第55話 渡し守と豚汁

「おい! そっち行ったぞ!」


 水銀灯が灯る薄暗い街で僕は、よく分からない二人組の男に追われていた。

 あまりいい風貌とは言えないその二人は、僕を建物と建物の間の狭い路地に追い込んで、ニヤリと不気味に笑った。


 僕はどうなるんだ……。


 一人の髭を生やした男が、僕の腕を掴み、取り押さえてきた。

 僕は夢中で暴れ、抵抗した。


「おい! 早くしろッ!」

「へ、へいッ!」


 その瞬間、僕の腕に激痛が走った。

 髭の男に取り押さえられている僕の腕に、もう一人の若めの男が、何か鋭利な物を突き立てたのだ。


「うぁぁあああっ」


 その男は僕の腕をえぐり、ラムネ色をしたガラス玉のようなものを取り出した。


「兄貴! 取りましたッ!」

「おし、行くぞ」


 男たちはそのガラス玉を手に入れると、足早にどこかへ去っていった。

 僕の腕からは鮮血が垂れ流れる。


 痛い……。


 僕は衣服の一部を破り取り、腕に巻き付けた。

 このまま僕は野垂のたれ死んでしまうのだろうか。

 そんな恐怖が僕を襲った。


 僕は自ら、あの病室から脱走した。

 自らの意思で、自由になった。

 野を駆けて、あの巨大な城からは遠く、ようやく水銀灯の灯るこの街へと辿り着いた。

 猫以外の生き物で、僕と同じ人間を見かけたのは随分久しぶりな気がした。


 でもまさか、こんな目に遭うとは……。


 でも僕はあの病室に帰りたいと、微塵みじんも思わなかった。

 僕はとぼとぼと腕を押さえながら、水銀灯の灯る街の中を、あてもなく歩き続けた。




 僕は街を抜けると、広大な海のように見える川のほとりに出た。

 僕はひたすら川辺を歩いた。

 遠く向こう岸は、霧のようなもので見渡すことは出来なかったが、その光景は何かとても幻想的で、僕を魅了した。

 ずっと川辺をとぼとぼと歩いていると、労働者と思しき人間が集まる小屋に辿り着いた。

 労働者の一人が僕を見て声を掛けてきた。

 その労働者はボロボロだった僕を見かねて、火が焚いてある場所へ案内してくれた。

 僕が火のそばだんを取っていると、その労働者は仕事があるからと言ってどこかへ行ってしまった。

 僕は何度もその彼に感謝し、彼を見送った。




「なんだお前。その若さで死んだのか?」


 火の傍で暖を取る僕に声を掛けてきた男は、労働者達に食事を作っているようだった。

 男の身長は180センチはあるだろうか、その体格はガタイが良く威圧感があった。

 少しタイトな衣服を身に纏い、その筋骨隆々な姿に似つかわしくない、エプロンのようなものを引っ提げていた。

 子供の頭をガシッと片手で掴めるほどの巨大な手には、しっかり手入れされているだろうつやつやときらめく包丁が握られており、そのもう一方の大きな手で器用に大根をかつらむきしていた。

 僕はその男の手捌きに見とれていた。

 手際よくくるくると大根を回し、あっという間に大根が剥けていく。

 目の前のそのガタイのいい男は、皮を剥き終わった大根をザクザクと切り分け、大きな寸胴ずんどう鍋にボチャボチャと大根を投入した。

 男の真向いに居た僕は、その熱気と香りに誘われるようにしてその鍋の中を覗き込んだ。

 中には肉や芋やにんじん、こんにゃくとごぼうのようなもの。そして先ほど入れたいちょう切りにされた大根がぐつぐつと煮込まれ、白い湯気を出していた。

 僕が鍋の中を覗き込んでいる様子を見て、まるで小さな子供に語りかけるように優しく言った。


「腹、減ってるか?」


 見ず知らずの男に足許を見られるのは何かしゃくだと思った僕は、その心中を悟られないように気丈に振舞おうとした。

 でもあまりの空腹でお腹が鳴ってしまい、僕は自分の鳴らしたその音にびっくりした。

 色々聞きたいことはあったけれど、空腹には勝てなかった。

 僕は男に向かって、コクコクと夢中で頷いた。


「ハハッ、少し待ってな。これ今、豚汁作ってんだ」


 男はそういうと、茶色い味噌のようなものを鍋に溶かし入れ、味を見ていた。


 懐かしいにおい。

 僕は何かを思い出しそうになった。

 だけどその手繰り寄せた記憶の糸の先には、何もついてなかった。

 でもよだれが出そうなほど、美味しそうなにおいがそこらに漂っていた。




「お前、行く場所ねぇのか?」

 男は貰った豚汁を食べてる僕を見ながら言った。


「うん……僕は、記憶がないんだ」


 ここがどこなのかもわからない。

 ましてや自分が何者かさえも、僕にはわからなかった。

 僕の返事で、男は少し不思議そうな顔をしたが、こう言った。


「そうか。んじゃここで働くか?」

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