第33兵法家

もちろん、そういった赤心せきしんが、現在の彼女にきちんと伝わるはずもない。


澄んだ瞳の奥底には、一粒の感懐も浮かんではおらず。 まさしく氷のようなまなこが、こちらを冷え冷えと注視するのみだった。


「その眼……」


果たして、如何いかなる修羅場を経験すれば、こういった眼の色を獲得できるものか。


眼光とはすなわち、当人の性根しょうねと経験からることのできる心の宿である。


その者が血を好み、長く血を見れば鬼がまい、いくさを好めば修羅が棲まう。


かく言う自分も、一髪千鈞いっぱつせんきんの覚道を歩む途上、眼中に猛禽の如き黄色味を得た。


しかしながら、こんなものは何の取柄とりえにもならぬ。


このかおをひと目見て、赤子のように泣き出した黒田の若君が、ひどくいたわしく、懐かしい。


武蔵守むさしのかみ藤原玄信ふじわらのはるのぶ


「応……?」


「応えるなたわけ。 貴様はの剣豪の道々が化けた霊代たましろであろ?」


「左様。 それがしは二天にあらず。 ただひとえに──」


えなく果つるまがい物よ。 素っ首掻き落としてくれる」


言い終わらぬ内に、笹竹のようにしなった長柄が、剣豪の足下を払い、その身を痛烈に転倒させた。


間髪をれず、曲刃がブンと唸りを上げて、落雪の勢いを発揮した。


「ぬお……っ!」


これを夢中で受けたはいいが、もはや勝機はことごと遠退とおのいている。


本来、勝てぬ試合はせぬもの。


此度こたびはまこと、酔狂が過ぎた。


それがしは兵法家であって、剣客ではない。


「ぬむぅ!!」


「の……?」


必死に腕を伸ばし、かすかにはだけた着物の向こう、敵の内股うちももを鷲掴みにする。


神明と言えども、廉恥れんちな乙女心が働いたようで、絶倫の鉾先から、にわかに力が抜けた。


この機に乗じ、身を跳ね起こして仕切り直す。


「下郎!!!」


力の限り吼えた彼女が、正面きって突進した。


鉾を操る腕前が、先よりも明らかに精彩を欠いている。


これは一分いちぶの勝機があるかと早合点はやがてんしたところ、剣豪の横っ面を目掛けて、別の刃が駆け込んできた。


迅速に足を退しりぞけ、目測で判断をつけた薙刀なぎなたの間合いから、的確に我が身を逃す。


果たして、勇壮な女官が繰り出した一撃は、剣豪の顎先に紙一重の余地を残し、大きく空振りを喫することになった。

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