐ。お前はその乙女をさらなる奥へと運べ。
この世と黄泉の堺に届けば、汝なら判る。そこにその娘を横たえよ」
「……まだ、心を開いてはおらぬ」
「かまわぬ。これほど力の強き神奈奇女だ。いくら心を閉ざせど、必ずや乙女の体を仲立ちとして黄泉津大神は蘇る。そして大神の生んだ地と森を汚した奴らに怒り狂い、焼き滅ぼすであろう」
長老は驚くほどの声で叫び、杖と剣を振りかざして地獄の怪物めがけて突進した。当然、たちまち捕らえられ、鋭い牙と爪に切り裂かれる。
「行け、いまだ、ムイグル!」
目をつぶったまま、ムイグルは食われつつある長老のわきを通り抜けた。オーエカシの断末魔の苦しみに同調し、モモソ姫は顔をゆがめて全身を震わせた。
「ああ、あああああっ!」
「目覚めたか。いつまでも夢の中に逃げこむな」
二人の背後の闇で、長老の断末魔の悲鳴と、男女の罵声が響きあう。
オーエカシを食らった黄泉の鬼は、新たな敵と戦いだしたらしい。背負われていた姫はふりむく。
「生きたいか。おまえには母や父、兄もいる。こんなことは
ムイグルは息をきらして立ち止まり、モモソ姫を乱暴に下ろした。少女は砂地とも岩場ともわからない実在感の乏しい地面に、座り込む。
禿頭で目つきの鋭い少女はふりむき、目を泣き腫らしたまま寂しげに微笑む。
「あんな化け物がいるけど、汝の力ならなんとかなろう。うまく生き延びよ」
「い、
「妾こそが依り代なり。
我が命を黄泉津大神に捧げ、この世をもとの森に戻さん」
もう一度悲しげにふりかえると、闇の中へとさらに「降りて」行く。
「だ、だめ! 蘇らせてはだめ。行かないでっ! 汝も悲しんでいるわ」
モモソ姫は立ち上がれず、泣き叫び続ける。叫びは硬い闇にこだました。
「姫! モモソ姫ぇ!」
女性の声が近づいてきた。ほどなく息せき切って、長い刀から赤黒い粘液を滴らせた長身の女剣士が現れた。華奢な少女は驚き、よろめきながら立ち上がる。
「姫っ! モモソ姫? 神奈奇女よ!」
「い、汝はあの時の?」」
「エニーメさ。よかった、いざ戻ろう」
「否っ! とどめねば、悲しみに満ちたムイグルを」
「ムイグル? あの蛇のごとき雷を操る妖しの乙女か。この先に?」
「自らの命を仲立ちにして、黄泉津大神をこの世に蘇らせる。かつては人や獣、森や湖の総てを生みながら、火にやかれて命を失いし大いなる女神を」
背後で魔獣のすさまじい声が響く。闇の洞窟も振動する。
「イノメたちが奴を引き付けているけど、あまり持たない。急がなければ」
激しい雷鳴に呼応して台地が揺れる。ふもとの部族兵は動揺するが、半立ちになって瞑想していたクニクルは妹の名をつぶやきつつ、立ち上がった。
「姫……? 心に触れた……」
必死で戦っていたイノメだが、さすがに体力の限界だった。坂を、明るい方向へと逃げ出した。半裸のニウトベも、思わずそれに続く。
いつのまにか戦いに参加し、醜女に切りかかっていたマキリは、傷ついた巨大な鬼女の脇をかけぬけ、奇怪で邪悪な闇の奥へとかけだした。
また大地と空間が振動する。その揺れがしだいに連動しだした。「この世」はますます暗くなっている。
天と地が呼応して、雷鳴が轟き地割れがおき、風が吹きすさぶ。大地と森と天が、偉大なる黄泉津大神の再生に恐れおののいているのだ。
この世を滅ぼす闇の洞窟の奥、エニーメはふるえる少女の手をひき、立ち止まった。
「あの光り輝くものは……蛇?」
もはや上も下もわからない闇の中、体中から蛇状の雷神を発して、うずくまっている禿頭の少女の背中がいた。
すでに自らの発した雷撃で、衣も袴も焼け焦げ、落ちている。
「あれよ! でも……あれは、姿は人でも」
膝を抱えて項垂れている裸体はぼやけ、少しつづ巨大化している。周囲の空気も異相化、非現実化されて行くようだ。見つめていると心が奪われそうになる。
「いや、ムイグル! 行かないで。あなたの魂が汚され、滅ぶ」
「姫、心を飛ばせる?」
「えっ? ……少しなら」
「力を貸して。俺の力は俺の物じゃない。死んだ
あなたの力とあわせて、あの心に触れよ。まだ人であるうちに」
この世かあの世かもわからぬ闇の中、ムイグルの巨大化しつつある肉体はますます輝いている。しかしその神々しい姿にみとれている時間は、なかった。
モモソ姫は背筋を伸ばして正座し、両手を胸の前で強くあわせて瞑目、魂で叫び続けた。
「なぜ答えぬ。お願いっ! 難事も怯え、悲しんでいるのに……」
闇が振動する。邪悪で巨大な力が這い登ってくる。エニーメにも実感できた。
やがて少女はがっくりとひざをついた。汗が額を流れ、息が荒い。
「だめ、みずから命を捨てている」
「……もはや、黄泉津大神の蘇りを防ぐには、これしかないか」
と、長い鉄剣を握り締める。
「そんな、やめて、ムイグルはまだ」
「これを見よ!」
銀色に輝く不思議な神剣に映るムイグルは、もう人の姿をしていない。白く輝く不定形な塊にすぎない。それがまだ巨大に膨張しつつある。
「これは、こんな」
「これが今の奴の姿。哀れだが、これしかない。ここに黄泉津比良坂を開かせるわけにはいかない。
「すまぬっ!」
突如、ムイグルだった肉体から雷がほとばしった。それは長い鉄剣を打ち据え、空中で砕いた。衝撃で兄新女エニーメの肉体は後方へ飛ぶ。
しかし雷撃は彼女自身を襲いはしなかった。
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