巻第十一
イノメはオシカルの頭をさすりつつ、岩場をおりて急な斜面をくだる。エニーメは時折ふりかえりつつ、続いた。
夜明けが近いらしく、森の中で鳥たちがしきりに騒ぐ。しかし周囲はまだ暗い。 ようやく斜面を降りきると、谷底の小川に達した。二人と一頭は水をたらふく飲んだ。喉がかわききっていた。イノメの胃が正直に鳴る。
オトヨの部下に生き埋めにされたとき、食料もなにもかも失っていた。
エニーメは金の粒や翡翠のかけらなどと共に、硬く焼いた保存食料を一枚、懐にいれていた。
それを割って、イノメにわたす。
「すまぬ。……それにしてもあれは」
「見るのははじめてだが、恐らくあの姿。そしてあの穴。
あれは、シコメ、ヨモツシコメだ」
「なに?」
かつてこの国を生んだ大地母神イザナミは、火の神を生んで死んだ。死後、死者の魂が集う地底の王国「黄泉」を支配する、ヨモツオオカミと化した。
その黄泉の国を管理する鬼がヨモツシコメであり、黄泉とこの世をつなぐ道が、ヨモツヒラサカだとされる。
「シコメは黄泉にしか住めないんだろ。それをどうやって呼び出した」
「そうだ、ヨモツヒラサカしか通れない」
「じゃあやつら、ヨモツヒラサカを開けたのか。でもなんのために、まさか……」
「ヨモツヒラサカをあけるのに、モモソ姫の力をどうにかして使ったらしいな」
「ど、どうやって、いや、知るはずもないか。しかし何のために」
「マイクメの言うごとく、あれは『試し』だろう。モモソ姫がどこまで出来るか」
「試し? ではどこにヒラサカを開けるつもりだ。
でもヨモツヒラサカをあけたら、あんなヨモツシコメがたくさん出てくるのか」
「……それだけじゃない。
黄泉へとつながる坂があけば、黄泉をすべるヨモツ大神が蘇るかも知れぬ」
「ヨ、ヨモツ大神がこの地へ? やつらそれを目指して? 死せる魂を司る大神が蘇れば、この世はどうなると言うのだ」
「判らぬ。なにゆえツチクモがそんなことを企てているのかも」
ゆっくりと歩いていたイノメが、鼻をならした。森の奥、なにやら香ばしいいい匂いが漂っている。
見ると、腹をすかせたオシカルは匂いにつられて森の中へと入っていく。
「オシカル、おい……」
傷ついた大猪も、まともなものは食べていなかった。人語を解するとは言っても、山の獣である。野生の芋を焼いているらしい匂いには、あらがえない。
イノメを追って、怪訝そうなエニーメも続く。森と言うより密林とも呼ぶべき密度を持つ木々の中、えも言われぬ匂いが流れてくる。
しかし、あまりにも不自然だ。
大猪は半ば走っていた。なにかいやな予感がし、エニーメは叫ぶ。
「オシカルを止めよ。危ない!」
何故危ないのか、イノメには理解しかねた。
木々のあいだをぬけ、やや開けた場所へ出た。小さな焚き火の中に牙をつっこみ、オシカルは焼いた大きな芋を引っ張り出して、つつきはじめている。やっとイノメ、そして背中に手を回して柄を握り締めたエニーメがたどり着いた。
「うまそうだな」
「いけない、これは!」
殺気に気づきエニーメは見上げた。太い枝の上から二人がかりで大きな網を投げるところだった。たちまち二人と一頭は網に包み込まれる。
蔓で編んだ頑丈なそれは、鉄剣でもなかなか切れない。木陰から飛び出した数人が、網ごと槍を土に突き刺し、焚き火を足で踏み消した。
オシカルは網の中だった。槍をもった数人が警戒している。剣を奪われたエニーメとイノメは、縛られこそしていないが座らされ、槍や剣をつきつけられている。
ふてくされたイノメの顔を覗き込んでいるのは。漆塗りの短甲をつけた少女、ウツシコメである。愛らしい童顔が少し驚いている。
金で飾った鞘をつっている。全体的に、裕福そうだった。そのうしろ、ややあきれた表情で見下ろしているマリネは、エニーメに問う。
「……ツチクモと、何を話した」
「まだ俺を疑っているの? おおごとが起こりかけているのに」
モノノベの精兵にまじって、遠巻きに眺めているのはオハリのものどもか。その中にエニーメは、あのオトヨの怯えた顔を見つけた。
「そこのオトヨに聞いてみよ。俺たちはモモソ姫を取り戻すべく、ツチクモの住む穴に入ったのだ。
そして恐ろしい企みを探り当てた。そいつが岩を落とさなければ、今頃」
猛マリネもウツシコメも振り向いた。青ざめたオトヨは前に出て、震える指でエニーメを指し示す。
「この者はいくさを仕掛けに行った。だからツチクモは恐れ、逃げ去ったのだ」
イノメは忌々しげに唾をはいた。
「俺たちのことをツチクモに知らせ、しかも崖を崩して俺たちを殺そうとしやがったな。
次はモノノベの
ウツシコメやモノノベの黒い武装兵たちは、オトヨや後ろで隠れる男を見つめた。どこか沈んだようなマリネは、奢るでもなく威張るでもなく、たずねる。
「なにがあったかは知らぬ。またおまえたちの言うことは、よく判らぬ。
ともかくこの先にツチクモの潜む洞があり、そこから逃げてきたのだな。
エニーメよ、そこにモモソ姫はいるのか?」
「モモソ姫はもういない。そいつがツチクモに知らせ、逃がした」
「まだ言うかっ! マリネ、このような流れ者の言うことをきくでないっ!」
「……それでは、ヒメはどこに?」
「恐らくツチクモたちは、西へとむかっている。俺たちの知らない、山の道を通って。奴ら神奈奇女の力を使い、ヨモツヒラ坂を開けようとしている」
二人のモノノベの戦士は顔を見合わせた。オトヨは引きつった笑いを見せる。
「ヨモツヒラ坂? おろかな。いかにしてそんなものを開くのだ。
開いてどうする。ヨモツ大神でも蘇らせるつもりか」
「……そのつもりだろうな。疑うなら、あの洞に行ってみよ。
試しに開けかけた、
マリネは深刻な表情で、まだ十代前半であろう少女戦士の顔を見つめた。ウツシコメも表情を硬くし、黙って頷く。
「よし、皆、動くぞ。大猪は網に絡ませたまま連れて行く」
イノメは「相棒」に目で合図した。立ち上がったオシカルは、たちまち牙と歯で蔓の網を破り、中から飛び出した。
「オシカル」
とイノメが静かに言うと、大猪は特に暴れもしない。モノノベの精兵がこわごわ取り巻く中、ゆっくりとすすみだした。イノメも立ち上がる。
「さ、行こうか。見たいんだろ、黄泉の穴が」
モノノベの兵士に追い立てられるようにして、オトヨやアシハヤ他のオハリ人も付き従った。
「この中か、エニーメ」
「行く気かい。すすめないけどね」
マリネは振り向き、大柄な女戦士を見つめた。傍らの部下に命じた。
「この二人の剣を戻せ」
「よ、よいのですか」
少し振り向き、驚くウツシコメの顔を見た。しかし許可を求めようとはせず、命じる。
「かまわぬ。この者らは敵ではない。それに……いや」
エニーメは長い剣を斜めに背負って、胸の前で紐をしっかりと結んだ。朝が近く、洞窟の中もほんのりと明るい。松明や藁の火はすべて消えている。
「火を。松明をつけよ」
マリネに命じられ、すばやく手際よく兵士たちは火打石をつかった。「越の燃ゆる泥」をつけた松明は臭いが、火の勢いはよい。
一行三十数人は、恐る恐る広く複雑な洞窟内へと入った。人気はないが、確かにごく最近まで、人の暮らしていた形跡はあった。
簡単な炉をつくり、煮炊きした跡もある。
そして奥のかなり広い空間の中心に、淵の盛り上がった大きな穴があった。周囲には血が飛び散っている。一行は固唾を呑んだ。少女戦士は驚く。
「マリネ、これはなに?」
タケマリネは持っていた松明を穴に投げ込み、覗き込んだ。炎は小さくなって見えたが、底に落ちた音はしない。
「底なしか?」
「言うたろう。それが黄泉への出入り口、
誰かが叫ぶ。マリネたちが見上げると、暗く複雑な奥で、松明をかかげた兵士数人が身構えている。岩が崩れ、土砂が積み重なった辺りである。
「なにかがうめいている!」
エニーメとイノメは顔を見合わせた。マリネやオトヨについて奥へとすすむ。
オシカルが体当たりで崩した横穴である。確かにうめき声がする。
「マリネ、中でなにか音がします」
エニーメはやや焦って叫ぶ。
「そこは危ない。
「シコメだと? そのようなものが、この世に生きているはずもなし」
「だから奴は、生きてはおらぬ、危ういぞマリネ!」
止めようとするエニーメたちを、モノノベの精兵数名が囲む。不気味なうめき声が洞に低く響く。モノノベ兵の一人が震えつつ叫ぶ。
「タケマリネよ、中でなにかが光り動く!」
崩れ残った空間から覗き込んでいた精兵がもっと見ようと松明を差し込んだ。
「ぐわあああああ!」
奇怪な叫びが響く。熱さに耐えかね、中からくずれた部分を破ろうとする。
「おのれ、なにもの! 出てこい! ツチクモかっ!」
と外側からモノノベ兵たちが、積み重ねられた石を崩そうとする。
「やめろっ! やめぬか」
エニーメが駆け寄ろうとしたとき、その剣幕になにかを察したウツシコメも、叫んだ。
「やめよっ! 危うい!」
数人の黒い重装兵は驚いて手をひいた。しかし遅すぎた。積み重なった土砂は崩れることをやめない。
「いけない! 皆を引かせて」
エニーメが叫ぶ。イノメはオシカルに寄り添う。大猪は低く唸る。
突如土砂が、爆発したように吹き飛んだ。居合わせた人々は目をふさぐ。濛々たる土煙が洞内をかけぬけ、やや薄らいだ。突如悲鳴が響いた。エニーメは咳き込みつつも、本能的に刀の柄をつかみ、目をこらした。
黒い影が動いている。それは赤黒い全裸の巨大女に高々と持ち上げられた、モノノベ精兵の一人だった。
「た、助けて……」
あっけにとられる人々の前で、その気の毒な兵士は投げ飛ばされ、別の兵士二人にぶつかって落ちた。
傍らで呆然としている他の兵士をふりかえると、シコメは牙をむいて襲い掛かった。喉笛に食いつかれ吊り上げられた兵士は、足を激しく痙攣させるが悲鳴も出ない。
やっと正気にかえったマリネは、剣を抜いて叫んだ。
「闘えっ!」
兵士たちは自慢の鉄剣をひきぬいた。鉄材は海外からの高価極まりない輸入品である。
「ひとときに襲え!」
腕自慢十数人がいっせいに襲い掛かり、巨大な赤黒い女怪に斬りかかる。禿頭の怪物は大声をあげて太い腕を振り回し、次々と精兵をとばしていく。
皮膚は傷つくものの、肉までは達しない。モノノベの精兵はそれでもひるまず、次々と斬りかかり、鋭い爪と太い腕の餌食になる。あまりのことにマリネは叫んだ。
「ひけ、ひとたびひけ! 火矢をもて!」
傷ついた仲間を入り口までひきずり、無傷の精兵は次々と弓を用意した。越の「燃ゆる泥」をつけた鏃に松明の火を移し、二段にかまえる。
怒りに赤い目を輝かせ、爪と牙をむき出したシコメが迫る。マリネの「放て」の命令で、いっせいに火矢が飛ぶ。
しかしその多くは、シコメのかたい皮膚に弾き飛ばされてしまう。シコメは怒り狂い奇怪な声で絶叫する。しかし出入り口付近には近づこうとしない。
いきりたつオシカルを鎮めるイノメも、いぶかしむ。
「なぜシコメは、襲ってこない?」
エニーメはふりむいた。洞窟の外が明るい。
「朝だ! やつは朝日に弱いのか」
シコメは辺りを見回し、一抱えもある岩を持ち上げた。
「危ない!」
と叫びながらウツシコメに覆いかぶさるマリネの上を岩がとび、数人を弾き飛ばして入り口付近にぶつかって砕けた。
洞窟内を振動が走り、出入り口の一部が崩れる。怒号と叫びがこだまする。
「いけない、やつは出口を防ぐつもりだ!」
エニーメの叫びに、逃げかかっていたオトヨなどオハリびとが走り出した。
そこへ別の岩が襲う。アシハヤは岩に弾かれ、背骨をおられたまま洞窟から飛び出し、岩場を転げ落ちた。
一人は石の下敷きになりつぶれ、モノノベ兵の一人は崩れてきた天井岩の下敷きになった。それを目の当たりにしたエニーメは叫ぶ。
「逃げるな! やつが岩を持ち上げたときに攻めよっ!」
天井が崩れる中、モノノベの戦士たちはまた二列になって火矢を構えた。さらに岩を投げつけようとシコメは探すが、そうそう適当な岩などない。
しかし出入り口が半分ほど埋まり、朝日が入ってこなくなった。また火矢がシコメを襲う。毛の生えた腕で顔を覆うと、ほとんどの矢ははじかれてしまう。
「火矢も剣も歯がたたぬか……」
起き上がりながら、ウツシコメが叫ぶ。岩の破片を腹にくらったオトヨを助け起こしながら、エニーメが言う。
「なんと言う奴。まさに黄泉の
ついに精強なモノノベ兵も後ずさりしだした。が、出入り口は半ば崩れ、石や土砂がふさいでいる。一度に大勢は脱出できない。
しかもこのまま外へ出せば、おおごとだ。
エニーメは長い刀を振り上げ、マリネに叫ぶ。
「俺がひきつける。傷ついた者から、運び出せ!」
とは言っても前の手は使えない。相手は思いのほか賢い。イノメも母の形見であるふるい銅剣を構えた。丈夫で切れ味もいいが、相当重い。
「で、どうする。エニーメ」
「浅い傷でもたくさんつければ、奴とてひるむ」
「でも殺せないんだろ?」
「黄泉には戻れるはずだ」
猛マリネは太い眉を寄せ、無傷で残った兵士に命じた。
「
残存兵の半分に退出路を開けさせ、半分に火矢を射掛けさせて、エニーメたちを援護させようとする。
「あっ!」
銅剣を振り回し肩で息をしていたイノメが、盛り上がった石につまずいて尻餅をついた。すぐ後ろはあの、「試掘」された黄泉津比良坂である。
前は口から血をしたたらせた、赤黒い醜女が迫る。進退きわまった彼女は、尻餅をついたまま銅剣を構えた。
「イノメッ!」
エニーメの叫びに、醜女はふりかえり睨む。目は血走り、口は裂ける。
しかしエニーメにもどうしようもなかった。洞窟内に響き渡る奇怪な雄たけびを一つ発し、地獄の鬼女は爪をむき出して低く構えた。そして食べ応えのありそうな獲物に飛び掛ろうとする直前、甲高い動物の鳴き声を聞いてふりかえった。
エニーメたちのあいだから飛び出した大猪は大きく後ろ足をけり、岩天井をかすめて鬼女の上半身に飛びかかった。
本能的にイノメは伏せた。その上を、赤黒い巨体が倒れ掛かる。振り返った黄泉津醜女は大猪を両手で抱きしめる格好になり、そのまま背中へと倒れるしかなかった。
あの底なし穴のほうへと。あわてて起き上がり、穴をのぞくイノメ。駆け寄ったエニーメも、四つんばいになって穴をのぞきこむ。
大猪の背中が、闇に飲まれていく。長く赤黒い手足がその下でもがいている。 イノメは叫んだが、声にならなかった。醜女とオシカルの姿は、闇の底に消えた。もうなんの音も聞こえず、ただかすれたイノメの声だけが反響している。
エニーメは岩の上に腰をおろし、深くため息をついた。
こわごわよってきたマリネが問う。
「し、死んだのか……」
「奴は黄泉の鬼。死にはせぬ」
泣きじゃくるイノメの大きな背中をやさしく抱きしめたのは、あのウツシコメだった。半ば崩れた入り口から、朝日がようやくさしこみだした。
夜があけきった頃、モノノベ兵たちは洞窟を脱し、下の小川のわきで負傷者の手当てをしていた。数人が命を失い、その場に葬るしかなかった。負傷者も十人以上いる。兵力は半減していた。
アシハヤは即死、オトヨは腹を破られ重態である。イノメは膝をかかえ、泣きはらした目でぼんやりとしていた。
疲れたエニーメが小川の雪解け水で足を洗っていると、足音がゆっくりと近づく。マリネは傍らに腰をおろし、木碗にもった粥とさじを与えた。
エニーメは少しほほえむと、それを食べだした。
「……また、救われたな」
「俺を疑わなければ、
「……もうふたたび、汝の言うことは疑わぬ」
と、正直に頭を下げるのだった。
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