第9話幸せと憧憬

彼を迎え入れて煩悩をぶちまけてしまったあの日から、結局私はどうしたのかと言うと。


「ただいまぁ!!」

「おかえりなさい」


仕事終わりでイキイキと扉を開いた私は、玄関まで来てくれた悠に飛びついた。靴も揃えず鞄を放り投げたいい大人を全力で受け止める彼は、日に日に頼り甲斐のある顔をするようになった。


そう、もう我慢なんてひとつもなくやりたい放題なのだ。


「聞いてよ! 課長ったら酷いんだ!」

「うん、中で聞きますね。ご飯も出来てるから一緒に食べましょう」

「うん!」


彼の手を取って指を絡める。へへっと笑いかけると、包み込むような微笑みを返してくれた。このやり取りは何度やっても心がいっぱいになる。

一緒に住んでみて知ったのだけど、彼は料理が上手い。歳の近い弟のために親に代わって晩御飯を作っていたらしく、私よりレパートリーが多い。ふわっと煮物が食べたいと零しただけなのに、小鉢が三つくらい増えてるしアジの南蛮漬けまで並んでいる始末。もちろん、ビールも切らさない。


「ぷはっ、美味しい! 悠は本当に良い男!」

「それ、毎日言ってますね」

「言いたいんだからしょうがないでしょ!」

「ふふ、ありがとうございます」


男子高校生でこれだけ出来るのはすごい事なのに、決しておごらない。謙虚な男はこんなにも素敵だったなんて、人生を変えるレベルの発見だ。

ご飯を食べ終わったら、少しのイチャイチャタイム。テレビを垂れ流しにして、私は画面なんかよりずっと悠を見つめていた。ほとんど私の話をして、彼はうんうんと頷きながら頑張ったねと頭を撫でてくれる。それがまた気持ちよくて、いつまでもお風呂に入れない。

だから、毎回彼から促される。


「お風呂、冷めちゃいますよ?」

「ん〜、もうちょい」

「ダメですよ。昨日はそのまま寝ちゃってなかなか起きなかったじゃないですか」

「……は〜い」


背中を押されて脱衣所に突っ込まれるのもなんだか嬉しくって、すぐに上がってやろうと足を早める。イタズラしてるわけじゃないのに謎の悪戯心が湧き出るのだ。


パジャマ姿で出てきた私を迎えるのは、ドライヤーを片手にテレビを見ている彼。何も言わず股の間に座り込むと、当たり前のように髪を乾かしてくれる。

手ぐしでゆっくり、私が熱がらないように少し離したところからドライヤーを振る悠は、なんて献身的な彼氏なんだろう。まるでお姫様だ。


夜も深みを増す頃、ようやく彼も寝巻きに着替えて一緒にベッドへ潜り込む。悠が右、私が左側だ。これも、私が右向きで眠るから腕枕をしやすくするために彼から言い出してくれた。

胸元近くに頭を置いて抱きつく私の背中を押さえ、乾かしたばかりの髪を撫でる彼は、私が眠るまで続けてくれる。テレビの話とか、明日の晩御飯の話しをしてくれる彼の声は定音で、眠りやすいよう子守唄のように静かに声を出す。

微睡みの中に溶け込む。思考という思考はせずに、無意識に感じる。




この幸せのために今まで苦しんできたんだ。

私は幸せ者だ。










私は………………?









違和感を覚えた。何かが抜け落ちているような、大事なところが何か透けていっているような。


不意に彼の顔を見上げる。私が寝るまで決して眠らない彼は、不思議そうな顔をして首を傾げた。


「どうしました? 怖い夢、見ましたか?」


怖い? そんな顔してるのか? そんな事ない。幸せだ。これ以上ないくらい。


「ううん、何でもない……」


布団に顔を埋め、わからないことから目を逸らした。明日も仕事だと自分に言い聞かせると、簡単に眠ることが出来た。


そう、怖くなんてないもの。














翌朝の出勤前、気まぐれで神社に来ていた。

例の穴は乾いた薄茶色になり、少しずつ地面に同化していっている。

近くに転がるスコップに、私の影だけが手を伸ばしている気がした。でも、叫ぶことなんて何も無い。今は彼が、悠が全部受け止めてくれている。


「なんだろ……」


気持ちが落ち着いていることが気持ち悪い。どこまでも強く信じていることが気持ち悪い。そう考える自分が気持ち悪い。

……違う。


ダメだ……これ……ダメなやつだ……。


慣れ親しんだ場所から走って逃げた。何がダメなのかを理解しないために走った。

それに気付いてはいけない。

知ってはいけない。

ただそれだけを確信して、職場まで一気に駆け抜けた。






追いつかれると、終わってしまうから。

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