第49話 夢と苦み

「彼の弟は見つかったのか?」


 博士は腕を組んでウロウロとしながら、椅子に腰を落ち着けている大臣に向かって言った。


「ああ、所在がわかり、兵を派遣した。まもなく保護され、ここに連れてくるはずだ」


 よし。といった感じで博士は、山積みになっている書物の横に置いてあった袋を取り出した。するとその袋の中を、がさごそと確かめる博士。

 なにやらほのかに、とてもいい香りが辺りに広がった。


「おい、そこのサビ柄のキミ! まだ出来ないのか?」


 その声で助手の猫は、ビクッと体を震わせた。


「えっと……その、器具の使い方が分からなくて……調べていたところです」


 そういうと助手の猫は、丸眼鏡を外してポッケから取り出した白い布で、そのレンズをふきふきとしながら言った。


「まったく……使えん助手だ」


 そういうと博士は、大きな机の端に置いてある不思議な形をした器具をカチャカチャいじりだした。

 僕はその器具を見て何かを思い出した。僕はそれを知っている。

 この深みのある独特の芳香。そして僕は何度も、その器具を使って練習した。


「あの、もしかして博士。コーヒーですか?」


 博士は驚いたように、目を丸くして僕を見る。


「キミ! もしかしてわかるのかっ!?」

「ええ。僕は昔、その道を極めようと勉強していたことがありまして」


 博士は目を輝かせて、まるで飛び跳ねるようにして僕の手を取ると、両手で包むように握手をしてきた。


「これは運命という名の必然だ!」


 そういって博士は嬉しそうに、さっきの袋を僕に差し出した。

 何かとてもいい香りがする。不思議そうに僕はその袋の中を見た。コーヒー豆だ。


「おっ? これはもしや、コピ・ルアクですね!」


 袋のラベルを見ると、とても高級なコーヒー豆として名高いあのコピ・ルアクだった。


「さすがコーヒーを愛する同志よ! こちらの世でそれを手に入れるのは、それはもう、とても骨が折れるのだ」


 昔の級友に出会ったかのように、博士は喜んだ。僕はどうやらとても気に入られたようだ。


「器具を見せてもらっても?」

「ああ、もちろんだ。是非ともキミが淹れたコーヒーを飲ませてくれ」


 僕はその豆の入った袋を持って、不思議な形をした器具の方へ移動した。

 その周辺にはいくつかのコーヒー器具があった。

 まずは年代物だろうことを伺わせる、アンティーク調のコーヒーミルだ。

 コーヒーミルとはコーヒー豆を細かくするための器具だ。

 そのコーヒーミルは手動式のもので、引き出しのついた少し濃い茶色の木製の台座の上に、鉄製のカップが埋め込んであり、その中心にミルを回すためのハンドルが付いていた。

 このタイプのものの使い方は実に簡単で、カップの中にコーヒー豆を投入し、ハンドルを水平に円を描くように回すだけで、挽かれた豆が木製の台座の引き出しの中に落ちていく。中の構造は臼のようになっていて、ハンドルの下に粗さを調節できるネジが付いているのが一般的だ。

 今回の抽出方法は――それはこの研究施設で、いかにも。という特殊な形状で異彩を放つ――サイフォンである。

 サイフォンに適した豆の挽き方は中挽きだ。幸いコーヒーミルの調節ネジには丁寧に目盛りが書いてあり、僕は調節ネジを回し中挽きの位置に合わせた。

 コピ・ルアクの豆をミルのカップに、袋の中に入っていた豆用の計量スプーンで6杯分をバラバラと入れる。約60グラム、サイフォンで4人分のコーヒーを抽出する分量だ。

 ゆっくりとハンドルを回す。ガリガリと音を立てるその感触はとても懐かしい。

 辺り一面にコーヒーのとても芳香が漂う。焙煎されたコーヒーの豆は挽く時が最も香りを放つのだ。

 博士が鼻をヒクヒクさせて、ニンマリする。

 しばらく回し続けると空回りし始めるミルの音。どうやら挽き終わったようだ。

 引き出しから挽いた豆を取り出してみる。うん、とてもいい塩梅だ。

 僕はマッチでアルコールランプに火を灯し、水の入ったフラスコを熱し始める。

 その間にサイフォンの濾過ろか器に、博士が既に煮沸して用意していたネルフィルターを取り付けて、竹べらでロートの底にぐいぐいと押し込んだ。

 そのうちフラスコの中で熱された水が、ポコポコと泡を立て始める。

 その様子を見計らいロートの中に挽いたコーヒー豆を入れ、ゆっくりロートをフラスコに差し込んではめこむ。

 博士も大臣も助手も、終始その様子をぼーっと見ている。

 フラスコの中のお湯がロートを伝いのぼってくる。するとロート内のコーヒー豆の粉がもこもこと持ち上がり、お湯に浮かび始める。僕は竹べらでその浮いてきた粉を、ぐるぐるとかき混ぜ始める。

 辺りにはもわっとコーヒーのいい香りが立ちこめる始める。

 ロート内は少し泡立ち、粉が湯を吸い膨らむ。


 コポポポ……。


 音を立ててフラスコ内のお湯がすべてロート内に上がり切るのを確認し、僕はアルコールランプを少しだけ離し、そしてまたロート内をかき混ぜる。


「あの、間もなく出来るので、カップの準備をお願いします」


 僕はそう言うとアルコールランプに蓋を被せ、火を消す。

 はっと我に返る3人、そして博士は答えた。


「おお、そうだった。助手、準備したまえ」

「は、はい」


 スーッとロート内で膨らんだ豆の粉がしぼみ始め、下のフラスコに抽出されたコーヒーが下りていく。うっすらと赤みを帯び、美しい濃い目の茶色。

 フラスコにはまっているロートを外し、その香りを嗅ぐ。うん、上出来だ。

 カチャカチャと助手が、4つの白いコーヒーカップを持ってくた。

 僕はそのカップに、フラスコの中で揺れるコーヒーを注ぎ入れる。

 僕を見て、一番に博士が口を開く。


「まるで円舞を見ているようだった」


 大臣がそれに続く。


「とてもいい香りだ。これがコーヒーか」

「べ、勉強になります!」


 どうやら助手は、僕の様子を見てメモを取っていたようだ。


「冷めないうちに、どうぞ」


 カップに注ぎ入れたコーヒーを、僕は3人に勧めた。


 最高級で超希少と名高い幻のコーヒー豆、コピ・ルアク。

 コーヒーチェリーのみを食べたジャコウネコの、排泄物から採られた未消化のコーヒー豆と聞くと嫌悪する人もいるかもしれない。だがコピ・ルアクはコーヒーの王様と呼ばれるほどに、世界のコーヒー好きを虜にした誉れ高いものだ。

 その味は適度に酸味と苦みがあり、まるでバニラやチョコレートのようなコクと、香水にも似た独特の香りがじわっと余韻を残す、とても美味しいコーヒーだ。


「これはなんとも、うまい! こんな飲み物は初めて飲んだ!」

「とてもおいしいですねっ!」

「うむ、当然だ。これは幻の豆なのだからな」


 僕の夢は喫茶店を持つことだった。その憧れに焦がれ、僕は何度もコーヒーを淹れる練習をした。その僕の熱意が、弟にまで伝染したくらいだ。

 僕はそのコーヒーをすすると、その香りは不思議なほど甘く芳醇で、何故か懐かしさで胸がいっぱいになり、その夢を諦めたにがさを思い出したのだった。

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