巻第一
大きな盆地には、北と南、そして東からさして高くもない山々が迫っている。日の入る方にも山が南北に横たわるが、切れ目がある。
その山と山の裂け目をめざして川が集まり、湖を作っていた。
深くはない。湖岸は葦がおいしげり、浜と呼べる部分は少ない。雨季ともなればこの浅い湖「
しかしそれは決して災害ではなく、農地を開く好機となった。灌漑技術の未熟なこの頃、低湿地こそが稲作を拡大する場所だった。
ゆえにさして広くもないこの盆地では、米作りが盛んである。西からもたらされた各種技術も手伝い、その生産力の高さが国々を支えていた。
湖沼岸の、葦原と小さな雑木林が錯綜し、ところどころ砂利で出来た小さな浜もある一帯を長身の影が行く。
人や獣が通り自然に出来た道を歩き、淡海から少し離れた小高いあたりの森に入った。
長身の人物は、革をなめして作った薄い色の上着と男袴を身につけ、腰には海をわたってきたものであろう絹の赤い比礼を巻きつけている。その上から、黒い革帯を締めている。
髪はさほど長くなく、手入れもされていない。後ろのほうは束ねて長く垂らし、翡翠かなにかの髪飾りでとめている。足には「はばき」をつけ革の靴を藁で縛ってとめている。また背には、黒いなめし皮を外套のように羽織り、首のあたりで紐でとめていた。
ひときわ目立つのは斜めに背負った漆塗りの鞘で、相当長い。槍にも見える。
大きくもない森の半分はまだ枯れたままだった。火をかけられ、一度は死滅した古い森だった。木々に囲まれたその村あとも、もう雑草に葬られつつあった。
焼けた柱などが残り、小高く盛られた土台が、かろうじてかつてここに
長身の女戦士は、高殿のあった土台を見つめた。少し冷たい風が森をざわめかせる。旅の戦士は腰にさした竹筒をぬき、詰めていた粘土をはがし、白濁した酒を注いだ。
彼女が噛んで作ったもので、量はわずかだった。
そして片ひざをつくと頭をたれ、拍手を四つ打って目を閉じた。
「かえって来たよ……」
このあたり、かつてはソホの国の宮、ハタの邑むらと呼ばれていた。それが侵入者によって襲われ焼き払われたのは、そう古い時代のことではなかった。
彼女はこの地で生まれたのではない。身重の母に抱かれてここへやって来たらしい。物心ついた時は、平和で豊かな村に危険が迫っていた。
もともと「内つ
西から来た人々は「あかがね」を精錬し加工する技術をも伝え、その技で神器や農具、武器まで作って村々を栄えさせた。しかし質素だが満ち足りた時代は長くなかった。
まだ女戦士の祖父母のさらに両親の頃、西の果ての大国で騒乱がおきた。
やがて西の大国が崩壊するや、また新たな「田作る民」が東へと流れ込んだ。 そしてこの一帯にも混乱と諍いが広がった。新たに渡来した人々に帰る故郷はない。また「あかがね」に加えてさらに強力な「くろがね」の武器を持ち、内つ淡海周辺の村々を次々と従えて行ったと聞かされている。しかし中には古い信仰を守って侵入者に抵抗する村もあった。
絹の赤い比礼をまく女戦士の育った村も、その一つだった。最後まで古い信仰と文化を守ろうとして、ついにはあらたな権力集団に滅ぼされた。彼女が幼いころの話である。
その戦いで父と祖母は亡くなり、戦士は母と父の弟に連れられ、東の山の中へと逃げた。
「……父よ、汝は雄々しく戦い果てた。その姿は忘れぬ」
しかし山の中、森の民の村で伯父は語った。元々戦いを仕掛けたのは、村の頑固な長老たちだったと。彼女の父たちはむしろ、すぐれた技術を持つ新興権力者たちとの共存、そして村のさらなる繁栄を模索していた。
あらたな西方の技術を取り入れた村が、発展するのを見ていたからだった。しかし変革を恐れる頑迷な長老たちは、戦うことを強く求めた。
父たち村を守る戦士たちは、不本意ながら矛をとり、剣を抜いた。そのあとのことを、叔父も母も、他の生き残りも語ろうとはしない。
女戦士は村あとに佇み、眼を閉じてそのことを思い出していた。
ひさしぶりの「儀式」を終えると、戦士は森から出て南下した。優しい風が、しなやかな髪をなびかせる。この辺り、夏は暑いが冬は過ごしやすい。
浅い内海の周辺を高くないなだらかな山々が取り囲む。いくつかは神の宿る聖なる神奈微である。長身で筋肉質の女は懐かしい山々を見回しつつ深呼吸した。
その時、遠慮なく腹がなった。陽の高いうちに廃墟につきたかったので、朝からほとんど食べていない。
清水で喉を潤し、小さな木の実を齧ったぐらいである。
この混乱の時代、かえるべき邑を持たない「渡り者」は珍しくない。戦乱や災害、またはあらたな収穫をもとめ、人々は頻繁に移動する。古い時代、人々は村すら作らず、獲物をおってあちこちを経巡っていたとも聞かされている。
また王が死ぬとその地は穢れたとされ、邑ごと宮ごと移動する。しかし部族単位、家族単位で移動できず、さまざまな理由で一人さまよい歩く者もいる。
あらたな定住地を見つけたり、村に受け入れられるものも多いが、彼女のように集団への帰属を嫌って、生涯を旅ですごすものも珍しくなかった。
昨日まで雨が続き、狩ができなかった。干した魚や米は食い尽くした。
渡りの戦士ならば、時折戦いや狩に参加して「おこぼれ」「ほうび」をもらうか、自分で魚や鳥をとるしかなかった。
しかし女の「渡り戦士」は極めて珍しい。
父譲りの体格と体力、そして負傷はしていたが腕自慢の戦士たる伯父の仕込みで、十歳を超えるころにはひとかどの「いくさ姫」になっていた。
母の死をきっかけに、妹を伯父にまかせ山の村を出たのがは数年前。今ではこうして、「雇われ戦士」として旅を続けている。特に目的はない。
自分がなにをしたいのかはまだ判らない。ただ、父の復讐などは微塵も考えていなかった。
長身で革外套を靡かせた姿は、遠くからでも目立つ。内つ淡海の北側は、最近モノノベと呼ばれる技術・軍事氏族連合の活動が活発である。出来れば遭遇したくない。
西へ戻るには、湖南を通るしかない。絹の赤い比礼は母の形見である。
葦茂る湖水はゆっくりと西へと流れ、くずれ谷の狭い水路から「カワウチの淡海あわうみ」へ、さらには大きなチヌの海へと続いている。
水をのみ、時折木の実や食草をとって口にいれたが、腹はすきつづける。
この大きな体である。人一倍食べる。体にまとった筋肉が、つねに栄養を必要としていた。
葦が高く茂る湖岸の道は、土や枯れ草を踏み固められただけである。しばらく通らないと、また草に覆われる。以前通ったはずの道が、今は見当たらない。
やがて女戦士は道を失い、葦しげる湖岸の岸辺に出てしまった。砂利の小さな浜には杭が打ってあり、修理途中の小船が揚げてある。
津として利用されているらしい。川や海は重要な交通線であり、船こそがもっとも安全確実な輸送手段だった。
ふと見ると、小船のよこに木組みがあり、割いた小魚が並んでいる。猟師が干物を作っているらしい。この寒い季節は、保存食づくりが難しい。
腹をすかせた女戦士は干物に近づき、においをかいだ。また腹が正直になる。周囲を見回すが、人影はない。大柄な女は、ほくそ笑んだ。
「すまぬが、腹がすいて倒れそうだ……」
悪いと思ったが干物を一つ失敬し、そのままかじりついた。塩気がないものの、飢えた口には美味だった。頭から噛み砕きつつ、その浜を離れようとした。
ちょうどそのとき、葦原をかきわけて人が現れた。三人、いずれも髭をたくわえ総角を結い、漆塗りの短甲をつけ槍や剣を持っている。
先頭の中年男がたちまち気づき、槍を構えた。
「なにものっ!」
たちまち残りの二人も、太刀をぬく。口から干物の尻尾をだしている女は、反論もできずに手を横に振る。
「その長き手足、ツチクモか!」
「姫をかえせ!」
などと言いつつ斬りかかってきた。女は太刀もぬかず、身軽にそれをかわす。口はまだしっかりと干物を噛み続けている。
「こやつっ!」
中年男は、鉄槍を突き出してきた。女はすんでのところでそれをかわし、槍をつかんでねじる。中年男は横に飛ぶように倒れた。
しかしあくまで剣は抜かない。ようやく魚を飲み干した。
「まて、俺は怪しいものではない」
「怪しいものに限ってそう言う。自ら怪しい者とも名乗るまい!
その長い剣といでたち、ただの乙女ではないな」
中年男も剣をぬいた。よく磨かれた銅剣である。
「おとなしく捕まれ、いまわしきツチクモめ」
「ツチクモ? 汝らは」
「クロダのイオト宮のものだ!」
女は対抗をやめていた。ここは誤解を解くためにも、従うしかなかった。
「判った。ともかく逆らわぬから、そちらも剣を納めよ」
「よし、ついて来い」
どれぐらい歩いたろう。女戦士は三人の戦士に囲まれて彼らの宮へとついた。
内つ淡海の南、西にはカツラキの山が迫るあたりに、深い堀と高い土塁で囲んだ集落国家がある。そこは長身の女も、何度か素通りしたことがあった。
しかし以前よりも大きくなっている。ここは、西からあらたに来たった新興権力の中心地であり、モノノベ技術氏族の根拠地でもあった。
湖水から水をひいた馬蹄形の堀は深く、その内側には人の高さほどある土塀を築いている。兵のところどころには物見やぐらが組んであり、全体が堅牢な要塞となっていた。
周囲には竪穴式の住居がならび、幾筋もの煙が立ち上っている。
ここイオト宮の南側に大門があり、木を組んだ橋が堀にかかっている。
鳥居状の大門は大きな扉が両側に開け放たれ、槍を持った厳しい兵士二人が守っている。
三人に連行された長身の女は、行きかう人々、作業中の民の視線を浴びた。
国邑としては新しく大きく、周囲には交易の市もどきも出来、粗末な小屋も混じる。宮の内部には、
人も多い。北側には湖水の輝きが見え隠れしている。
旅の女戦士が連れて行かれたのは、ひときわ大きな高床式の建物の前だった。周囲は小さな広場になっていて、昼でも火がたかれている。
そのあたりに立ったり座ったりしている人々は、いずれも髭は蓄えているものの、のっぺりとした顔で目は細い。やはり、西のほうからわたってきた連中の子孫らしい。
彼女をひっぱってきた中年男が、高殿のむこうへ小走りに去った。あらたな兵士があらわれ、槍をつきつける。
その場に居合わせた人々は、みな長身の異国の戦士を物珍しそうに見つめる。特に敵意は感じられない。女も、さほど緊張しなかった。
待っているとほどなく、奥から数人が現れた。頭に黄金の冠をのせた、髭もうるわしい初老の人物が中心にいる。敵意も悪意もない、荘厳な人物である。
いささか痩せぎすのその人物がここの王らしく、取り巻く数人は気をつかっている。王らしい人物は、女のすぐ前まできた。後ろで槍を突きつける男が言う。
「ひざまづけ」
女は言われるようにした。道すがら、異様に長い剣は取り上げられている。
王たる人物は、目を見開いて見つめる。茜で染めたらしい血色の比礼が珍しい。
「汝は誰だ、名を問うておる」
「……エニーメ。怪しき者ではない。なにゆえ俺をひきたてる」
「娘を、我が娘をどうした」
「む、娘? 汝いましのか?」
「姫を、モモソ姫を返せ」
「あの、なんのことだか判らない。汝は誰?」
「わが娘を。この
「汝が名高い、彦フトニの王きみか。モモソ姫とは、娘?」
王はその異国的な顔を見つめた。敵意も邪心もなさそうだ。
「クニクル、このものこそ、まことモモソ姫をかどわかしたあやしの者か」
王のうしろから、背こそ高くないがしっかりとした体型の少年があらわれた。いささかためらったように、エニーメを見つめる。
「い、いや、こんな女ではない。女ひとりで、どうやって姫を」
王はクニクルと呼ぶ少年と、顔を見合わせた。
「汝ら、なにゆえこの者が、モモソ姫をかどわかしたと思うたか」
問いは、エニーメを連行した男たちにむけられた。
「このように怪しき大きな女が一人、内つ淡海の畔を歩いておりましたがゆえ」
「大きくて悪いか。このあたりの国では、大きな女は許されないのか」
女は立ち上がった。体つきはしっかりしているが、女性的な顔立ちの少年を見つめる。
「クニクルとやら。この俺が、なにかしたか?」
「ち、違う。俺を襲いし影は二つか三つ。低くその、手足は長い。
この女ほどは高くない」
「夕べは、大きな影に襲われ、いきなり姫をさらわれたと申したではないか」
父に見つめられクニクルは秘かに動揺する。
「闇夜のことゆえ見間違えた。また気も高ぶり、その……つまり。
今は間違いない。三っつか四っつの怪しき影。熊の、そう毛皮を頭からまとい、低く走る手練のものが疾風のごとく、姫をさらい逃げた」
「……まさに
と髭も美しい、がっしりとした男は言う。漆を塗った小札を重ねた鎧を着ている。全体的に身なりはいい。さほど若くもない、戦いになれた戦士長のようだ。
「どうだクニクル、マリネの申すごとくツチクモなのだな」
「そうだ
「ツチクモどもが東の山々のあたりまで、またぞろ現れているとは聞いていた。
しかるになにゆえ、わざわざ淡海の西まで来てモモソ姫をさらう」
猛たけマリネ、とも呼ばれる戦士は髭をなでつつ忌々しそうにかく言った。
「あの、俺はもういいのかい。剣をかえしてくれ」
「いや、よその国のいくさ人にしては、一人と言うのもおかしい。
とマリネは剣をぬく。鍛え上げられた鉄剣で鞘の一部には金が使われている。
「そ、それはないだろ。俺は姫なんか知らぬし、ただ腹がへりて……」
「まて、タケマリネ」
と温厚そうな王が手を水平にあげた。マリネは頭を下げる。
「この者に罪はない。総ては我らの間違いだ」
「あたりまえよ。俺が何したというのよ」
「この者の剣をかえしてやれ」
「よ、よろしいのですか」
「かまわぬ。この者、ツチクモではなさそうだ。顔立ちには近いものがあるが」
小太りの中年男はしぶしぶ、長い太刀をかえした。長い刀を十拳剣とつかのつるぎと言うが、エニーメの剣はさらに長い特殊なものだ。腰につるさず、背中に斜めに背負う。
鞘を固定する紐を結んでいると、マリネが目を怒らせて見つめる。
「しかし、稲つくる民とも思えませぬ」
「あなたらカツラキやヤマトの民は、いつもそう。稲を作ることだけが正しく、狩人や山に住まう民を見下す。時には剣で追い払う。そして逆らう村を焼く」
「黙れ、なにの故か知らぬが、怪しき大女が我が
「
「ともかくマリネ、この者は知らぬ。わびて好きにさせよ」
猛たけマリネはエニーメの顔を見つめて少し驚いた。おおづくりな顔立ちだが、戦士らしいりりしさと女性的な美しさがある。
「ともかくどこへでも立ち去るがよいが、このことを人に話さば、命はないぞ」
大柄な女戦士は、毛皮の袖無し外套をかぶりなおした。襟首のところに切れ込みがあって、そこから長い剣の柄が飛び出している。赤い比礼もまきなおした。
エニーメは、少年クニクルのおどおどした視線に気づく。
「あなた、クニクルというんだね」
「そうだ。ヒコ・フトニの王きみの子、クニクルだ」
やせてはいるが精悍そうで、涼しい瞳を持つ少年だった。ただその目の奥には、なにかにおびえたような動揺が見える。
長身の女戦士は、意味ありげに微笑む。
「なにがあったの。話してみて」
「お、お前にか」
と父王の顔を見る。フトニ王は複雑そうな表情を見せるばかりである。
「先ほど言うたが、改めて名を与える。俺はエニーメだ」
「エ、エニーメ?」
「流れ歩いている
村が焼かれてからさまよい歩く。育ちは北の、大き淡海のほとりの森の中だ」
「このような者に、話すことは要らぬ。はやくたち去れ」
「まぁまてマリネよ、かく扱うことはない。我らの手の者が、過ちて連れ来たのだ。また遠く歩くものは、いろいろと聞き知りておろう」
この時代、各地の国、と言っても大きな集落どうしが時として争っていた。
滅ぼされた村の生き残りは山に入るか、他の村にまぎれこむか、エニーメのように各地をさまよい歩くしかなかった。
そしてさまざまな情報を仕入れて、強かに生き抜く。
「旅のつわものよ、夕べ遅くに、我が娘が消えた。森に潜む
「娘?
フトニ王は悲しげな表情で、視線をおとす。
「我がむすめ、モモソ姫。………そして尊き、
エニーメの表情に緊張感が走った。視線が輝きを増す。
「カンナ……クシメなの? そのモモソ姫とは」
彼女を見つめるクニクルの視線は、まだ不安げに泳いでいた。
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