巻第九
雨もふり、山間部には雪もつもっている。しかしあの巨象の強い匂いは消えていなかった。オシカルは、道とも言えぬ森の中を、独特の匂いを追う。
ツチクモは昼間眠り、夜に移動しているらしい。時折、狩人の村などで巨象が目撃されている。しかし決して危害は加えない。
よく磨いた黒い「鏡石」と交換に、薬草などを求めていた。エニーメは森の洞窟に住む一人から聞いていた。なりは恐ろしげだが、ツチクモたちは親切だったと。
ただ里人とは交わらない。「田作る民」「
やがて二人と一匹はいつしかイガの山々を越え、東の海辺を北上してオハリに入っていた。早くから農耕が広がり、中つ国々にも劣らない豊かさを誇る。
しかしここ数十年の中つ国々の急激な変化には、反発を強めていると聞く。
北の果て遥かには、雪をかぶった険しい山々が見え隠れしている。
「いよいよ行くのだな、エニーメ」
「行かねばなるまい。モモソ姫を取り返し、愚かしい戦いを防ぐ」
「やはり戦いになるのか」
「奴らが何を企て、そのことが中つ国々に大いなる災いをもたらすなら、戦いも避けられない。血も流れよう」
「俺もそんな気がする。奴らも、田作りそのものを激しく憎んでいる」
黒い森は、イガ以西のものとはあきらかに木々の種類が違っている。葉が細く、幹も高いように感じられた。
川沿いの道へさしかかったとき、両脇の霧から十人ばかりの武装した者ども飛び出し、二人と一頭を取り囲んだ。手に手に、鉄槍や鉄剣を構えている。
うなるオシカルをイノメは抑えた。やや古い時代の千早や衣をきて、やはり古く単純な総角を結っている。農耕の部族らしい。
「汝ら、何処よりきた」
エニーメは丁寧に頭を下げ、名をつげた。実も知らない相手に名乗ることは、敵意がないしるしでもある。
そしてイノメが心配する中、ツチクモを追っているなどと打ち明けた。
取り囲んだものどもは、ツチクモと聞いて動揺する。くわえて、今はおとなしいとは言え牛ほどもある猪におびえている。その長らしきものは言った。
「ともかく、近くにオトヨの
「オトヨ?」
イノメはいぶかしむエニーメの耳元でささやく。
「オハリから東の国々を統べる、大いなる彦だ。今は逆らうな」
やや川をくだり東へと入ったあたり、低湿地を切り開いた広い水田を見下ろす高台に、大きな室屋や高床式の殿が見えた。
つれていかれると、大きな窯が二つあり、筒状につんだ石の間から煙が出ている。そのわきには薪や炭が積み重ねてあった。なにかの工房らしい。
二人と一頭は、大きな屋根の前に連れて行かれた。
大屋根は何本もの太い柱で支えられているが、壁にあたるものはない。かわりに屋根の下は何段にも浅く掘り込まれ、様々な人々が忙しく働いていた。
共同作業場であろう。その中で光り輝く巨大なものに、エニーメたちは目を見張った。何人かが荒い布に磨き砂をつけて磨いているそれは、子供ほどの大きさの、黄金色の銅鐸だった。
「ヌテ?」
イノメもエニーメも同時に言った。数十年前、西のかなたから鉄剣を振りかざした侵入者たちが現れるまで、内つ淡海周辺からカワウチの
しかしその生産技術を指導していたはずのモノノベの部族が、突如銅鐸生産を中止し、新たに鉄の剣をうちはじめたことで、古くからの信仰は大きく揺らいだのである。
「こいつら、ヌテをふいている」
「このあたり、モノノベの遠い
やはりいまだに、このようなものを作りおるとは」
「モノノベのやからは我らを裏切り、早くにヤマトにくみしたんだ」
さきほどの兵士長が現場を指導している男にかけより、なにごとかを告げた。
やや身なりのよい人物はふりむき、二人の闖入者とその後ろでうずくまる巨大な生き物を見て、少し驚いた。
髭はうすく、ほほはこけてやや青白い。男はゆっくりとやってきた。
「……我はオトヨ。このあたりを統べる」
二人の名を問うと、なにゆえツチクモを求めるかを尋ねる。
やや威圧的な物言いだが、敵意よりも怯えが感じられた。
「ツチクモがさらいしモモソ姫を追う」
事情を詳しく説明すると、虚勢をはっていた四十ばかりの長は青ざめた。
「ツチクモか。我らはツチクモにもヤマトにもくみせぬ。我らオハリの国では、モノノベの正しき技と、正しき神を伝えるのみ。
汝らがツチクモといさかいを起こすなら、オハリより遠くでやれ」
「諍いを起こそうとは思わぬ。ただ乙女を救わんとするのみ。
いやむしろ、戦いを避けるために来たのだ」
「ともかく闘いたければよそで為せ。オハリを巻き込むことは許されず」
少し皮肉げにイノメも言う。
「モノノベの精兵ときいくさが、おそらく俺たちのあとをつけてる。ツチクモに尊いカンナクシメがさらわれたんだから、奴らも怒り狂うてるよ。ヤマトに連なる国々が、こぞって押し寄せる。必ずツチクモと大きな戦になるな」
「こ、ここを目指しているのか」
「知らぬ。ともかく俺たちはオハリには留まらぬ。
ミノからヒダの山中を目指す」
オシカルがひくくうなった。その声に、工房の者たちも驚いて顔を上げる。
オハリ王オトヨは視線を泳がせる。何人か、工房の技師長らしき者たちがよってきた。
数人で肩を寄せ合って、相談をはじめる。イノメはふりかえり、目でオシカルをなだめた。
大猪の周りには、槍や弓で武装した住人たちが、恐ろしそうに身構えている。
工人や女子供も、こわごわと遠巻きにしていた。
「しかしヤマトの…」「いやツチグモを怒らせるわけには」「今はともかく…」
この工房邑の主たる者どもは、時折迷惑なよそ者を一瞥しつつ、しばらく協議を続けていた。その最後にオトヨが低く言った。
「よし、まかせよ」
ゆっくりと近づき、エニーメの前に立った。
「……このところしきりと、モノノベの耳網が動く。なんとしてもこのオハリを戦にまきこんではならぬ。我はここを統べるものとして、戦いは許さぬ。
汝らに川に沿いて北へむかう路を教えん。好きにミノへと向かえばよかろう」
「道は、さきほどの川に沿うのではないのか」
「近き道がある。このアシハヤが送る。とくこのオハリより遠く去れ。
忌わしきモノノベの
「…………」
彼女らを取り囲んだ一団の長アシハヤが、剣をつって旅支度をはじめた。
モモソ姫はうなされていた。どこか洞窟の中、松明の明かりが揺らめいている。松脂の匂いが広くもない洞内に漂い、息苦しい。
筵の上に熊の毛皮をしき、その上に寝かされた少女。額は汗で濡れている。禿頭の目つきの鋭い少女が寄り添い、額に手を当てて目を閉じていた。
後ろから近づいてきた、顔の下半分を白い髭で覆った老人が問う。
「どうだ」
「うなされているが、魂は傷ついておらぬ。まだ穢れなき、幼い心が」
老人は振り向いた。洞窟のやや奥、少し広場のようになった部分が盛り上がり、裂け目が出来ている。何かが土の中から巌を砕いて出ようとして、諦めたかのようだ。長老オーエカシは険しい表情で、長いため息をついた。
長く硬い杖をつきつつ、左目を失ったマイクメがやってきた。
「どうだ、すさまじき力。その乙女ならば必ずや」
「もう、ムイグルが命を落とさなくともよい」
やや小柄で精悍そうな若者マキリは、自慢の両刃の短刀を握りつめ、やってきた。モモソ姫の介抱をしている禿頭の少女に言う。
「汝の命と力で、新しき世を作れるのだ」
しかしムイグルと呼ばれた野性的な少女は、大きな切れ長の目の中に、怒りをたたえて相手を見つめるばかりだった。
「この谷にそって上れば、一夜ほどでツチクモの潜む森に着く」
アシハヤはややこわばった表情で、狭い谷の奥を指し示す。険しい山々から、小川が流れ出している。もうミノと呼ばれる山岳地帯に入って、かなりになる。
森のかなた、木々に見え隠れする白い山影は、ヒダだろうか。エニーメすら、入ったことは無い。険しい山々が深い森の中にそびえる。アシハヤは語った。
「この先、冬なお雪をいただくシライカムイの山の麓が、奴らの根拠地うぶすなのはず。
「奴ばらの拝むシライカムイの尊き山から出て、奴らは何を企てる。
なにゆえ、奇しき力を持つモモソ姫を奪う」
「知らぬ。知るはずもなく、知りたくもなし。すべては
なにか嫌な予感がするイノメは、オシカルの鼻頭をなでながら聞く。
「やけにヤマトや中つ国々を恨むな。あんたらモノノベの族は、ヤマト側だと思ってた。そもそもあの西の族を導いたのではないのか」
「確かに我らはモノノベの末の部族なれど、クサカやトミに住まうものとは、考えが異なる。
鋭い剣を打つために、いつくしき鐸を捨てたりはせぬ。狩する者、すなどる者とも誼を保ち、また山を統べる
汝らがどう闘い、どう傷つくとも我らは知らぬ。早くここから立ち去れ」
と踵をかえし、足早に沢を下った。しばらくその背中を見送っていたエニーメたちは、やがて小川にそって上り始めた。
あの巨象の匂いは、さすがに感じ取られなくなっているらしい。だがオシカルは、ツチクモ族の匂いが強まっているらしく、しきりに唸る。谷はさらに狭隘になり、両側から迫る崖は険しい。行く手には雪をかぶった山が連なっている。
夕暮れ前には川にそった「川の民」のものらしい集落を見つけた。二つの川筋が合流した北側に、砂利で小さな浜が出来ている。そこに数戸の室を築き、奥の洞窟をも利用して住んでいる。
室は簡単な作りで、大水が出たりするとすぐに移動できるようだ。
岩陰で観測する二人は、なるべく避けて通りたかった。自分たちがかかわれば、どんな不幸に見舞われるか判らない。
「のどかそうだな。夕餉の支度か」
子供たちは火をおこし、女たちは魚を小枝にさしてその周りにさしている。数人の男たちは、銛や竹篭など、川漁の道具を手入れしている。
田をつくらず森を切り開かず、昔ながらの作法で自然と協調して生きている。イノメは少し涙ぐんでいた。
「生まれた邑を思い出す」
「……俺も。淡海のほとりの暮らしに似ている」
エニーメたちのいた村も、農耕を行っていた。しかし沼などを利用した小規模なもので、食料は山でも湖でも森でもとった。小規模な集落全体が血縁関係のある「国邑」であり、時に諍いもおこったが、皆が助け合ってくらしていたのだ。
ふと嫌な不安を感じ、エニーメは空を見上げた。木々に覆われた崖のあいだ、赤みを帯びた空が見える。黒い鳥が一羽、大きく旋回していた。
「どうした?」
「あの大鳥」
「鳶か? 珍しくもない」
「前に、見たかも知れぬ」
「まさか。鳥の顔など覚えているものか」
その時、背後で砂利を踏む男がした。エニーメがふりかえると大猪が鳴いた。
銛を構えた男が三人、川の流れに立っている。
「いつのまに?」
イノメはともかく、横にいたオシカルすらその気配に気づかなかった。
三人は狩猟民らしく、顔を濃い髭で覆っている。粗末な布の上下を身につけているが、革や毛皮は使っていない。
雪解け水の流れる小川に、藁沓のままはいって冷たそうですらない。
「悪しきものではない。名を明かそう。俺はエニーメ」
「仇為すものにあらず。
「いのはふり? むかしに滅ぼされたと聞くが」
イノメの母の噂は、こんな山の中にまで聞こえていた。
このあたりの山々も猪は多く、それを狩る者は当然猪の魂を祭る。
猪の魂を黄泉におくり怒りを静める巫女たちのあいだで、「いのはふり」は有名だった。川の民は銛を下ろした。エニーメは簡単に事情を打ち明けた。
「ツチクモ? 会いてどうする」
「理由ゆえは聞かぬがよい。まきこまれる。ともかくたった二人で戦いを仕掛けるわけもない。むしろ戦いを避ける為に行く」
異形の三人は顔を見合わせた。やがて中央の男が言う。
「この川をさかのぼれば、古くよりツチクモが尊き洞と仰ぐところがある。
ツチクモが元住む森を出たことは聞くし、またしばしこの辺りでも見かける。
川上の市にて、森の獲物と米を引き換えもするらしいが」
狩猟民とて、いまや農耕民との交易なくては増えすぎた人口を養いきれない。 彼ら現地狩猟部族も交易を盛んにし、次第に農耕を覚えている。こうして食料確保が安定すると、人口が増える。人口が増えるとさらに食料獲得量を増やさなくてはならないのだ。ゆえに狩猟民族、漁族も農耕民との共存を求めている。
戦いを厭い不安定でも平和を求めるのは、オトヨばかりではない。
「来い。川をよぎり上の道へと導く」
川の合流点はやや幅が広くなっている。川の民は冷たい水を平然とわたっていくが、革靴の二人は、ほどなく足の感覚がなくなった。
大猪すら冷たそうだ。村を過ぎるとき猟民たちが物珍しそうに見つめていた。
二人と一頭は村の対岸、渓流にそった道とも言えぬ場所に上がった。
「この先に尊き洞がある。さらに奥には『入らず』の森、その先はシライカムイの山と言うが、近づいたこともない。
何をするつもりかは知らぬが、情け深いツチクモを怒らせぬことだ。日ごろは森に潜む者どもなれど、すさまじき力を持つぞ」
不思議な一行が宵闇迫る渓流を登っていくのを、川猟師たちは見守っていた。
「あ、足に何も感じぬ」
夜の帳が急峻な渓谷を包みだす。冷水を吸った革の靴が凍りだした。エニーメは、なぜ川の民がこの寒さでも裸足であるかを、理解した。
「夜になりきる前に火をおこそう。今宵は雨も降らぬから、冷え込むぞ」
このあたりでは、薪を拾うのも一苦労だ。川岸にせまった切り立った崖を上るわけにもいかない。なんとか渓流わきの岩場に、少しくぼみになったところを見つけた。垂直に近い岩肌のわき、いかにも野宿に相応しいところだ。
崖が浅く洞窟状にえぐれており、数人が雨宿りも出来そうだった。
二人と猪が近づくと、石を組んだ炉が残っている。また枯れ木や燃えかすもあった。
この渓谷にそって旅するものたちが、しばし利用するところらしい。幸い今晩は雨も降りそうもなかった。
日が暮れきる前に二人は火打石で火をおこした。イノメは銅剣を銛のように使い、川魚をとった。大猪は崖ぎわの土からなにやら掘り出し、勝手に夕食をすませた。
すっかり日が暮れた頃、二人はこんがりと焼けた川魚を食べることができた。 なんと言う魚かは知らないが、小さいながら淡白でうまい。エニーメは蔓を編んだ袋に、干した飯ももってきていた。いつもよく食べる。
二人の腹もくちた頃、イノメは問うた。
「いかに為すつもりだ。ツチクモに会えても、モモソ姫を返すはずもなし」
エニーメは魚を食べ終わると、傍らに置いた長い鉄剣を、手にとって見せる。
「やはりな。それしかないか」
「闘いたくはない。しかしツチクモともあろう者らが、神奈奇女とは言えいたいけない乙女をさらうとは、ただごとではない。
皆が申すごとく、命がけでなにか恐ろしきことを企んでいる。それをとどめなければ、この世を揺るがすことがおきる」
「この世を揺るがす? かくも恐ろしいことが…ツチクモに為すことあたうか」
「判らぬ。されどモモソ姫を苦しめている夢が、かかわるはずだ。
ひどく心が騒ぐ。なにかとてつもない、惨く恐ろしきことが起こる。モモソ姫もそれを知り、恐ろしさに耐え切れず隠れたのであろう。
そのことがかえってツチクモを」
「……そうか、汝も神女奇女の血をひいていたな」
突如エニーメの表情が険しくなった。長剣をつかんで立ち上がる。眠りかけていたオシカルも、緊張して首をもたげた。
「おい、どうした」
石が崖の肌を落ちる音がした。二人は夜空を見上げる。鈍い音が響く。
次の瞬間、崖上から落とされた大岩は、岩肌の突き出した部分から生えた低木を砕き、崖の一部を崩してしまう。大岩は大量の石や土砂を巻き込み、轟音とともに落ちてくる。
オシカルが猪首をもたげ、大きく鳴いた。
「危ういっ!」
エニーメは、驚いて立ち上がったイノメを、崖のくぼみのほうへと突き飛ばした。その直後、大量の岩と土砂が襲った。渓谷にもうもうたる土煙が立ち上る。
やがてまた夜の静寂が戻った。野鳥がおびえて飛び去ったあとは、小川のせせらぎだけが残された。周囲には土煙が無音で漂っている。
「……やったか」
崖の上からこわごわと覗き込んだ影が言う。
「わからぬ。しかしこの岩の崩れでは、助かるまい」
倒れた細い幹を梃子にして大岩を落としたあと、アシハヤは疲れてその場に座り込んでいた。息が荒く、表情は暗い。
「ともかく、オトヨに使いを走らせる。急ぎオハリへ戻れ」
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