巻第八


 朝か近い。もうイオト宮に戻るわけにもいかず、二人と一頭は東へと入り、森がつきるあたりで火を炊いて眠っていた。

 気落ちしていたイノメは、大猪に包み込まれるようにして、胎児のような格好で眠っている。あの小川わきの室屋から出て以来、ほとんど口をきかない。親友以上の存在らしい大猪が自分を支持してくれなかったことが、悲しかったようだ。

 クニクルは夜明け前に戻ると言っていた。彼はこの先、どうするつもりだろう。目をさましたエニーメは、そんなことを考えていた。

 ふと、胸元にまた不快を感じた。上体だけおこし、かたちよく豊かな胸の間に挟んだ大きな翡翠の玉をとりだした。

「なんだ……これは」

 あの市の予言者は言っていた。この玉「トオツメ」が導いてくれると。エニーメは不安に襲われそれをのぞきこんだ。翡翠の奥に、鋭い視線を感じた。邪

 悪で、敵意に満ちた視線だ。

「わっ!」

 と思わず翡翠を落としてしまう。そのとき、森が騒がしくなる。鳥が飛び立ち、東へと逃げている。鳥だけではない。森の小動物や猿たちも、東へと逃げ出した。

「なに?」

 エニーメは翡翠をひろって立ち上がる。大猪オシカルも首をもたげ、イノメも眠そうに起き上がった。

「なんだ、どうした?」

「わからぬ。西のかた、あの室屋のあるあたり」

 エニーメは長刀を背負い袖なしの外套をはおり、西へと戻りだした。

「お、おい」

 イノメもあわててあとを追う。大猪も続いた。黒い森の中は騒がしい。鳥獣はなにかにおびえ、逃げていく。

 エニーメは振り向いた。木々のあいだに、藍色の空が見える。夜明けが近い。オシカルも殺気立って、ついてくる。イノメも全身で、危機を感知していた。

 どれくらい走ったろうか、突如オシカルが首をもたげ、鋭く鳴いた。エニーメとイノメは同時に立ち止まり、青みの広がりつつある空を見上げた。

 黒く大きな鳥が、よろめきつつ飛んでくる。今にも落ちそうだ。

「あれは! ハヤクマワシ?」

 黒い大きな鳥は、その声めがけて落ちてきた。なんとか立とうとした老鳥人ハヤクマワシだったが、ほとんど胸から地面に落ちた。

 灰色の大きな羽が傷ついている。エニーメ、そしてイノメも駆け寄りぐったりした鳥老人を二人で助け起こした。

 全身傷だらけで、額が割れて血を流している。エニーメは問う。

「ハヤクマワシ、いかがした。モモソ姫は?」

「ひ……ひ、姫を。奴ら……獣のような奴ら。あれこそ、ツチクモ」

「なに? ツチクモがどうした」

「ク、クニクルが。宮に戻ったクニクルがあわてて……かけ戻り、そのあと」

「襲われたのか、どうやって」

「まことツチクモなんだね」

「奴ら姫を……お、大きな目を持つ男。杖をもち、よこしまな顔立ちの」

 エニーメは、翡翠をくれた気味の悪い中年男を思い出した。

「あいつか、マイクメ?」

 胸元から、なにか不安なあの翡翠の玉をとりだした。

 オシカルが殺気に満ちた視線に気づきうなる。イノメも何かを感じて身構える。

「それは、それはあのときの」

 エニーメが見つめると、玉の奥に鈍く妖しい視線を感じる。そして確かにもあの大きな瞳を見てとったのである。

「これは! …奴の遠津目とおつめ。そうか。まこと奴の目であったか」

「なに?」

「これで総てを見通し、モモソたちの居るところをさぐりあてたのだ」

 低くハヤクマワシがうなった。そして最後の息を長く吐ききると、動かなくなった。オシカルが悲しげに鳴いた。

 エニーメは翡翠の玉を投げ出すと、近くでこぶしよりも大きい石を拾った。両手の力をこめて、石で翡翠の玉を叩き割った。


「ぐああああああ!」

 突如先頭を歩いていたマイクメが左目を抑えて叫んだ。何人かの異形の戦士が駆け寄る。

「目が、目があああ!」

 そのやや後ろを、巨大な生物がゆっくりと歩いていた。

 その背中では、ぐったりと気を失ったモモソ姫を抱きかかえて、異様な少女がまっすぐ前を見詰めている。

 年のころは十代半ば。涼やかで大きな目は鋭い視線を発し、濃い眉も吊りあがっている。そりあげているのか、頭に毛はなかった。

 大きな牙と長い鼻を持つ巨大生物を取り囲む一行は、二十人ほど。男は皆髭で顔をおおい、ほとんどが毛皮をまとっている。異形の戦士の群れだった。


 夜明けの近い森の中は、しずまりかえっている。いつもなら太陽をむかえる鳥の声が、しない。冷たい空気が、張り詰めている。エニーメとイノメは森のむこうに、煙があがっているのを見た。あの谷川沿いの室に違いない。

 ほどなく、少し開けたあたりでうごめく白い姿を見つけた。エニーメは叫ぶ。

「クニクル!」

 クニクルは剣を杖がわりにして、立ち上がろうとしていた。二人がかけよると、かなり手傷をおい出血もひどい。

「動くな。血を失う」

「姫を、奴らモモソ姫を。ツ……ツチクモが。まちがいなく」

「なに?」

「奴ら、なんだってこんなところまで。この森に潜んできたのか」

「イノメ、オシカルに頼んで。モモソ姫の匂いを追う」

 急いでクニクルに止血し、木にもたれかけさせて皮袋の水を与えた。

そのあとすぐに二人は、姫の匂いを追うオシカルのあとから走りだした。

 イノメはオシカルの上にのり、不思議そうな顔をしている。

「なにやら獣のにおいがする。熊でも鹿でもない。オシカルはモモソ姫の匂いではなく、その獣を追っている」

 鬱蒼たる濃厚な森のかなた、東の山端から朝日が顔をだした。エニーメはまぶしそうにする。そのとき、大猪が鋭く叫ぶ。

「いたぞ、奴らか?」

 湖水をめぐる盆地の東の端に達しようとしている。彼らは川沿いの道など通らず、山の中の特殊な道を使うらしい。

「あれは?」

 エニーメは目をこらした。十人以上の黒い影が、身を低くして東へと急ぐ。そしてひときわ目立つのは、黒に近い灰色の巨大な生物だった。

 その上にのっている、坊主頭の少女が振り向いた。距離は離れていても危険な視線が彼女を射抜く。

「モモソ姫!」

 叫びつつ剣をぬいていた。巨大な獣も背後に迫る殺気に気づき、大きな鼻をふりあげて大きく鳴いた。人々は緊張感をみなぎらせて立ち止まり身構え、森で息を潜めていた小動物がいっせいに逃げ出した。

「やつら、まさにツチクモ。しかしあの大きな獣は?」

「あれは、キサだ! しかしあれほど大きなものが、今も生きていたとは」

 巨象はゆっくりと向きをかえた。二十人ほどの黒い異形の戦士が、戦闘隊形を組む。

 ひときわ目立つ禿頭の少女は、ぐったりとしたモモソ姫を抱きかかえている。

「いけない、相手が多すぎるよ」

「オシカルで奴らをひきつけて。走り回るだけでいい」

 エニーメはわきへとそれた。大猪は鹿などよりも早く、猪突猛進していく。

「いけぇぇぇぇぇぇ~!」

 イノメも銅剣を振り上げ、突進する。異形のツチクモ達は森の中を横に展開しようとして、ややもたついた。

 その只中に、鹿よりも狼よりも早く、巨大な猪が突撃したのである。

 オシカルは、立ちはだかった二人を牙で跳ね飛ばした。しかし巨象が横手から太い鼻を振り下ろした。

 一瞬早くオシカルは飛びのき、もう一人を跳ね飛ばして巨象のわきをかけぬけた。そのときイノメは自慢の銅剣で巨象のわき腹に切りつけたが、硬い皮膚を傷つけただけだった。

 それでも痛みに耐えかね、巨象は狂おしく叫び、前足をあげた。その上にいた坊主頭の少女は、モモソ姫を抱きかかえたままなんとか足をふんばった。

 怒号と悲鳴が朝の森に響き渡る。巨象の雄たけびは木々を震撼させる。大きなオシカルはかなりすばしこく、巨象の腹の下をくぐり、ツチクモを追い回す。

「オーキサ。おびえるな」

 禿頭の少女は、巨象をなんとかなだめようとする。

「ムイグル!」

 若い戦士が象の鼻に飛びつこうとする。ツチクモたちが予想外の攻撃に混乱している間、エニーメは太い木に飛び乗っていた。

 枝から枝に、長身の戦士は猿よりも身軽に飛び移る。

 巨象はなんとかなだめられ、その場所をゆっくりと回っていた。禿頭の少女は、モモソ姫がずりおちないように抱き抱えている。

 ちょうど象の背中が真下にきたとき、エニーメは黒い外套を羽のように広げ飛び降り、白い衣を着た禿頭の少女のすぐ後ろに飛び乗った。

 しかし少女は鋭いまなざしでふりかえっただけで、さして驚きもしない。抱きかかえたモモソ姫が小さくうなった。長剣を抜かず、右腕で少女の首を固める。

「命はとらぬ」

「……この乙女か」

「かえしてもらおう」

 気が付くと、巨象は動きをとめている。周囲の異形の戦士のなかで、何人かが白い少女を助けようと集まってきている。

 やはり彼らにとって、若い女王のような存在らしい。

「……ことわる」

「剣を抜かせるな」

「抜くまでもない」

 眉の釣りあがった少女は目をとじ、眉間にしわを寄せた。全身が淡く輝く。

細い首に回した左腕の力を強めようとした。

 そのとき、胸と腹にしびれを感じた。

 次の瞬間、自分の前面でなにかが光った。目から火花が出たと思ったら、長身の女戦士は後方へと飛ばされた。象にまたがった姿勢のまま、エニーメの肉体は重力の支配を受けた。

 尻から下草に落ちたエニーメは、数度転がってとまった。その衝撃で止っていた息が出来たが、全身を強くうち、立ち上がれない。

 古い格好の黒い戦士数人が、白刃をきらめかせて殺到した。その二人が、背中に衝撃を受けて吹き飛ばされる。大猪が鋭く鳴き声をあげる。

「エニーメ!」

 オシカルにまたがったイノメは、エニーメめがけて突進した。駆け抜けざまに、その右腕をつかんで引きずり出した。

 前から別の一団が迫る。オシカルはわきへそれ、木立の中へと消えた。下草の上を引きずられたままのエニーメは、背中の痛みで意識を取り戻していた。

「イ、イノメ」

「エニーメ! オシカル、とまれ!」

 ふりかえると、木立のむこうで人々の怒号が聞こえるが、追ってはこない。森がざわめき、猿などが騒いでいる。

 ツチクモの一団は傷ついた巨象とともに、東へと去りつつあるらしい。

「おのれ、オシカル」

「お、追うな」

 ぐったりとしたエニーメは、首をもたげつつ言う。

「もう、かなわぬ。今は」

「しかし」

「オシカルも、気づいている。それにあの乙女」

「……なにやら光ったな」

「わからぬが、いかづちのごとし」

「なに? いかづち?」

「違うかもしれぬ。しかしあの乙女、奇しきわざをつかう。それに、クニクルのことが」

 確かにイノメ自身も疲れきっていた。ここは一旦退くしかなかった。あの巨象の強い匂いなら、何日たっても、大雨が降っても消えまい。

 しばらく待ち、エニーメをオシカルに乗せ、イノメも戻りだした。


 森の中でクニクルはぐったりとしていた。しかし意識ははっきりとしている。

オシカルと元気そうなイノメ、そして右足をややひきずるエニーメの姿を見たとき、嗚咽しはじめた。血はとまっているが、体力は回復しない。

 どこかで養生させるしかなかった。エニーメも傷だらけだが、不思議なほど回復が早い。よほど鍛えてあるらしい。

 日が高くなった頃、二人はオシカルにクニクルを乗せて、アキツシマ宮にむかった。

「そう落ち込むなクニクル。モモソ姫はおろそかには扱われぬ。必ずや俺たちが救いだす」

「乙女を奪おうとした詫びだ。俺も力を合わせる」

「なにゆえエニーメは、そこまでモモソを」

「クニクルには悪いがフトニ王を助けたい。モモソ姫の力で、国々をまとめる」

「……それではモモソ姫が」

「むごいことだ。しかし戦いのない世の中が生まれるためには、カンナクシメの力が要る」

「まこと、要るのか」

「わからぬ」

「なら、なぜ」

「我が妹も、カンナクシメだった」

 イノメも驚いた。

「叔母ニイキトベも、妹オトニイメも、そうだった。ゆえにモモソ姫のむごさ、悲しみはよくわかる。我が妹もその力のゆえに狙われ、命を落とした」

 一行はしばらく、無言ですすんだ。やがてタカマガ山の北、カツラキの山が森のかなたに見え出した。そのとき、オシカルの背中に抱きついていたクニクルが、嗚咽しだした。

「俺が偽りて姫を隠したために。噂がまことにツチクモを招きよせた。俺の、俺のせいだ」

「もうよいクニクル。泣くと傷にひびく。マイクメを導いたのは俺だ………」

 エニーメがふと見ると、イノメも深刻な表情で涙ぐんでいた。


 カツラキの東山麓、木々に囲まれた古き「アキツシマの宮」には、クニクルの湯人だった老人や、薬師の心得ある兵士などもいた。邑としても小さい。

 彼らに事情を説明し、北のイオトの宮へ使いをたててもらった。クニクルから簡単に事情を聞いた老人は、エニーメたちに求められるまま携帯食料や矢などを与えた。エニーメは特別にわかしてもらった「焼き湯」で身を清め、薬草を傷口にすりこむとしばらく眠った。

 目覚めると夕方に近かった。腹が正直になる。腹ごしらえをすると、「せめて一夜」ととどめる老人に礼を言い、アキツシマの古き宮をあとにした。

「俺は、なんとしてもツチクモのあとを追う。やつらは誇り高く情けもある。ゆえなく姫を傷つけることはない。しかし何か恐ろしいことを企んでいる。

 使いを宮にたて、フトニのきみに告げよ。姫は必ずとりもどす、と」

 イノメも従うという。

「オシカルの鼻がなければ、追えぬぞ」

 こうして日暮れ前、二人と一頭はまた東を目指したのである。手当てを受け、死んだように眠っていたクニクルは夜明け前に目をさました。

 すでにイオト宮から使者が戻っている。宮ではちょっとした騒ぎとなり、この朝には部族集会を開くという。

 それをきいたクニクルは、なんとしても宮へ戻ると言い張り、立ち上がろうとする。

 アキツシマ宮の者は相談し、木の楯にかれを乗せ、六人で運ぶことにした。イオト宮まではさほど遠くない。先に走らせた伝令が、湖畔の村から応援をつれて引き返して合流、こうして朝が開けきった頃、クニクルはイオト宮に戻った。

 中央広場にはすでに宮の主たる長者、同盟関係にある部族の代表者たちも、夜通し炊かれた炎の前で円座を作っていた。

 楯から転げ落ちたクニクルは、這うようにして円座の中心へと出た。正面、高殿を背負って立つのは、心配そうな父である。

 夕べ使者からあらましを聞いていた。総ては我が息子と娘の芝居であった。そのことがかえって、危険なツチクモを招き寄せたのである。

 父がなにかを言う前に、クニクルは平伏して総てを語った。そしてエニーメとイノメが、命がけでモモソ姫を追っていることを息も絶え絶えに説明した。

「……やはりクニクルの嘘が、ツチクモを呼んだか」

「姫がのぞんだ。父は己が姫をひじり巫女みことして大いなる神に捧げ、国々をまとめるつもりだ。

 しかし姫は夜毎恐ろしき夢におびえて、悲しみ苦しんでいた」

 言い返す言葉もなかった。我が娘の類まれな力をもってこそ、湖水地帯の様々な地霊、地主神や国魂を鎮められる。それぞれの部族の巫女が力を合わせても無理だった。お互いの力が干渉しあう。ゆえに一人の、おおいなる神女が要るのだ。それが統一の最大条件のはずだ。

 シキの実力者オーメが言う。

「今はクニクルをせめる時ではない。如何にするか。あのエニーメに任せるしかないか」

「我らも追う」と立ち上がったのはマリネである。傍らのウツシコメも驚いた。

「まこと我らをたばかりしはクニクル。されど我らもまた、モモソ姫の御心も知らず、悪しき夢に苦しむ。クニクルばかりを責めることは許されぬ。

 またツチクモがなにかをたくらみ、中つ国々を侵したこともまことだった。なんとしても奴らのたくらみを知り、モモソ姫を取り戻さねばならぬ」

 長老や有力者たちはざわめく。ここでクニクルやフトニ王の罪を問うても、仕方のないことであった。ともかくツチクモは出現し、なにかを企んでモモソ姫をさらったのだ。手をこまねいていたなら、部族の恥じとなる。それよりも、何か大変なことが起きる。

 他の部族の中にも、共に追おうと申し出るものがいた。しかしマリネは、自分たちモノノベの精兵にまかせよ、と主張する。

「聞けば大きな猪をつれているらしい。そのようなもの、各地に張り巡らせた八十やそモノノベの耳網にたちどころにかかろう。

 また俺はエニーメに……いや。なんとしても、我らが姫を」

 こうしてモノノベの精兵はまた、エニーメを追うこととなった。しかしマリネの表情に、どこか屈折したものがあった。



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