巻第十
急な渓谷に、水の音だけがする。動物たちも逃げてしまい、動くものはない。
やがて崩れた崖の一部、下のほうが動いた。小石がさらに崩れ小さな穴があいた。土煙がゆっくりと流れる。ごく小さな穴から、鼻が突き出された。大猪は怪力で岩を飛ばし穴を広げていく。ほどなくその大きな頭が出現した。
オシカルは鼻から大きく息を噴出し、いっきに土砂を崩して深夜の警告に出た。その穴から続いてエニーメが、顔をだした。全身土埃まみれである。
「イノメ急げ、また崩れる」
エニーメに腕をひっぱられ、イノメが穴から這い出したとたん、その穴もまた崩れてしまった。イノメは四つんばいになったまま、激しく咳き込む。
「イノメ、気を確かに」
「た……助かった。ひどい目にあった」
「怪我は?」
「たいしたことはない。オシカル、よくやったぞ」
大猪は背中に少し傷を負っていた。二人は小川で手と顔を洗い、衣服のほこりをはらった。イノメもたくさんの水を飲んだ。顔に怒りがみなぎっている。
「ツチクモか、それともさきほどの川の民か」
「いや、そうではなかろう」
「では誰だ」
エニーメは川下の闇を、じっと見つめた。二重の大きな眼が輝く。
「松明の、列?」
柵で囲まれたオハリの宮に深夜、急報が走った。オトヨは武装した十数人を連れて国境に急行した。もとより明確な国境があるわけではない。オトヨが自らの領地界と信じる交通の要所、川の傍などに警戒の小屋を置いている。
ほどなくオトヨは、大木の下に火を炊いて休息している三十人ほどの一行を見つけた。緊張する部下をおき、オトヨは黒い一団に近づいた。相手がなにものか、見てとったからである。
甲をぬいで飯をくっていたマリネも、さして緊張せずに立ち上がった。
大木にもたらかかってうとうととしていたウツシコメも、目を覚ました。
「我は、ここオハリを統べるオトヨ」
「……我はマリネ。モノノベのタケマリネよ」
「我らもまた、かつてはモノノベと
「しかるに汝は、いまだ古き技にこだわり、尊き銅を溶かして鐸を作るな」
「オハリにはオハリの神がおる。汝ら何ゆえこの夜更けに、
「国を侵すつもりはない」
と言ったのは、勝気そうな少女だった。
「我はモノノベのウツシコメ。これより北の山々に潜む、ツチクモを追う」
と、いきさつを正直に説明した。
「……ツチクモのことはあずかり知らぬ。されど諍いはない。
汝らは田を作るのに力をいれすぎ、森を焼き獣を追い、狩する民を追い詰める。なにゆえ、狩をなすものと共に暮らせぬ。我らはツチクモともヤマトとも争わぬ。田と森の豊かな実りに支えられ、このオハリで暮らし続けるのみ。
ここに戦いを持ち込むことは、許さぬ。
しかるにツチクモとむやみに闘わぬなら、その住まう森に導こう」
「……それは奴らが、モモソ姫を返すか否かにかかる」
鳶が夜空高く鳴いた。人々は星空を見上げた。
「ここはどこだ」
一方谷から奥地へとむかっていた二人と一頭は、夜霧の仲で迷いかけていた。 動物、森の王者としての勘から、方角を鋭く読み取れるはずのオシカルも、どこか不安げである。息も荒い。
その大猪も、背骨と足を痛めている。何か悪い予感がしているらしい。
「なにやら、妖しいことが起きている」
「エニーメもか。オシカルまでが怯えておる。なにゆえそう思う」
「心に触れる。恐らくはモモソ姫の恐れと悲しみ」
「なに?」
モモソ姫は松明のほのかな明かりの中で、額に朝を浮かべ、時折白目を見せてうなされていた。自分が気を失っているあいだに起こったなにやら「恐ろしいこと」が、悪夢となって深層意識を威嚇しているのかも知れない。
ここでのツチクモたちの扱いは、意外にもよい。
彼らにとっては貴重な米も、清水も与えてくれる。とは言え監禁状態に違いはないが。
洞窟の一番奥、くぼんだあたりに筵を垂らして小部屋となし、藁を積んで寝床を作ってくれている。その筵がゆれ、あの禿頭の少女が顔をだした。
手には木椀をもっている。モモソ姫は目をあけた。
「これを飲め、力がつく。食べぬと体がもたぬ」
その心根は理解でき、モモソ姫は上体をおこし、なにやら不気味な薬草汁を飲んだ。かなり苦みがある。
「
ムイグルは傍らにしゃがみこみ、悲しげな視線で見つめる。
「汝らは火で森を焼いた。これからも焼き続ける。そして狩る民を追い詰める。
我らは我らの世を取り戻す。この世を、田つくる前の元々の姿に戻す」
「田を作る前の世に?」
「ええ。そのために汝を使う、まことにすまぬとは思う。
もとは我こそが、その命をかけて『よりまし』になるはずだった。しかしマイクメがあなたの話を伝え、オーエカシらが心を変えた」
「汝にも、わたしと同じ力が?」
「ええ、悲しい思いもしてきたよ」
「なんの『よりまし』を我に」
「………ヨモツ
「え?」
「これでやっと死ねると思ったのに。まだまだ死なせてもらえない。
もう……疲れたのに。休みたい」
ツチグモ族は、稲作部族やヤマトの一族に復讐しようとしているのではなかった。かつての大地母神を地上によびおこし、世界を「稲作前」に戻そうとしているらしい。
黒い森の中を走る影が一つ。かもしかか何かのように早いが、あきらかに人である。突如闇を切り裂いて火矢が飛び、その影をかすめて木の幹に突き刺さる。 その影は驚いて立ち止まり、身をこわばらした。
火矢のはなつ明かりが、かすかに顔を照らす。闇の中から声がする。
「止まれ、何者か」
「ツ、ツチクモに物申す。我はアシハヤ。オハリの彦、オトヨの使いなり。
急ぎ申したきことあり」
数呼吸のあいだ、辺りを沈黙が支配した。
「して、オトヨはなんと」
「間もなく、ヤマトの者どもが来るぞ」
「ヤマトの? なにゆえここまで」
「知らぬ。モノノベの
我らになすすべなく、オトヨが導いている」
「オトヨが道を? どう言うつもりだ」
「やむを得ぬのだ。恐ろしきモノノベの
されどオトヨは汝らを助けたく、こうして俺を先に走らせた」
「……承った。汝はとく、オハリへ戻れ」
闇の中、複数の足音が遠のいた。やがてアシハヤは緊張がとけ、その場にしゃがみこんでしまった。しばらくすると、夜の森の中に奇妙な甲高い叫びがひびく。夜鳥の鳴き声のようでもあり、鈴を転がしているようでもある。人間が聴きとれる高さぎりぎりの声は、夜のしじまを破りかなり遠くまで響き渡る。
ほどなくすると、その甲高く長い叫びに呼応して、同じような声が山の中で響きだす。やがてもう一つ。こうして険しい山の中に、合図の声が響く。
山の中に広がる太古の森。その巨木に守られた洞窟の入り口から、「外界」が垣間見える。
ほのかな突き当りの中に身をさらしていた白髪豊かな長老オーエカシは、南から響いてくるあの甲高い叫びに答えて、同じような叫びを一つ発した。すぐに踵をかえし、毛皮をなびかせ杖をつきつつ洞窟にはいった。
すでに主たるものが集まっている。
「ここを引き払う、いそげ」
皆、何か緊急事態が起きていることは知っており、黙ってそれぞれの作業にとりかかった。
ただ一人、体よりも高い杖をにぎった薄汚い中年男が、巨大な片目をぎらつかせたまま、オーエカシを見つめていた。
森の中でも、大猪はよく先が見える。またあの巨象の独特なにおいが、微かに漂ってくるらしい。目的地は近い。太鼓の原生林の中を確実に導いてくれる。
脚と背中に傷をおっているが、かなり早く走る。エニーメはともかく、脂肪をまとって胸の大きなイノメは、ついて行くのがやっとだった。
「イノメ、さきほどの声は」
「知らぬ。ただ山に狩する者は、ああやって声を出し合って、危うきを知らせると言う」
「やはりツチクモか」
「おそらくな、俺たちに気づいたかな」
しばらくすると、木々に囲まれた岩場にたどりついた。少し上に、人の高さの倍はある大きな洞窟が、口をあけている。オシカルは太い猪首を持ち上げ、鼻をならす。洞窟の入り口は巨大な古木で隠されているようだ。
「あれだ。剣を抜いたほうがいな」
「待てイノメ。様子がおかしい」
エニーメは険しい岩場を、剣もぬかずに軽がると登っていく。洞窟内に姿を消ししばらくすると、中から呼ぶ。
「やはりだ、誰もいない」
なんとか洞窟入り口までのぼってきていたイノメも、消え残った松明に照らされた、意外なほど広い洞窟内を見つめた。エニーメの大きな後姿がある。
「誰もいない?」
「焚き火には炭が残っている。今しがたまで、人がいたようだ」
やっとのぼってきた大猪が、鼻をならして奥へとすすむ。
「あまり行くな、オシカル」
洞窟の奥、広場のような空間の端にえぐれた部分がある。そこには清潔な藁が積み重ねられている。オシカルは警戒しながらしきりに鼻をならす。
「どうしたエニーメ。ここはなんだ?」
「モモソ姫の寝床らしい。オシカルがかぎつけた」
エニーメはなにか不気味なものを感じ、洞窟内の広い場所を見渡した。積んであった藁を一掴みとり、硬くしばる。それに消えかかった松明の火をうつすと、洞窟内がやや明るくなった。イノメも真似て、速成の藁松明を作った。
天井は見えないほど高い。そして「広場」の中央に、奇妙なものが見えた。
「なんだ、あれは」
土が盛り上がっている。いや土のはずはない。下は平たい岩である。
その岩が、下からめくりあがるような形で、大きな穴があいている。溶岩が急速に冷えたようにも見える。
「エニーメ、これは?」
あの巨象でも楽に出てこられそうな穴の奥は、なにか不吉なものを感じさせる。理由はない。のぞきこむと、背筋に冷たいものが走る。
「それはほんの、試しにすぎぬ」
しわがれた不愉快な声に、二人は全身に悪寒を感じつつふりむいた。奥の暗がりから、その人物はゆっくりと現れた。大型の鳥の羽をつづり合わせた、古く薄汚れた衣。複雑に湾曲した、背丈よりも長い杖をついている。
肩まで垂らした髪は不潔で、半ば固まって異臭をはなっている。その鷲鼻と大きな口、わけても不釣合いなほど大きな目が特徴的だった。
マイクメは、左目をつぶり右目を炯炯と怒らせて、ゆっくりとうす明かりの中に身をさらした。二人は硬直した。
その後ろで、大猪は少し後ずさりして、ひくく唸る。
マイクメは震える右手をさしだした。
「返せ。我が『
エニーメは冷ややかに見つめ、はき捨てるように言った。
「ああ、あれか。捨てた。粉々に砕いてな」
マイクメの残った目が大きく見開かれ、瞳孔が拡大した。右手で長い杖を振り上げながら、大声をあげて襲い掛かってきた。
エニーメは冷ややかに微笑むと、簡単にかわした。勢い余ったマイクメはつんのめって倒れかけた。イノメも体をかわしところへ、中年男は倒れてしまった。
オシカルは鋭く唸る。エニーメは起きようとするマイクメの背中を、右足で踏みつけた。
「よくも俺たちを『遠津目』などで探り、モモソ姫をかどわかしてくれたな。
このたびはお前に、語ってもらおう」
ぐったりしている邪悪な預言者の襟首をつかんで、エニーメは大きな穴のふちまで引きずっていった。
その淵は岩が一度溶け、冷え固まったようになっている。大穴は底知らずで、奇怪な何ごとかが、その奥深く蠢動しているような悪寒をもよおさせる。
「この穴はなんだ。まだ新しく、熱い」
マイクメは顔をもたげ、一つのこった「
「も、もう遅い。森を焼き地を汚した汝らは、恐ろしき神により滅ぼされる」
「なにぃ? 恐ろしき神とは?」
「我が村を焼き沼を田にかえ森を消し、狩人を滅ぼしツチクモを追い払った。
今やヤマトの者どもや、田作る者どもが泣きわめくのだ」
邪悪な穴の底で、なにか奇怪なうめき声がする。オシカルも低く唸り、後ずさりした。のぞこうとしたイノメの背筋を、するどく悪寒が走る。
「なにか、いる」
「ふふふ、呼び出しかけてやめたが、やはりあの乙女の力はかなりのものだな」
「乙女だと? モモソ姫ね」
「あのカンナクシメを『よりしろ』として、今こそ大いなる神がよみがえる。
そして穢れた世を清め、田作る者どもを滅ぼしてくれるわ」
「神とはなんだ、なにを呼び出すっ!」
またあの奇怪なうめきが、洞窟内に低く響く。マイクメはけたたましく笑い出した。
「血が欲しいのだな。目覚めたばかりで、飢えておろう」
首根っこをエニーメにつかまれて爪先立ちになっていた男は、全身の力をこめて両手で彼女の胸あたりを突き放した。
エニーメは数歩よろめいたが、突きとばしたマイクメは不敵に笑いつつ、暗黒の穴へとおちていった。あわててイノメが淵にかけよる。
狂気に満ちた笑い声は遠のき、遥か底でなにかの潰れる嫌な音がした。その直後、あの不気味で身の毛もよだつうめき声が、高まった。
骨かなにかを噛み砕く音が、近づいてくる。
「イノメ、下がれ!」
二人と一頭は本能が警鐘を鳴らすのにしたがって、あとずさりする。エニーメは長い鉄剣を、イノメは母の形見たる銅剣を引き抜いた。
「来るぞっ!」
溶けて固まり盛り上がった淵に、黒い爪ののびた手がかかった。大きな人間の手だが、産毛が生えている。色は赤黒い。
ついにその姿が現れた。まさに鬼に相応しい、邪悪で奇怪な生き物。しかし不思議な美しさも、あわせもっている。なりも顔立ちも女のようだ。
しかし大きい。群をぬく長身のエニーメよりも、頭一つ以上大きい。そして髪のない頭のわきについている耳は、とがっている。
全裸で、ひざから下は毛に覆われていた。足にも鋭い爪が生えている。
「な、なんだこれは……」
「さがれイノメ、この世のものではない!」
エニーメは長刀を頭上にかまえ、地獄の化け物に切りかかった。
怪女は右手でそれを受け止めた。赤黒い血が噴出すが、皮膚を傷つけただけだった。さがったエニーメの手がしびれている。
「か、硬い!」
掛け声とともにイノメも斬りかかった。その銅剣を胸に突き刺そうとしたが、切っ先がはいっただけで、銅剣はたわむ。
「ぐわお!」
痛みに叫んだ魔物が、左手をはらった。イノメの脂肪がちな肉体が横へと飛ぶ。間髪おかず、牛ほどもある猪が突進した。
その鋭い牙にかかれば、化け物も傷つくはずだ。
しかし化け女は爪の異様に長い両手で、刀ほどもあるオシカルの両牙をつかんだ。大猪が鋭く叫ぶ。赤黒い女は大きな歯をむいて笑うと、大猪の体をひねって飛ばした。
「でやぁぁぁぁ!」
エニーメは背中から斬りつけた。背中に斜めに切り傷が出来、怪物は叫ぶ。
しかしまたも丈夫な皮膚を傷つけただけである。怒りに満ちた目で、怪物はふりかえった。エニーメはとっさに周囲を見回す。
洞窟の奥、複雑な構造を持つ横穴のようなものがある。
そこめがけて、あとずさりしだした。怪物は爪と牙をむき出し、低く身構えてエニーメににじりよる。長身の女戦士はあとずさりしつつ、右手をのばして長剣をゆっくり左右にふり、怪物を挑発する。
「ぐるぅぅぅぅるるるっ!」
怪物女は口を開き、飛び掛った。軽く横手に飛んでかわすエニーメ。怪物は勢い余って、横穴の中に飛び込む。鍾乳石がおれ、奥で岩の崩れる音がする。
「イノメ! オシカルを穴の口にぶつけて!」
イノメの命令をきかずして、勘のいい大猪は自分の為すべきことを悟った。
大きな体が突進していく。
暗い穴の奥では、あの鬼女が崩れた土砂からもがき出ようと唸っている。その穴の傍らに、オシカルは頭から突っ込んで行った。暗い洞窟内を地響きが走る。 大猪のぶつかった衝撃で、その穴の入り口が三分の二ほど潰れた。
オシカルもやはり痛かったらしく、その場でくるくると回りはじめる。
「オシカル!」
相棒に飛びついたイノメは、鼻から頭にかけてしきりにさする。
「痛かったろう、よくやった」
「イノメ、ともかく逃げよう!」
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