第45話 知識の山脈
「博士ッ! 博士はおらぬか!?」
研究施設の入り口であるその扉をバンッと押し開き、大臣は喚いた。
あまりに扉を勢いよく開いたものだから、正面のでかい机に置いてあった紙がひらひら舞い落ちた。
部屋の中はなんとも薄暗く埃っぽいが、外から見た感じだと学校の教室二つ分ほどの広さはあるだろう。
しかし部屋の中の空間のそのほとんどを、年季の入った書物たちが占有していた。
それは無造作に積み上げられ、さらに所狭しと敷き詰められ、まるで山のようになっていた。
正面のでかい机も、その書物の山で埋め尽くされていて、向こう側の壁はほとんど見えない。
部屋にひとたび足を踏み入れると、書物の保存状態を考慮してなのか、一切窓はなく、
入り口の方を振り返ってみると、手前側の壁には床から天井に向かって等間隔に、飾り棚がたくさん設置されていた。
その飾り棚には、さまざまな生物らしきものが入った、とても気持ちの悪い標本ビンが並んでいた。
「おーーーい! 誰かおらんのかーーーッ!! 博士ぇぇぇーーーッ!!!」
大臣の声は研究施設内をこだまする。
「…………はぁぁぁぁぃ…………少々ぉ待ちくださぁぁぁぁぃ……」
随分と遠くの方から声がした気がする。
大臣の視線を見るにその声はきっと、書物の山の向こう側からしたのだろう。
それはとてもか細い声で、わずかに聞こえる程度の返事だった。
大臣はその返事を聞いて少し安心したのか、近くにあった椅子に慣れた様子で腰を掛けた。
僕はうろうろと部屋の端から、その書物の山の
どうやら奥に向かう通路はないようだ。
そしてどこから見ても、書物の山の向こう側は、その書物の山が邪魔で見えない。
左右の壁には、まったくと言って役に立っていない本棚らしきものが、書物の山の端からチラリと顔を出していた。
きっとこの研究施設が出来た当初は、あの本棚も有効に活用されていたのだろう。
僕はもう一度、部屋の反対側の端から、その書物の山の麓を辿ってみる。
この書物の山は、その量もさることながら、ひとつひとつをよく見ると、どうやら積み方に何かしらの法則性があるらしい。
正面から見て左側の山は、物理学に関する書物が積み上がっており、力学系のタイトルが名を連ねていた。
ニュートン力学、量子力学、構造力学、流体力学、統計力学……などなど。
もちろんその界隈には、相対性理論や原子物理学、素粒子物理学に天体物理学。と読み上げると実にキリがない。
しかし、どうやらジャンル別に寄せてあるらしいことが分かった。
その山は一つだけではなく、いくつもの頂が連なっており、それこそ壁のようになっている。
まさに『知識の山脈』と言っても、過言ではないだろう。
物理学の書物の山の隣には、化学の書物の山が。その隣は生物学。そして数学に文学に経済学……。
きっと『学』と付く、ありとあらゆる書物は、すべて揃ってるのだろう。この量を見たら誰だって容易にそう感じるだろう。
それほどまで実に様々な分野の書物が、ものの見事に山脈のように積み上がっているのだ。
もしもひとたび、その一冊の書物を迂闊に手に取ろうものなら、瞬く間に雪崩を起こし、大惨事に至るのではないだろうか。
これはむしろ書物の山というより、書物の壁というべきだろうか。
シュレディンガーの猫――その博士はそう呼ばれているらしいが、ここにある書物を全て読破し、それを熟知し極めているのであれば、きっと相当偏屈な考え方をするのだろう。
いつの時代も天才は常人の理解を超えていて、それ故にたいてい変人扱いされる。つまり天才と変人は紙一重。という話を、何かの本で読んだのを僕は思い出した。
それにしても遅い。
返事がしてから、既に数十分は経過した。
大臣も腕組みして、イライラした表情をしている。
どうやって書物の向こう側へ行くのだろう。
もしかすると裏口でもあるのだろうか。
もしも裏口あるなら、初めからそこから入ればいいのに。
僕はそんなことを考えながら、大臣がイライラの我慢の限界で、山を崩してしまわないか、とてもハラハラしながら、返事の主を待った。
すると突然、足元の方でごそごそと音がして、僕はうわっと声を上げそうになった。
机の下からにゅっと、丸眼鏡をかけたサビ柄の猫が顔を出したのだ。
「お待たせしてすみませぇぇん。博士の助手の者ですぅ」
なるほど、机の下が通路になっているのか。盲点だった。
自ら博士の助手と名乗る猫は、もぞもぞと体をくねらせ、机の下にも敷き詰められていた本の隙間から出てきた。
その助手の猫は、少し埃まみれになった白衣を身に纏い、丸眼鏡が妙に愛らしかった。
「おお、やっときたか。で、博士は?」
「それが……ご存知かと思いますが、博士はその、興味がないことには一切動じない人なので……」
「ぬぅぅ……」
やれやれ。と大臣は困った顔をしたが、どうやらそれも想定内だったようで、よっこらせ。と言いながら身を
次の瞬間、大臣はその助手の猫が出てきた机の下の本と本の隙間に、豊満な体をうにうにとよじらせて、ずりずり奥へと入っていった。
「おい、君もついて来るのだぞ」
大臣は机の下の本に囲まれて少しこもった声で、僕に後に続けと言う。
僕は助手の猫に、明らかに嫌そうな表情をして見せた。
「す、すみませぇん……人手が足りなくて、片付けが追い付かないんですぅ」
助手の猫はもじもじしながら、申し訳なさそうに言った。僕はそのあどけない仕草に不意打ちの可愛さを感じた。猫の可愛さは正義である。
僕はそれを見て渋々、体を低く屈ませて、大臣が入っていった机の下の本の隙間にずぼっと頭を入れた。
僕の頭がすっぽり入ったところで、助手の猫が後ろから僕のお尻をぐいぐい押して来るので、僕はなんだかなぁ。となんともやるせない気分になったのだった。
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