巻第十二
「ふるべゆらゆらと、ふるべ。ふるべゆらゆらと、ふるべ。ふるべゆらゆらと、ふるべ……」
モノノベの精強な兵士を率いる猛マリネは、腹をやられ口から血をだしてあえいでいるオトヨの前に片膝ををついて、奇妙な呪文を唱えている。
「ふるべゆらゆらと、ふるべ。ふるべゆらゆらと……」
そしてマリネは黄金色に輝く、小さな神宝を両手で捧げ持っていた。
エニーメは少なからず驚いた。それは古い形式の「ぬて」、即ち小銅鐸だった。 終末期に装飾化巨大化し、それゆえに他ならぬモノノベ技術部族自身が、弾圧したはずである。
低く呪文を唱えているだけのマリネは、額を汗でぬらし、息がかなり荒い。あたかも自分の命を、目の前に横たわる者に吹きかけているかのように。
苦しげにしていたオトヨは、銅鐸が輝きを発したとたんに大きく咳き込み、目を開けた。
「あ……うう、ここは」
今度こそ長身の女戦士は、心底驚いた。
全身全霊で祈り、「モノノベの魂返し」を行ったマリネは、ぐったりしとしていた。その秘儀で蘇ったオトヨは、湯冷ましを飲めるまでに回復していた。
同族を失い、かなりの犠牲者をだした責任を感じ、気落ちしている。そして今までのことを一切、白状しだした。
「すべて、オハリを戦いに巻き込まぬ為だ。古き鐸を作り、古き神を祈り続けたかった。
………ツチクモの怒りや悲しみも判ったからな。このままでは、滅ぶしかない」
マリネはいきり立つでもなく、時折エニーメの表情を気にしていた。彼もツチクモの復讐を、やや仕方ないと思い始めていた。
黙って聞いていた少女戦士ウツシコメが、口を開いた。
「やつら、どこへ行ってなにをしようと言うの」
「……エニーメの言うとおりであろう。やつら、
マリネの恐ろしい言葉に、モノノベの精兵たちも緊張した。
「この世を、むかしのごとき世に戻したい。ツチクモならずとも、山に狩する者どもは皆、そう願いておる。米作りこそが、森を焼き人を争わせるもとだ」
しかし中原は広い。いったいどこに「あの世への出入り口」を開けるのか。
エニーメたちも湯で傷を洗い薬草をつけ、赤米の粥で腹ごしらえをした。モノノベ兵も戦える者は半分に減っている。
しかも負傷者をなんとかオハリまで運び、養生させねばならない。マリネは南にむけて、何度か羽々矢を放って連絡した。焚き火で狼煙も送った。
ようやく一行は落ち着き、負傷者を運ぶ簡易担架も出来た。
そして谷川にそって下ろうとしたとき、最後まで洞窟を調べていた土器作りの
手には、血が塗られた平皿の破片を持っている。
「マ、マリネ。呪いに使う皿だ。しかもこの土は、カグヤマに違いない」
「なに? 天のカグヤマの土で平皿をかっ!」
カグヤマは中つ国でももっとも神聖な山で、大地の霊たる「大国魂」が宿るとされている。ミワの山が、一帯の地域神の宿る「依り代」なら、天のカグヤマはまさに天上至高神の「依り代」なのかも知れない。
かつてヤマト族の先祖が中つ国々に侵入、制覇しえたのも、カグヤマの土地を使った平皿で呪術をかけたためだと言われている。その作法は伝わっていない。
エニーメはその血のついた欠片を手にとった。
「どうやって尊き山の土を? ともかくここにその平皿があることは…」
マキムマの大市で、あの不気味なマイクメが土の詰まった壺を抱えていたことを、エニーメは思い出した。
「奴らの狙いはそれだよ。やつら、尊き天の
そこには闇を護る魔鬼として、あの黄泉津醜女が住むとされている。
「そう、そして黄泉津醜女ヨモツシコメを出す。いや、ついには黄泉津大神を蘇らせるわけかい、考えたな」
イノメの言葉に、マリネは深刻な表情で青ざめる。
「古くより国々邑々を守る、尊きこときわまりない香具山にか?
穢れた黄泉への通り道を開き、闇の大神を…。山は汚され、地は勢いを失い、ついには
「田は干上がり田作る者は死に絶え、世は昔に戻るわけね……」
そう言ったエニーメを見つめたマリネは、急いで一行を撤収させた。比較的元気な者をオハリの国に先駆として走らせている。
やがて日が高く上った頃、オハリからの「救援部隊」十数名と合流した。マリネたちは比較的傷の軽いものを率いて、急ぎ西へと向かう。
負傷者はその看護人とともに、オハリの宮で養生させる。そのことは命を救われたオトヨが保証した。
「おまえのことはヤマトに知らせるが、罪を問いはせぬ。だが再びわれらの為すことを妨げるなら、まことオハリを血に染めるぞ。
尊き
オトヨは項垂れ、返す言葉もなかった。エニーメとイノメ、マリネとウツシコメに加え十数人のモノノベ精兵は、山中の細道を西へと戻って行く。
元気なエニーメは、少し足をひきずって歩くマリネに声をかけた。
「大した物だな。話には聞いていたモノノベの『魂返し』の技、はじめて見た」
「吾らが密かに伝える、魂ふりの技の一つだ。いささか疲れる。
よろずのものに宿る
「モノ……俺達や森の輩が言う、シラのようなものか」
「かも知れぬ。我らはその
歩きつつ、エニーメは少し笑った。
「いかがした。なにゆえ俺を笑うのか」
「いや……なんだか汝が気にいりだした。おかしなものだな」
「………俺も汝が気に入りだした」
日が西の山に沈もうとしている。そのあたりが漠然とイガと呼ばれだしたのは、いつの頃だろうか。古くから住む者に、地域の名称などさして重要なことではない。
先住者がつけた名前を、あとからの開拓者が引き継ぐこともあれば、新たに名づけることもあった。あるいは「いかつい」と同じ語源ともいい、井のある処だとも言われる。
その深い渓谷にそった小路は東西をつなぐ主要道であり、戦略的な要衝にあたる。川の湾曲部には小さな邑があって、道を管理しつつ旅人に食料などを商っていた。ここは西側の、すなわち豊葦原の中つ国々の最も東の防衛拠点にあたる。
東の国々から運ばれる物資は、ほとんどここを通る。運搬人はここで休息しあるいは宿泊し、いよいよ
その小さいが豊かな村にも、早い夕暮れが訪れた。西から赤い夕日が、谷を染める。村をあげて、夕食の準備と夜警の用意にとりかかっていた。
火たきの老人が、地響きに気づき北側まで迫る山肌を見上げた。土煙とともになにかが山を下ってくる。
老人は叫び声をあげた。食事の用意をしていた女たち、槍などの手入れをしていた男たちも立ちあがった。やがて、村のすぐ北にある森の一角が爆発した。
いや、大木が土煙とともに天空に舞い上がった。その中から見たこともない巨大な灰色の獣が、飛び出してきたのだ。
巨象は鼻を振り上げ木々をへしおり、谷に響くほどの大きさで鳴いた。続いて、黒く奇妙な格好の一団が躍り出た。
谷川の村の人々は、わめいて逃げ回るしかなかった。
「矢だ! 矢をいかけよ!」
叫んだ老人の枯れた肉体は、次の瞬間に宙へと飛んだ。
村に暮らすものは農民でありつつ、村を守る兵士でもある。時には狩もする。 弓を手にしたものは矢を、槍をとってかけだしたものは槍を、黒く巨大な生物に使った。彼らがはじめて見る巨大生物は、体に矢をうけて痛みに怒り狂い、鋭く叫びつつ大きな鼻を振り回した。
かつてはこの島国の各地にいた象の、おそらくは最後の生き残りはこうして闇の中で暴れ狂い、人々を蹴散らして、多くの矢と槍を受けたのである。
日が暮れきり、谷に夜の静寂が訪れた。その中で室や高殿、高倉の燃え盛る音だけが谷川を流れていく。
矢や槍をいくつも受けて倒れていた巨象の傍らで、眉のつりあがった禿頭の少女が嗚咽していた。これほど泣いたのは久しぶりだった。
激しく呼吸していたオーキサは、最後に鼻をもたげ、少女の頭に触れようとした。が、そのまま息絶え、動かなくなった。ムイグルは声にならない泣き声をあげ、まだ温かみののこる太い鼻を抱きしめた。
周囲で佇んで見守っていたツチクモ兵士の何人かも、涙を流した。歳の近い女戦士ニウトベが、なきじゃくる少女の肩を抱きしめる。
やがて大長老オーエカシは言った。
「オーキサは我らの盾となって死んだ。しかし魂は、我らとともに歩む。我らの願いがかなう時、オーキサの尊き魂はまた新たな神となる。
我らに立ち止まることは許されぬ。休みて、西へとむかう。あと少しで、マキムクの山が見える。
巨象の遺体は、どうしようもなかった。焼くには大量の薪がいる。埋めるにはかなり大きな穴がいる。今はとても無理だ。
遠い故郷からもってきた土をかけ、独特の儀式を簡単にすませるしかなかった。ツチクモ兵士たちは食をとり休み、また夜陰にまぎれて谷川ぞいの道を西へとむかった。
ムイグルは泣きはらした目で、何度かふりむいた。燃える村のはずれ、横たわった巨象の肉体が、赤く染まっていた。
「炎だ、燃えている!」
目のいいイノメが真っ先に、尾根のむこうの煙を見つけた。夜空に黒煙が立ち上り、それが炎を反射している。エニーメやモノノベ精鋭の残存部隊は、深夜の東西道を川にそって夜駆けしていた。
彼ら精強部隊にとって夜も昼もなかった。一行は足早に、大きく蛇行する川沿いにすすみ、道を扼腕する集落跡へと着いた。
村はほとんど焼け落ちていたが、二つの室と一つの高殿が焼け残っていた。生き残った村人がなんとか小川から水を汲んで、類焼を防いでいたのだ。
またも突如出現した異様な集団に、残った村人は緊張した。しかしマリネが名前を明かすと、皆安堵した。
ウツシコメが指揮し、生き残ったものたちに手当てをした。ツチクモが突然現れたさまを聞き、そして放置された巨大な生物の死骸に驚く。
「………キサという獣だよ。こんなものがまた生きていたとはね」
山中で獣たちと暮らし続けたイノメも、見るのははじめてだった。マリネたちは、イノメがその巨獣の名を知っていることにも、驚いた。
村は壊滅し、男たちのほとんどは闘って果てた。女子供は逃げ隠れしてほぼ助かっていた。ツチクモは食料を奪うと、谷沿いの道を西へとむかったと言う。
食料だけは高倉にまだかなり残っており、モノノベ部隊はなんとか食料にありつけた。
手当てをおえたウツシコメは、食べると眠ってしまった。勇ましいなりをしてはいるが、まだまだ子供である。
エニーメたちも疲れきっていた。ツチクモを追い、中つ国々に危機を知らせなくてはならないが、歩き続けたのだ。しかし限界が近い。
マリネは部下を休ませつつ、羽々矢を用意する。
「ツチクモも大きなキサを失うほど、激しく戦った。またモモソ姫を連れてこの夜中に、そう早くは行けまい」
エニーメは山の芋を焼いてかじっている。
「しかし西の山々をすぎれば、巻向は近いぞ。そこを抜くつもりかな」
「巻向ならば夜通し火を焚いて守る。むしろ尊き
マリネは、鏃に穴の開いた少しかわった羽々矢を受け取った。
鏃の後ろに蒲の穂がさしてあり、「燃ゆる泥」が塗りつけてある。それを一番堅い「こわゆみ」に番え、力一杯に引き絞り、火をつけて西の夜空へと放った。
鏃は鳴り鏑となっており、甲高い音を発して火を夜空に引く。たちまち大きめの羽が両側に開き、夜風にのって遠くへと飛び去った。
「モノノベの羽々矢。必ずや山中の者が広い、また西へと矢を飛ばす。
少しはエニーメも休め。ほどなく、発たねばならぬ」
彼らモノノベ軍事技術部族は、街道や川沿いの要衝に「物見」「
こうして主要交易線、交通路を押さえ優位に立っている。
「なるほど、行く先々でマリネらが追ってきたわけだ」
風邪にのって滑空した火のついた羽々矢も、ついに力つきて山中に落ちた。しかし泥炭は燃え続けている。それをひろいあげた狩人が二人。狩猟民とは異なり、身なりもよく
「これは、モノノベの
「急ぎ
狩人二人は深夜の森を走り、高台に築かれた高地性の小さな集落を目指した。
そこには狼煙台も、大きな「ヤタノカガミ」で夜でも炎を反射して知らせあう特殊な通信施設も、作ってあった。
夜明けまではまだ少しあった。薄く霧が流れている。ウダと呼ばれる山がちの地方にも、モノノベ系の高城、即ち山岳部の小さな砦がある。
北には東西の道が走り、聖なる三輪山、そして巻向の大市にも近い。一帯はうっそうたる原生林におおわれている。
野鳥や小動物が闇の中で、耳をすませていた。
またこの一帯はかつてヤマト部族の祖、伝説と化したサノ王が中原にはじめて進出したとき、現地部族が真っ先に味方したことでも知られている。
田を切り開く場所もなく、戦略的重要性は低い。せいぜい川沿いに原始的な小部族が散在しているぐらいだった。
南北に横たわる高くもない山の中腹に、眼下の山道を監視する小さな砦がある。典型的な高城で、清水のわく岩場と柵で囲んだ高殿、食料と武器を入れる倉などからなる。
交替で三人づつが、この高地の小集落に詰め、「寝ず見」と呼ばれる不寝番を務めている。しかしここ数年はかわったこともなく、居眠りする者も多い。
「おい、起きよ」
朝までの交替の男が、見張り台でうたた寝していた男を揺り起こす。
「何をしていた。遠くに明かりが見えるぞ」
遥か東の山並みの中、別の高城がある辺りに、小さく炎が見える。通信に使う大きな銅鏡であろう、なにかが瞬いてもいる。
「東に備えよ。そう言うておるぞ。いつから知らせが来ていたのだ」
ここには狼煙はあっても、大鏡はない。南北の山並みを西へこえれば、もう葦茂る淡水域を囲む中つ国々であり、低い天の香具山が見渡せる。
もう一人は宵のうちに番を終え、眠り込んでいた。三人目もおこして、皆で目を凝らすが、炎は遠い。無論夜の狼煙や炎では、細かい情報は伝わらない。
だが明滅は三つ短く三つ長く三つ短く、を繰り返す。もっとも危険度の高い通信だった。
「なにがおきたと言うのだ」
そのとき、寝ぼけ眼の初老の男はふと下を、東の山肌を覆う原始の森を見た。
木々のあいだで何かが動いている。そびえる幹のあいだから、黒いなにかが現れた。
「なんだ。猪か?」
横一列になって斜面をのぼってきたツチクモの一団は、張り出した木製の見張り台の至近距離で、矢を射掛けた。
のぞいていた一人が十本近い矢を受け、無言で落ちた。
「おおおおおおっ!」
残った二人は声にならない悲鳴をあげて引き下がり、緊急措置をとった。
一人が狼煙台に回り、夜通し焚いている焚き火の焔を藁束にうつす。が、湿っており、なかなか火がつかない。あわてて藁束を落としてしまう。
その間にツチクモは高城に接近した。戦意は高いが皆落ち着いている。
「あわわわわわわわわっ!」
もう一人は震える手で、緊急用の閂を引き抜いた。独自の仕掛けによって両開きの板戸が外へはずれ、続いて大きな丸い岩が無数に転がりだした。
音をたてて、人の背丈の半分ほどもある石が、急斜面を転がりだす。
「! 避けろ! 石だっ!」
先頭をすすんでいた若き戦士マキリが、叫びつつ横へ飛ぶ。岩は斜面をなだれとなって落ち、森に飛び込んでいくつもの幹をへし折った。
その直前、ツチクモの兵士数人を飛ばし、あるいは潰していた。
後方にいたオーエカシは、モモソ姫を背負ったニウトベを抱くようにして、大岩を避けた。高城からの反撃は、これで終わりだった。
申し訳程度に矢が飛んできたが、ツチクモたちは態勢を立て直し押し寄せる。
「逃げよ!」
やっと藁たばに火をつけた見張りは、同僚に叫んだ。しかし返事はない。
焚き火の炎を室屋の上にまくと、西側の斜面を駆け下り、森の中へと消えてしまった。
その頃、果敢に反撃の矢を放っていた男は、闇に乗じて突進したマキリに、首を落とされていた。痛みすら感じず、頭を失って楠れ落ちた。
ようやく長老オーエカシらも到着した。狼煙台ととなりの室屋が燃えている。
「一人逃げたか」
「かまわぬ、ウカシコよ。まずは食べ物と水をとれ。少し休む」
ムイグルは燃え盛る狼煙台の近くに立った。
山の頂の西には、黒い盆地が広がる。その中央には満々と水をたたえた「内つ淡海」が広がり、月の光を反射している。
そして黒い森のあちこちに、小さく火が見える。
「……ここが」
「そうだムイグル。目指す中つ国々。シキシマだ」
マキリは悲しげに答える。いよいよ、大いなる復讐の時がせまった。しかしそのことが、なぜか悲しかった。
筵に横たえられたモモソ姫が小さく唸る。女戦士ニウトベは上半身を起こし、土器で水を飲ませた。
やってきたムイグルは、少し悲しげにその様子を黙って見つめていた。
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