巻第十三
夜明け前、タケマリネ率いるモノノベ精兵十数人とエニーメたちは、川に沿って西へむかい、ついに聖なる山の南、ハツセの谷に達した。
そこから巻向の大市へはすぐである。
夜明け前から人々は活動を開始するが、この日はなにやら様子が違っている。あちこちにかがり火が焚かれ、武装した連中が動き回っている。
「止まれ。何者か!」
市へ通じる道の両側、木々のあいだから、銅あてなどをつけた一団が槍や弓を構えてあらわれた。マリネは丁寧に身元をあかした。
「夜明け前に、なにごとか。まさかツチクモが?」
一帯の神官らしい初老の人物がすすみでた。白装束で、頭にまいた茜染めの帯に榊をさしている。恭しく頭をさげる。
「名高きモノノベの精兵とは心強い。
この南、山に作った高城が襲われた。少し前のことだ」
黒く異様な一団が突如出現、高城の「寝ず見」二人を殺害した。一人は危機を知らす炎を上げ、なんとか逃げてきた。そのあと、高城も焼かれた。
「急ぎ物見を出せども、すでに人影はない。こうして何事かに備えておる」
「……黒い毛皮を見にまとい、顔には刺青をした者どもだな」
「なにゆえ、それを知るのか?」
マリネは急ぎ、大市へと案内させた。市は道が集まり、人が集まり、物資のみならず様々な情報が「流通」する。人々に警告を発するには、市が一番だった。
エニーメたちも足早にむかう。市ではすでに店の準備がすすみ、火もたかれ人々が気ぜわしく動き回っている。突如、雷鳴がとどろいた。
夜明け前の空が輝く。エニーメは立ちどまり、見上げた。イノメも驚く。
「どうしたエニーメ?」
「……なにか、よくないことが起きる」
マリネたちは市中心部の広場の端、少し高くなったところに上った。広い盆地が見渡せるが、なにか奇妙に景色がかすむ。
広がる森や葦原、点在する雑木林が風にふるえている。
「マリネ、あれを」
ウツシコメは西のほうを見つめる。低い丘は、香具山である。まだ黒い影のままだが、全体が妙に浮いて見える。なにか異変がおきているのか。
エニーメは目を細め、見つめた。
「イノメ、いよいよだよ。ツチクモはもうあの山を手にいれた」
「なに? なにゆえ判る」
本能が危機を告げるのだ。マリネは大音声で叫ぶ。
「足の速き者は邑々、国々へ知らせよ。今や尊き山をツチクモどもが侵そうとしている。いきがかりは捨て、邑々が集まりて山を守らねばならぬ」
もう市を開くどころではなかった。倉なども並ぶ広い市のあちこちから、人々は集まってきた。足の速さが自慢の伝令たちも、マリネの言う言葉に耳を傾けた。
各地の部族はそろそろ活動をはじめているだろう。各邑に走って危機を知らさなくてはならない。あの湖水地帯最大の聖地、天の香具山が汚されようとしている。
どの神をどんな方法で拝もうとも、聖なる山の重要性はどの部族も知っていた。
数人の足自慢が、四方に散った。他の人々も緊急事態に備え、広げ出していた店をしまいはじめた。なかには矢を売ろうとする者もいる。
「少し休め、ウツシコメ」
ウツシコメの異変に気づいたのは、エニーメだった。まだ十代前半の少女が、銅製の小札をつづり合わせた重い甲をつけ、夜駆けをつづけたのだ。
エニーメもイノメも疲れていた。マリネは部下に翡翠の勾玉などをわたし、食料を調達させた。彼自身はほとんど疲れを見せていない。が、休みたかった。
ここ大市まで来れば、彼らの庭も同然だった。マリネも空に羽々矢を数本飛ばすと、その場に腰を下ろした。蒼ざめたウツシコメを気にしている。
イノメは水をもらうとその場に横になり、いびきをかきだした。エニーメはマリネの部下から魚の干物をもらい、腹につめこんだ。彼女の疲労は限界に来ていた。
いつの間にか眠ってしまっていた彼女は、ただならぬ殺気に目をさました。朝までは少し時間があったが、世間はかなり明るい。
しかし空には、灰色の雲が広がりつつあった。人の声はほとんどしない。だが烏や鳶がけたたましく泣き叫び、山犬が不安げに遠吠えする。
エニーメは立ち上がった。西のほうに、浅く湖水をたたえた平地が広がる。その方向を見つめている人たちは、不気味な光景に固唾を呑んでいた。
イノメもおきだし、眠い目をこすった。
「なんだ、どうした」
「……行こう。いよいよだ」
マリネもウツシコメと部下たちを起こした。腹ごしらえもし、元気を回復したモノノベ兵は、人数が増えている。周辺から駆けつけたらしい。
市で不安げに見つめていた人々も、名高い
香具山方面へ向かう細い道の両側に、巫女や老神女がうずくまり、思い思いに祈りを捧げている。朝が近づいても空には黒雲が居座り、どこから集まってきたのか多くの不安げに烏が渦巻いていた。
少し青ざめていたイノメは、引きつった微笑を見せる。
「どんどん集まっているな。人も獣も」
重大な危機が、日ごろの緊張関係を打ち破り、国と国の連帯感を生み出しつつあった。
朝になっていた。東の山々からは朧で赤い朝日が顔をだしていたが、ほどなく天にひろがりつつある黒雲に飲み込まれてしまう。その黒雲は、低い香具山上空を中心に、ゆっくりと大きな渦を形成しつつあった。
内つ淡海を取り囲む森の中、周辺部族が続々と集まりつつあった。森に続く神聖なる地域には、特に囲いも結界もない。
ツチクモ族は夜明け前、この森を通って聖域に侵入しているはずだ。朝の森には小鳥すらいない。獣たちは逃げ去ってしまったらしい。先頭を歩いていたマリネは、むこうから見慣れた一団がやってくるのに気づいた。
「おお、彦フトニの
黒田のイオト宮から、ただごとならざる雰囲気を察して、ヤマト族も駆けつけていたのだ。兵士たちは重武装である。手に槍や弓を持っている。
「マリネか、やはり羽々矢を放ったのは」
マリネは頭を下げ、今までのことを手短に語った。
あの戦闘的なマリネが極めて冷静になり、あれほど警戒していたエニーメに協力していることに、少なからず驚いた。
「……モモソ姫が、わが娘が香具山にいると言うのか?
しかも、黄泉津比良坂を開くために?」
すぐに信じられる話ではなかったが、エニーメは説得した。
「確かに見たよ、小さな比良坂と、そこから出てきたおぞましい醜女を。
神奈奇女の力をそんなことに使う為に、さらったんだ」
ともかく物部部隊とヤマト部族の戦闘集団は、聖なる香具山へと向かった。
北には
「おお!」
と歓声をあげたのは、クニクルだった。すでに聖なる山の周囲には、危機を知らされた磯城しきや登美とみ、
その他、見たこともない中小部族も思い思いに武装し、森のやや開けたあたりに進軍してくる。中には狩猟民も川漁師も混じっている。
多い国で数百、小さな村は十数人。中には日ごろ対立している邑、国もあるが、今はあからさまな異常事態に、小さな諍いなど問題にもならない。
「これは……」
エニーメは別のことで驚いた。さして高くもない聖なる山を取り巻く、奇怪な雰囲気である。
「エニーメ、奴らはもう……」
「すでに中に潜んでいる。しかしこれは、なんだこの、邪な風は」
フトニ王は同盟関係にある
いっきに山へ攻め入ったのでは、なにが起こるかわからない。しかもツチクモは、モモソ姫を人質にとっている。香具山の異様さに集まってきた各部族には、物部兵たちが走り事情を説明した。
中にはいきりたって、山へ遮二無二突撃しようとする部族もある。
またある王は神域へ斥候を出したが、「怪しい黒い兵」や、突如の雷に阻まれ登れなかった。矢をいかけられるわけでも、岩を落とされるわけでもない。
なにか不可解な「圧力」に妨げられているらしい。
低い山の山頂からは、煙がたちのぼっている。火がたかれ、生贄を捧げているのだろうか。ともかくなにか奇怪なことが起きているのはあきらかだ。
「エニーメ、行こう。ここで待っていても仕方ない」
「待てイノメ。なにがおきているか判らない」
突如雷鳴がとどろく。黒い雲は低く垂れ込め、香具山の上空を中心に大きな渦をまいている。その黒い渦が時折光る。
ついに周囲の木にも落雷した。人々が恐れおののく中、「神の怒り」は次々と辺りに落ちる。エニーメは黒い天を仰いだ。
「これでは近づけない。やつら、いかづちを操るのか」
朝はとっくにきている。しかし周囲は夕暮れよりも暗い。聖なる香具山を取り囲む武装民は、すでに万近くに達しようとしている。
あちこちで炎が火の粉を散らし、それぞれの部族を代表した巫女、神官たちが声を張り上げて祈っている。そのうち何人かは邪悪な気にあてられたのか、白目をむいて倒れてしまっている。
時折黒い雲からいかづちが落ち、高い木を裂いて倒す。悲鳴と怒号が重なる。
フトニ王たちが見守っているところへ、一人の斥候兵が戻ってきた。
「ほ、ほかのものたちは?」
生き残りはかぶりをふる。
「なにが起こったのかは判らぬ。森の中ではぐれ、次々と叫びが響く。
俺のすぐ前にいたものは、いきなり雷に打たれたっ!」
「おのれ怪しき奴ら、かくなる上は汚された山を火で清めるにしかず」
と物騒なことを言い出したのは、
オーメは自分の守るべき聖なる山を汚されたことで、怒り狂っている。
「待って。モモソ姫が山にいる」
とエニーメが言ってくれたので、フトニ王は目で感謝した。とは言え娘一人の為に、聖地を、ひいては湖水周辺の国々を犠牲にするわけにもいかなかった。
突然なにかのはじける音がして、女たちの悲鳴が上がった。見れば近くの焚き火で、騒動が起きていた。春日の老巫女が鹿の骨を焼いて占っていたのだが、突如その骨がはじけ飛んだのだ。
「これは、骨が割れるとは……このままでは尊き山が、香具山が汚される」
フトニ王は、真剣なまなざしでエニーメを見つめた。
「やつらまさに、この尊き山に黄泉への道をあけようとしている。しかもわが娘を使いて。……かくなる上は」
「待って。確かに山中の洞で、黄泉に住まうあやかし、黄泉津醜女とも戦った。
でも奴らは日の光に弱い。それに
けどモモソ姫は自ら心を閉ざし、その尊い魂を働かせていない」
「な、なぜそんなことが判る」
と聞いたのは、青ざめたクニクルだった。
「……俺には判る。神奈奇女の苦しみ、悲しみが。森の叫びや大神の悲しみが。
そして」
きょとんとしたイノメの野性的な顔を見て、微笑む。
「獣や鳥が、いかにやさしき心を持っているかも。
いや、誰にでも判っていたはず。
ツチクモならずとも、この世に満ちあふれる心と、さまざまな魂の叫びが」
エニーメを中心に、人々は輪をつくっていた。
長身でひときわ目立つ女戦士は、泣き出しそうな顔で見つめている女性的風貌の少年に微笑みかける。
「クニクル、あなたが頼りだ。血の近いあなたが、心の中で叫び続けよ。
あきらめるな、必ず助けが行く、と」
「お、俺が………」
なにかに気づいたクニクルは、黒雲にのみこまれつつある聖なる山にむかい眦を決し、やがてひざ立ちになって瞑想、ゆっくりと呼吸していく。
そのとき異次元化している山頂で、石の上に横たえられたモモソ姫の心に、確実になにかが芽生えていた。
だが儀式の最終段階を迎えようとする古き狩猟民は、気づかない。
山の異様さはますます増していく。香具山を中心とする湖水南部地方は、この世のものとは思えない情景に変じつつある。それを取り巻く各部族の兵士たちの心に、本能の「底」を威嚇する不安が広がる。
聖なる山を包む一帯は空間が妙に歪み、時の流れすらも乱れだしたようだ。
「しかし、わが娘をどうやって。皆で山を駆け上るのか」
「返り討ちにあう前に、闇の力に滅ぼされる。いかにすべきか……
ともかく、俺が行こう」
「エニーメ? どうするのだ。あれはまさに、この世のものではない!」
イノメの顔色もかわる。
「………俺なら、モモソ姫の心を読み取れる」
「心を読み取るだと? わが姫のか」
「ええ。心と心が通いあえると思う。
こう見えても、神奈奇女だったオトニイメと同じ血をひいているんでね」
エニーメは、むかし母からさずけられた先祖伝来の長い鉄剣を抜いた。天から降った星から鉄をとり、鍛え上げたものだと言う。
イノメは振り向き山を見上げる。上空では雷鳴がとどろいている。
「さて、ならば俺も化け物の巣に飛び込むか」
「おまえはいい、イノメ。命を粗末にするな」
「水臭いよ。われ一人じゃ危なすぎる。それに、オシカルの敵だ」
「待って。我も行かん」
「いやウツシコメ、むしろ俺が行く」
興奮したウツシコメは、マリネにとどめられる。しかしエニーメは二人を微笑みでいさめ、あきらめさせた。
少し悲しげな少女戦士は、千早の中から光る神宝を取り出した。
「ならせめて、これを持たれよ」
「死に返しの鐸だね。預かっておくよ」
感動し少し泣き顔になっていたフトニ王は、両手でエニーメの手をしっかりと握りしめた。
「頼む。やはり娘が……モモソ姫がいとしい」
「それでこそ父だ。あなたは叔母や母、イノメの母たちの敵の血筋だ。
でもまことに、この国を一つにまとめようとしている。邑々をふたたび戦の火でつつまぬようにね。
そしてまとまる国には、すぐれた巫女、神奈奇女がいて大国魂を鎮め祭らなくてはならない。それがかなうのは、一人だけだ。
かならずモモソ姫は助ける。そのあかつきは、あの尊き山はあなたのもの。そして必ず……」
涙をあふれさせ、フトニ王は何度も頷く。エニーメはイノメを従え、灰色の濃い霧が漂う、枯れはじめた森へと侵入して行った。
マリネが剣を振り上げて、雄たけびをあげた。
「おおっ! おおっ!」
ウツシコメも、他のモノノベ兵や大和の戦士。そして近くにいた春日や鴨、葛城や磯城の戦士たちも呼応して、雄たけびを唱和する。
歓呼の声に送られ、二人の女戦士は魔の山へと消えていった。
古い鬱蒼たる森が震えている。霧でも靄でもない、黒みをおびた正体不明の妖気が異世界を作り出している。
香具山は周囲の森などもあり、かなり広い神域を持つが、決して高い山ではない。むしろ高い岡といってもいいほどだった。
しかし古くから神の宿りたまう聖なる場所として、崇敬を集めていた。それが今や、黄泉の国もかくやと思われるほど、様変わりしている。斜面を登ってくと、想像以上に険しい。イノメたちも、登るのははじめてだった。
「ここはどこだ。……まことこれがあの香具山なのか」
昼日中、この一帯上空だけは黒く厚い雲が、手がとどきそうなほど低く垂れ込めている。冬の霧雨は半ば雪で、いっそう視界をとざしている。
邪悪な雲気に山が耐えかね、白い霧を噴出しているようにも見える。太陽の光はとどかず、周囲はぼんやりと輝く幽玄界と化していた。
「そうでもあり、そうでもなかろう。すでに奴らのたくらみで、異なる山に成り果てた。もうこの世とも言えぬな。黄泉とのさかい、
邪悪な結界が、時空すらゆがめている。もうここはこの世でも現世でもない。 そしてまだ幸いに、黄泉の闇でもない。
古来の禁域は広く、時折不思議な現象も見られる。山から広い裾野一帯を覆う神聖な禁足の森の周囲には、さまざまな石神、岩倉、祠、社が祭ってある。
その見えざる聖なる防壁を破り、目には見えずとも心を蝕む「結界」が張られているらしい。二人が斜面を登ると、木々がざわめいて行く手をさえぎる。突如地面が振動し、山肌を突風が吹き降ろす。
「こ、これでは登れぬ」
頭上では雷鳴がとどろき、足元はかすかに揺れる。
エニーメは引き抜いた長剣に、行く手のねっとりと濃い霧の壁を写してみた。 霧のかなた、黒々とした森が震えている。
「いる……この上に、必ず」
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