第44話 博士とコーヒーと私
「そうか、また現れたか」
白衣を纏った白黒柄の猫は、壁一面に描かれた文字に向かったままそう答えた。
何やら呪文のようにも見えるその文字に、数式のようなものをペンで書き足すその手は止まることを知らず、兵士の猫の知らせた伝令内容にはまるで、全く関心が無い様子だった。
その博士の鼻とひげぶくろの辺りには、チョビ髭のように見える黒い特徴的な模様がある。
博士が何か考え事をし始めると、決まって鼻をヒクヒクと引くつかせるのだが、そのチョビ髭のような模様は、その時だけ四角い形はまあるい形に姿を変える。
今まさに博士のチョビ髭は、まあるい形になっていた。
だいたい博士がああやって壁に向かっている時は、何を言っても無駄だ。
私は知っている。
私はかれこれこの数か月、この博士の助手としてついて回っていたが、彼の行動や言動はある一定のパターンがあるのだ。
仮に『この世界がもう間もなく終わってしまいます』と彼に告げたとしても、『そうか』とひとつ返事をするくらいだろう。
それでも私は、この博士を尊敬している。
『メスは子宝に恵まれてこそ華である』という考えの親の反対を押し切ってまで、勉学の道を選択し、私は死ノ国大学を首席で卒業したのだ。
そしてものすごい競争率を誇るこの研究所で、あらゆる学問の権威と言われる博士の助手として働けるのは、私の中で唯一、友人の猫たちに鼻を高くして語れることなのだ。
「そこのサビ柄のキミ、私にコーヒーを淹れてくれないか?」
「は、はい! かしこまりました!」
いくら私が大学を首席で卒業していても、博士からしてみると大したことではないようで、単なるお茶汲みをするお世話係という扱いだ。
反対を押し切り親を悲しませてまで得たのがこれなのか……そんなことを考えながら、研究室に備え付けてあるコーヒーメーカーに、袋から豆をばさばさ投入し、純水を入れたタンクをはめ込んで電源を入れた。
「おい、キミッ! 何やってる!!」
「ひっ! あ、えっ!? コーヒーを淹れてますが」
すごい勢いで博士が私の方に駆け寄ってきた。
私はその博士の真剣な顔に少し胸がドキドキしてしまった。
普段の博士はいつも眠そうな目で数式を眺め、研究以外はまるで無関心で、何を考えているのか分からない。俗にいう肉食系と言われるようなオスの覇気もない。
たまに少年のように目を輝かせて何事かと思えば、現世の偉大な発明家などに死期が訪れ、死者の国にやってくる時だった。
その博士がいつになく真剣な眼差しで、私を見つめているのだ。
この誰もいない広い研究施設で、この私だけをだ。
まるで私の心臓の鼓動が、辺りに響き渡っているようで顔が熱くなった。
それはかけてた眼鏡が、分かりやすく曇るくらいだった。
すると博士は、眉間に皺を寄せてこう言った。
「キミはコーヒーの淹れ方も知らんのか!」
は……?
実に心外だ。私はずれ落ちた眼鏡をくいっと上げ整えた。
「いや、コーヒーメーカーくらい使えますよ!」
「誰がコーヒーメーカーを使えと言った? 上質なコピ・ルアクの豆が台無しではないか! しかもなんだ、豆を挽かずにそのまま入れているではないか! そこにちゃんと器具があるだろう! それを使いたまえ!」
おいおい、普通そんなにムキになる?
そして私が一介の助手とはいえ、女性に対して、すごい剣幕で怒鳴りつけるとか、考えられない。たかがコーヒーくらいで実に興醒めだ。
「すみません……すぐに淹れなおします」
私は過熱を始めてもいないコーヒーメーカーの電源を落とし、投入した豆をゴミ箱に捨てた。
「お、おい! キミ、それまだ未使用の豆だろ! 何故捨てるッ!!」
博士はゴミ箱の前で膝をつき、埃やごみ屑にまみれた豆を見てうなだれた。
「なんてことしてくれるんだ……」
私は正直、そのコーヒー豆の価値は知らない。
そしてそこまで思い入れがあるのであれば、自分でコーヒーを淹れればいいのにとさえ思った。
とほほとゴミ箱の前で、力なくうなだれ嘆く博士を見て、自分に何か新しい性癖のようなものがふつふつと湧き上がった気がした。
私はその姿を見て、実に小気味のいい快感を感じたのだ。
すると研究所の扉が勢いよくバンッと音を立て開き、入り込んだ外気の圧でそこらの机に置いてあった紙がひらりと舞い、開いたままの書籍のページがパラパラとめくれた。
まだ淹れてもないコピ・ルアクの豆の香りが、うっすら漂ったのだった。
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