巻第四
食事と後片付け、明日の準備などを終えると、女性と子供、男の大半はそれぞれの竪穴式の室屋に戻った。
十あまりの室屋はどれもさほど大きくなく、高床式の倉庫もない。
エニーメは貴重な米をわけてくれたことで客扱いとなり、一番新しい長老の室へと案内された。その孫だと言う少女と二人暮しである。
中は掘り込んだ典型的な室屋だった。つるした火壺は年代もので、一番奥の小さな神棚には、黒ずんだ「削りかけ」が飾ってあった。
エニーメは入り口わきの、棚状になった「客の座」に藁をしいて与えられた。
「夜は冷える。これでも飲むか」
小さな壺から平たい皿に、白濁した液体を注いでわたす。「噛み酒」である。この時代、まだ酒を「かもす」技術は伝わっていない。
乙女などが飯を噛んで容器に入れて発酵させ、薄い酒とするのである。
「これはありがたい」
外套も脱ぎ胡坐を作っていたエニーメは、酒を食べた。
「して、汝はツチクモを追いて、なんとする」
エニーメは小さな土器から少し白濁した酒をこぼしてしまう。それが首から、豊かな胸の谷間へと落ちる。女戦士は平然と飲み続けた。
「まことモモソ姫をかどわかしたかどうか、確かめる。どうもおかしい」
「…………ツチクモの者らが西をめざしだしたのは、まことらしい」
「それは、なにゆえに」
「奴らも、もう耐え切れなくなったのであろう。
多くの狩りする者が、深き森から追いたてられた。野に降りて田作りに加わりし者も少なくない。かくて昔ながらの狩りを伝えるものは、減りに減り続ける」
「近頃、
ゆえにますます、深き森を切り開いていると聞く」
「まさにそれよ。森を切り開かれ林を焼かれては、ツチクモも滅ぶしかない」
かつて西の果てから「田作る人々」が渡来するまで、この一帯も鬱蒼たる木々に覆われていた。そして少なからぬ、「森の民」即ち狩猟部族が住んでいたのである。
「田作る者を恨むのはわかる。でもなにゆえ、カンナクシメをさらう」
「まこと力の強き奇女ならば、
「見たことはないが、ヤマトのみならず、カツラキやシキ、モノノベの者らも崇め奉っていた。
皆おそらく、そのモモソ姫の奇しき力を求めて、集まり纏まるようだ」
「……昔、ニーキトベの娘か姪にも、よく神の心を知るクシメがいたと聞くが」
「…ひとはクシメを神の妻とあがめる。しかしクシメにとりては、惨きさだめ」
「奴らにもムイグルと言う乙女がいると聞く。いと力のつよき、巫女とも言う。
わざわざ内つ淡海の果てまで行きて、カンナクシメを求めるとは思えぬ。皮衣をまとい木々を飛び歩くのは、ツチクモばかりではない」
「されど、モモソ姫が消えうせたのはまことだ。ならば……」
エニーメの表情が硬くなった。老婆がさらに何か言おうとすると、手をあげてさえぎった。
「おかしい、なにかが来る」
エニーメは長い剣をせおい、紐を結びつつ筵の外をうかがった。
黒い一団が、木々に身を隠しつつ、なだらかな斜面を駆け下りてくる。先頭は、茜で染めた薄い布で顔の下半分を隠した、マリネだった。
柄を黄金で装飾した、立派な鉄剣をきらめかせている。
振り向き、背後に続く十人ばかりの
「ツチクモの輩ではない。しかし我等に仇為す者どもの同胞はらからならん。
あくまでツチクモのことを聞き出すのだ。女子供は逃がせ。あらがう者は蹴散らせ」
あるものは鉄の穂先を持つ槍、あるものは
「
しかし奇妙だった。深夜のことゆえ、どの室も寝静まっているのだろうが、静かすぎる。
円形に配された萱葺き竪穴住居は、小さな広場に面している。その中心に炊かれた火は、ほとんど消えていた。
「タケマリネ!」
部下の一人が低く叫ぶ。
「誰もいない。室屋がからだ」
「こちらもだ」
「なに? はかられたか?」
その時、なにかが闇夜に動いた。気配を感じ振り向いたマリネは、自分に突進してくる黒い塊を見た。だが反応する前に、彼の肉体は宙を飛んでいた。
丈夫な木の枝から蔓を編んだ縄をたらし、それに摑まってエニーメは太い枝から飛び降りた。そのまま目指す「敵」めざし、大きな肉体が振り子となって空を突進、長い両足でマリネの首を挟んだのである。
モノノベの精兵たちのあいだを駆け抜け、筋肉質な太ももで首をつられた形になったマリネは、宙を飛んだ。
次の瞬間、マリネは背中に激しい痛みを感じた。下草の生えた地面に落下したのだ。鍛えられた彼は本能的に首をあげ、後頭部は守った。しかし胸に圧迫を感じる。胸の上ではエニーメが馬乗りになり、長い剣をひきぬいてマリネの目の前に突きつけた。
「タケマリネ!」
配下の専門兵士たちは族長を助けようとして、凍りついた。森の闇の中から出現した異様な狩人の一団。手には剣や弓を構えている。完全に包囲されていた。
エニーメは立ち上がり、切っ先を彼の目の前につきつけたまま言う。
「剣をひけ、モノノベの子らよ!」
「く……おのれ、やはりツチクモに味方するか」
なんとかマリネは、苦しげに上体を起こす。
「違う。この
マリネこそなにゆえ、罪なき邑を襲う。女子供まで危うきにさらして。
それほど血がみたいか。それが名高きモノノベの戦いか」
「ち、違う! 山の民はみな、ツチクモを仰ぎ助ける。村のものに問いただせば、何か判ろうと思えばだ。もとより殺すつもりなどない!」
「おろかな」
としわがれた声がする。武器を下ろしたモノノベ兵を割るようにして、杖をつきつつ小さな老婆があらわれた。
そのまま、草むらに腰をおとしている戦士に近づく。武勇をもって聞こえるマリネが、小さな老婆にたじろいだ。
「……モノノベのタケマリネか」
「そ、そうだ」
「尊き名を汚したいのか。モノノベの民は日の神を仰ぎ、
「く………」
エニーメは剣を背中に戻した。マリネは忌々しげに、よろめき立ち上がった。
部下たちに手をあげてみせる。
「引き上げる。我らの過ちであった」
周囲の狩人たちも、弓を下ろした。モノノベの精兵たちは気まずそうにマリネのほうへと集まる。マリネは手で指示し、部下を村から遠ざけた。
最後に残った彼はふりむき、幾分悲しそうにエニーメと老婆の顔を見つめた。そしてなにも言わず、踵をかえして道のほうへとおりて行った。
エニーメは深くため息をつき、申しわけなさそうに老婆を見る。
「俺が、招き寄せたか」
しばらく木々の茂る斜面をくだると、やっと東西に通じる道に出た。緊張感がとけ、モノノベの選抜兵士達は、みな座り込んでしまった。
マリネも革袋にはいった水で、干上がった喉を潤した。やがて傍らで膝をかかえている部下に、静かに命じる。
「
鳥のような大きな羽のついた不思議な矢を、一本うけとると、広帯にはさんだ小刀でなにか記号のようなものを刻む。
「何を?」
「後ろの
「あの大きな女を追うのか」
「……殺そうと思えば、いつでも俺を殺せた。
いや、ゆえなき戦いを避けさせた。我等の誉れを守ってくれたのかも知れぬ」
刻み終えたマリネは、別の兵士に命じる。
「
三人がかりで弦を張る、大きく頑丈な弓に羽々矢を番えた。それを思い切り引き絞ると、マリネは西の夜空めがけて放った。
特殊な矢は大きな白い羽を三つのばし、夜空高く消えていく。
やがて矢が上昇する力を使い切った頃、一羽の鳶が突進してきた。落ちかけた矢をうまく咥え、羽をゆっくりと羽ばたかせて西へと飛び去って行った。
夜明けまではまだある。松明が四つ、明け方前の森の中で止まった。
「行くのか」
旅支度のエニーメは、大きく頷く。杖をついた老婆は、名残惜しいようだ。
「この先の小さな道を下れば、東へむかう道に出る。もうイガのはずれだ」
エニーメは見送りの人々に頭を下げた。
「もう奴らは襲い来ない。あなたたちをツチクモの仲間と間違えてのことだ。
でも、邑が知られてしまったね」
「かまわぬ。我らの邑は、山のあちらこちらにある。田作るものどもの立ち入ることのできぬ谷から、尾根沿いのかくれた道まで」
「なにとぞツチクモに会い、確かめたい。まことにモモソ姫をさらったのか。
あるいは、ヤマトの者どもの間違いかも知れぬ」
「汝なら、彼らも聞いてくれよう。
なにやら大きなことをたくらんでおり、次第に西へむかいておると聞く。雪深きヒダよりミノへ出て、大勢が山中をすすむのを見た、との噂もある」
「それでは」
エニーメは頭を下げた。老婆も深々と頭を下げる。狩人たちもならった。
長身の女戦士は、黒い外套を夜風になびかせ、森の中へと消えていった。
夜明け前、清水のほとりで少し休んだ。水はつめたいが、旨い。顔をあらい、あの狩人の邑でもらった木の実を口にいれた。苦味があるが、元気になる。
「……もし、ツチクモでないとしたら」
直接の目撃者は王子クニクルのみ。もう一度聞きたただす必要があった。ともかくツチクモと話をしたい。しかし本拠地から大挙移動しているという
携帯食料である木の実と卵の「焼餅」一つを食べ終えると、明るくなりかけた谷を目指して、また歩き始めるのだった。
冬の太陽が、川面を輝かせている。
猛たけマリネひきいるモノノベ
誰もあまり話さない。昨夜のことで、やや気落ちしていた。のんびりと粥を作っている暇はないはずだったが、西へ走らせた物見が戻ってこない。
寒々とした空高く、鳶が一つ鳴く。マリネらは空を見あげつつ立ち上がった。
「来たか」
ほどなく川沿い道の西のほうから、人影が現れだした。物見に先導され、さらに二十人ほどの武装兵がやって来たのである。
タケマリネは大きく手を振りつつ、配下に命じた。
「つわものを迎えよう。粥を炊き、鳥を焼け」
「あまり此処にとどまりては」
「あのような女、どこに行きても目立つ。また行く先は、ほぼ判る」
こうして後続部隊をむかえ、モノノベ軍は三十人以上に膨れ上がった。さほど多い数とはいえないが、「ときいくさ」の名に恥じぬ鍛えられた戦士だった。
黒いなめし皮の衣と細身の袴。黒革の外套をまとい、黒鞘の太刀をつる。
戦闘中に解けぬよう、藁紐で硬く結った髻と、茜染め鉢巻が特徴的である。また首には、草染の布を巻いている。マリネだけは、首巻も血のように赤い。
仲間がふえ、みな戦意を取り戻した。食休みもそこそこに撤収、再出発の準備を急ぐ。
焚き火をけしたあと、マリネは貴重な塩を一つまみ、まだくすぶるあたりにかけて手を合わせた。土地の神、川の神に感謝を捧げているのである。小鳥や中ぐらいの鳥が数十羽、上空を旋回している。兵士たちは不安げに冬空を見上げる。
食べ残しを狙っているのだろうか。山の中では、鹿らしき声も響く。
「やけに鳥がさわぐ。猿なども走るようだ」
物見が言う。彼は拙速斥候として先走りをしたり、後続部隊を迎えに出たりして、妙に森の中が騒がしいことを感じ取っていた。
マリネは不安を押し殺して答える。
「ヒダからミノにかけて、人の手のはいらぬ森が多く、獣も多い」
「いや、それのみではない。見つめられている気がする」
「もうよい、行くぞ」
道を見下ろす斜面、高く太い木々が密集して立ち並ぶ中、一頭の若いメス猪が、じっと人間どもの行動を見つめていた。
モノノベ部隊が川の流れにそって東へとすすみ去ったころ、こぶりな猪は鼻をあげ、低く鳴いた。
それに呼応するかのように上空を舞っていた鳥が騒ぎ、旋回する。
その殺気だった様は真下にいたモノノベ精兵のみならず、付近の空を飛んでいた鳶や鷹すらも警戒させた。
そこから北東に山をいくつばかりか越えたあたり、やや高い山の中腹に、天に枝をのばした古い「ぬしの樹」がそびえている。周囲を睥睨し山々を見下ろす巨木の中ほど、横に大きく張り出した太い枝の上に、その女はいた。
ずんぐりとして、やや脂肪のついた影である。冬枯れの枝に腰をおろし、鋭い視線で遥かな鳥の乱舞を見つめている。顔に独特の刺青をした女は、呟いた。
「奴ら、ついにこんなところまで。許さぬ、この清き森まで荒らさせはしない」
早くも日が落ちていく。この一帯は標高の高い山の中で、夜はかなり冷える。
まだ西の山端が赤く明るい頃、エニーメは早々と野宿の準備をはじめていた。半日歩き続けて、疲れていた。倒れる前に簡単に食事をとり、ぐっすりと眠りたかった。
モノノベ兵を恐れてのことではなかったが、無理に急ぎすぎたのだ。実際彼女は妙な焦燥感、いや得体の知れない不安にとりつかれている。
なんとしてもモモソ姫を見つけなければ、取り返しの付かないことになる。理由は不明だが、そんな気がしていた。
エニーメは母の形見であるよくなめした熊皮の外衣に包まり、夜風をさける大木の陰に転がった。今朝はほとんど眠らずに狩人の邑を出たのだ。
野宿は慣れていた。いや室や屋根のあるところで寝ることのほうが珍しい。田作るもの、山で狩するものでも、遠出するときは野宿となる。
もっと古い時代、人々は家など持たず、森の中で寄り添って暮らし、雨ともなると洞窟などに逃げ込むしかなかった。
ここをさらに東へ越えれば、オハリに属する海に出る。海を眺める道にとって東北に上ればミノやオハリの広い野を経て、ヒダと呼ばれる山岳地帯の南の端だ。
しかしなにかがおかしい。火炊きの老人、市の老婆も言っていた。聖なるマキの山より西に、ツチクモの影はない。
山に潜む狩人邑の老巫女も言った。ツチクモにも審神者さにわや「よりまし」がいる。
たとえ危険な神を呼び出すために、より強力な神奈奇女を求めたとしても、わざわざ内つ淡海の端まで、危険をおかして侵入するはずもない。
追い詰められたツチクモが暴発、故郷からミノを経て、西へと向かっているのは確かだろう。しかしまだこのオハリ辺りまでも達していない。
まことモモソ姫を誘拐したなら、幼い乙女を抱えてこの険しい山を越えたのか。それとも部族が到着するまで、湖水地帯のどこかに隠れているのか。そもそもなにをもくろんでいるのだ。そんなことを考えていると、意識が遠のいた。
地鳴りがする。森がざわめき、小動物や鳥がけたたましく騒ぎ逃げる。皮外套にくるまって眠っていたエニーメも、飛び起きた。
夜明け前、周囲は藍色の緊張に包まれている。カラスが無数に鳴きつつ、旋回している。
「なに?」
地響きは、尾根のほうからだ。見ると木々のむこう、もうもうと土煙が舞っている。
「あれは?」
多くのなにかが、暴走しているようだ。エニーメは長剣をつかみ、立ち上がった。すっかり元気を回復し、飛ぶように斜面を駆け上る。
小鳥が小動物がエニーメとは反対方向へと逃げていく。ついに尾根に達した。
「なに?」
浅い谷状の地形を、土煙が巨大な矢となってなだれ落ちる。危険だがさらに近づきたい。
エニーメは傍らの巨木をすばやく上り、太い枝の上に出た。
それは猪や鹿、そして熊なども混じった一団だった。先頭は黒っぽい、それこそ人の背丈ほどもある猪らしい。その上になにかのっている。
全部で数十頭はいよう。それがなだれをうって、下の小川を目指している。
エニーメは目をこらした。先頭の大猪にまたがっているのは、まさしく女である。髪は短く男装束で、目の下に逆三角形の刺青などしている。しかし太めで、胸が飛び出した地母神のような体型だった。金色に輝く剣をかざす。
「こんなに多くの獣が、どこへ?」
その逆落としになだれ落ちる先は、小川の小さな砂利岸だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます