第8話甘い、甘え

カチカチと動く壁掛け時計を凝視しながら、それより速く鼓動する心臓に手を当てる。もう何度も同じ行為を繰り返してきた。もちろん、そんなことで収まりはしないのだけど。


「そろそろだ……」


冷たい指が背骨を撫でるような気持ちの悪い緊張。首の筋肉をどこかで落としてきたように、こてんと下を向いてしまう。

こんな時に、こんな時に限ってなんで不安になってしまうんだ。いつも通りでいいのに、いつもの自分がわからない。


携帯がブルルッと震え、私は手を伸ばさず画面だけを見る。そこに表示された名前が、時間切れを意味していた。

彼が……悠が来てしまった。玄関の前に。入れないと、外は暑いからきっと汗だくだ。

気が付いたら扉の前まで歩いていて、ドアノブに手を掛けていた事に驚く。

ここまで来たのだ。嘘の自分でもいい。取り繕うしかない。

水の中で動くように何倍も重くなった扉を開く。そこには、眼鏡をしていない悠がドラムバックを背負って立っていた。


「おはようございます」

「おはよ」


貼り付けた余裕のある顔で彼を迎え入れ、予想通り汗をかいていた彼は靴を脱ぐ前にタオルで顔を拭いている。


「暑かったでしょ? 冷たいお茶飲む?」

「はい……でもその前に」


グッと顔を近付けて来た彼は、目を細めて私の顔をじっと見つめだした。早速キスがしたいのかと思ったのだけど、私は硬直して動けなかった。


「な、なに?」

「…………」


答えてくれない。きっと口を差し出さない私にガッカリしたんだ。さっそくやってしまった……。

無言のまま背を向けた私は、視点をあっちへこっちへ迷わせながらリビングへ向かった。彼と目を合わせないように細心の注意を払ったのは、この滲んだ絵の具のような世界のせいだ。


「ずいぶん変わりましたね。三日前までほとんど何もなかったのに」

「そうだね」

「僕は……この部屋好きです」


好きだって。頑張って揃えた甲斐があった。

なのに、なんで笑えないんだ私は。

出来るだけゆっくりと棚からお揃いのコップを二つ取り出すと、後からトスっとバッグを下ろす音が聞こえた。


「美春さん」

「ちょっとまってね。いまお茶を……」

「美春さん、こっち向いてください」

「だから、待ってって」


なんで今日に限って強引なんだ。いつもは一言で引き下がってくれるのに。もう少し待ってよ。今は本当にダメなのに……。


「……『話し、聞きますよ』」


柔らかく、諭すような声。

聞き慣れたその言葉に、私は驚いて振り向いてしまった。心の、身体の南京錠に触れられた気がした。


なんで、わかったの……。


彼は照れくさそうに、不器用に両手を広げ、私に飛び込んでこいと語りかける。その姿にもう我慢が出来なかった。

顔を伏せたまま吸い込まれるように身体を擦り寄せた私は、黙って泣いた。抑え込んだ気持ちがひび割れたガラスケースから漏れ出してしまった。

震える身体を包み込んで、彼は優しく頭をとんとんする。


「……ゆっくりでいいです。よければ話してみてください」

「ぅぐ……あの、あのね……」


拙い声で、全部話した。

今日が楽しみ過ぎて、子供のように舞い上がっていたこと。色んな妄想をして幸せになったこと。舞い上がった分だけ、叶わなかったらと不安になって、もしかしたら少し引かれるんじゃないかと怯えたこと。ゆっくりと時間を掛けて心を近づけたいのに、自分では抑えられなくて、そんな自分が嫌で、自分に付き合わせている悠に申し訳なくて。でも感情がぐちゃぐちゃのまま悠が来てしまった。わけがわからなくなって自分を偽るしかなかったんだ。

乱雑に投げられた言葉を咀嚼して、彼は一言だけ返してくれた。


「僕も、同じでしたよ」


その言葉は、私の心を溶かすには十分だった。暖かい笑顔の彼に、泣きじゃくる私はようやく腕を回してしがみつくことが出来た。

どっちが子供かわかったもんじゃない。精神がぐらぐらな私はもうバレているんだ。隠すことなんて初めから意味がなかったんだ。


安心と愛情を孕んだ抱擁は、徐々に心の泥を流してしまう。本音を隠す泥の鎧を。


「少し、落ち着きましたか?」

「うん……あのさ」

「はい」

「ご飯……何が食べたい?」

「オムライスが好きです」

「ん、作るぅ……」


ゴシゴシと力強く目を擦ると、彼はそれを止めて、ハンカチで優しく拭ってくれた。

本当にずるい。こんなことされたら好きになるしかない。

同じ目線で微笑む彼は、私から離れるまでずっと手を握っていてくれた。男らしいタイプでもないのに、紳士で、たまに大人びたことをしてくれる。それは私が子供なだけなのかもしれないけど、頼り甲斐を感じさせられてしまうのだ。


「美春さん」

「……ん」

「少しずつ、やりたいことをしましょう」

「……うん」


彼には勝てない。きっと初めから勝つことなんて出来ていなかったのだ。だから、素直になろう。ちょっとずつ、叶えるんだ。


「甘いのがいい……」

「え、オムライスの話ですか?」

「……馬鹿」

「え?」

「コンタクト、似合ってるよ」

「あ、ありがとうございます」


少し期待し過ぎているのかも知れない。変なとこで察しが悪いところも、なんだか愛おしく感じてきた。

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