第6話自己紹介

あの日を境に私は彼氏との関係を絶った。

具体的には、LINEで別れる事と実家に帰る旨を伝えてブロック。彼氏がいないうちに絶対に必要な荷物だけを持ってそのまま実家に逃げたのだ。お気に入りの服や置物はこの際捨てる気持ちで置いてきた。多少の後悔と恐怖を背負っての帰郷は、実家に着く頃には夜空の三日月が綺麗に洗い流してくれたから、いまは開放感で身体が軽い。


これも、あの日彼がいてくれたからだ。


隣で肩にもたれて眠る彼。神社の木陰は涼しいけどそれでも夏だ。じんわりと額から汗を流している。疲れも溜まっているのだろう。

彼には悪いことをした。急に付き合えと言ったり、朝から新しいマンションの引越しまで手伝ってもらった。体育会系とはほど遠い線の細い彼は私よりずっと重いものを運んだりして、もしかしたら良いところを見せようとしたのかもしれない。終わってからいつもの場所で話がしたいと言った私に付いてきてくれたけど、とうとう電池切れみたい。


黒くて細い、そして量の多い髪の毛を撫でてみる。くすぐったかったのか、僅かに身じろぎをする彼が可愛く見えてしまう。

お互いに好きで付き合ったわけじゃないけど、私の弱さで付き合わせているだけってわかってるけど、これから好きになっていける気がしている。順番は逆。でも、そんな関係があってもいいじゃないか。

さて、そろそろ起こさないと何のためにここへ来たのかわからないな。


「ねぇ、起きて」

「…………ん」

「起きれる?」

「うん……大丈夫、です。すみません」


手の甲を彼の頬へ当てる。まだ微睡みの世界を抜け出せなさそう……低血圧なのかな。普段から大人しいけど、余計に動かなくてちょっと面白い。

数分待って、彼がある程度目覚めるのを待った。しっかり目が開いたのを確認してから本題に入る。


「いまさらなんだけどさ」

「はい」

「自己紹介……しない? お互い名前も知らないでしょ?」

「あ、そうですよね……」


ちょっと驚いている? 割と長い間「お姉さん」と呼ばれていたから、それが名前みたいな感覚になっていたのかもしれない。それでも困らないのだけど、私は名前で呼びたくなったのだ。


「あなたの名前、なんて言うの?」

「…………悠」

「ゆう?」

「……女の子みたいって、よく言われます」


だからか、つまり名前を知られたくないから話題にしなかったんだ。

いつもより瞬きが多く、私の反応を窺うようにチラチラとこちらを見ては目を逸らす。仕草すら女の子みたいで、私の嗜虐心が軽くくすぐられた。

あぁ、可愛いなぁ。


「確かに女の子みたいね」

「…………」

「でも、私は素敵な名前だと思うなぁ」

「あ、ありがとう、ございます」

「呼びやすいし」

「…………」


ムッとした。こんな顔もするんだ。

知れば知るほど可愛く見えてくる。年下どころか、いつもゴリゴリの男っ気を出してる相手と付き合ってきたから新鮮だ。


そうだ、私たちは付き合ってるんだ。


自然と頬が緩んでしまう。さてさて、次は私の番だ。何だか緊張してきたなぁ。


「私は美春。美しいに季節の春。はるちゃんって呼んでいいよ?」

「美春さんですね」

「は・る・ちゃ・ん」

「美春さん」


コイツ、意地でも言わないって顔してやがる。さっきの仕返しのつもりか、まぁ好きなように呼んでほしいのだけど、それはそれとしてなんかムカつく。


「そりゃ」

「あっ……返してくださいっ」


眼鏡を取り上げてやった。じたばたと手を伸ばしてくる彼は、見たことないくらい慌てていた。眼鏡の人から眼鏡を取るとこうなるのか。


「ほら、はるちゃんは?」

「美春さん返してくださいっ」

「はーるーちゃーんー♪」

「呼ばないですっ」

「聞こえないなぁ」

「返して!」


彼が身を乗り出してくるもんだから、私は態勢を崩して倒れてしまった。

神社の古い木板が軋む。押し倒される形になって、この子は男の子なんだって焦りが生まれた。


ヤバい。私の『女』が反応する。


押さえ付けられた腕。彼の身体に胸が当たり、顔も近付いて鼻が触れ合いそう……。

今日の下着、どんなだったかな。条件反射のように足を閉じてしまう。


「美春さん、大丈夫?」


ハッと我に返った。彼の唇ばかりに意識がいっていたけど、目を見れば何を考えているのかすぐにわかった。

そう、この子はそんな人じゃない。だから頼ってしまった、告白したんじゃないか。

彼は自分の眼鏡なんて二の次で、倒れた私の首裏と背中を持ってふわりと持ち上げてくれた。怪我をしてないか心配で堪らない。そんな態度が隠せない人なんだ。


「…………ふふ」

「え……?」

「んふふ……ううん、何でもない。心配しないで、大丈夫だよ?」

「……良かった」

「ごめんね。はいどうぞ」

「もう……やめてくださいね?」


私の手から眼鏡を取る仕草も、ゆっくりといつもより気を遣っていた。


ちゃんと見てくれている。大事にしてくれている。それが嬉しくて、幸せになって、思わず口から出てしまいそうになった。


好きだよ……。


でもまだ言えない。本物かわからないもの。私はこれ以上傷つきたくないんだ。

口をついて出たのは、そんな想いをおくびにも出さないものだった。


「眼鏡ない方がいいよ」

「……参考程度に覚えておきます」


もう少し。もう少しだけ時間をください。

この繋いだ手が本心である事を確信するまで、たぶん時間はかからないから。

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