第十六話:差し込んだ光

 目を開けると、真っ白な自分の部屋の天井がぼやけながら視界の中に現れた。佑太はゆっくりと体を起こす。体はバスケ部のジャージに包まれたままだ。

 夢を見ていた。懐かしい夢だった。

 夢の中で、佑太は雅史と一緒にバスケットコートにいた。通っていた小学校の体育館。しばらく訪れていないのに、その景色は細部までくっきりと再現されていた。

「この音を聞くために、頑張ってんだよなあ俺たち」

 ゴールネットを正確なシュートで居抜き、スパッという音をコートに響かせた雅史が、振り向いて佑太に笑いかけた。ボールを拾い、佑太に向かって差し出した。

「さあ、お前もやってみろ。俺が見ててやるから」

 佑太は夢中でシュートを打った。ただただ、楽しかった。じんわりと心が温かかった。やがて、その夢は予告もなく途切れた。

 準決勝の舞台を降り、会場の体育館を無言で後にした佑太は、黙々と電車を乗り継ぎまっすぐに家に帰った。無言で自分の部屋に上がり、ベッドの上に身を投げ、また泣いた。

 それからどれくらい時間が経ったかは分からない。気付けば眠りの世界の中にいざなわれていた。

 いま、何時なんだろう。

 ベッドを降り、机の上に置かれたスマホを手に取る。

 『10:22』 

 電子画面に表示された四つの数字が、時の流れの中で自分がどこにいるかを佑太に知らせる。

 もう、朝か。

 どうやら一晩中ぐっすりと眠っていたようだ。その数字の列の下に表示されたラインの通知に、佑太は思わず目を留めた。

『鈴村未央:準決勝、何とか勝ったよ。今日はいよいよ決勝。待ってるね』 

 勝ったのか……

 驚きと共に心は少しだけきゅう、と痛んだが、それ以上の感情の動きは生まれなかった。喜ぶべき知らせが、どこか他人事のようにすら感じられた。

 既に自分はその舞台を降りてしまったのだ。もうその場所には帰れない。

 佑太はスマホを再び机の上に置き、ベッドに腰掛けた。

 自分が陥った状況を、佑太はよく分かっているつもりだった。

 イップスだ。

 主にスポーツ選手を襲う、運動障害。突然自分の体を思うようにコントロール出来なくなるその症状は、深刻なパフォーマンスの低下をもたらす。中にはイップスが原因で引退を余儀なくされるプロスポーツ選手もいるほどだ。その要因ははっきりと特定されているわけではないが、精神的なプレッシャーが引き金になることが多いと言われている。

 一年前の全中の決勝、最後の局面で佑太をイップスが襲った。負けたショックも大きかったが、何より自分がその症状を発症してしまったことが佑太を打ちのめした。

バスケから逃げることになったのは雅史の死の影響も大きかったが、自分が状況次第ではイップスになり得るという事実もそれに負けないくらいダメージを与えていた。こればかりは誰にも打ち明けていない、自分だけの秘密だった。

 バスケに復帰するにあたり、その不安がないわけではなかった。だが一年以上の時間が過ぎ、そのときのショッキングな記憶は幾分薄れていた。

 そもそもその症状が出たのは一度だけだ。イップスなどではなく、ただの緊張だけだったのかも知れない。きっと大丈夫だろう。そう思った。実際に自分のその自信の通り、大会では問題なくプレイ出来ていた。

 やっぱり大丈夫だ。何も気にすることなかったんだ。

 佑太はトーナメントを勝ち上がりながら、自信を確信に変えつつあった。

だが、それも準決勝の前半までだった。ヒリヒリする緊張感に包まれた後半、自分の体は徐々に思い通りにコントロール出来なくなっていった。

 情けないだろ、マサ兄。

 佑太は、先程まで夢の中で一緒にいた雅史の顔を脳裏に浮かべた。

『さあ、お前もやってみろ。俺が見ててやるから』

 数年前、雅史の言葉に背中を押されてのめり込むようにバスケを楽しんでいたときには、まさか自分がそのような状態に陥るとは想像もしなかった。

「俺が見ててやる、か」

 思えば自分がバスケで壁にぶつかったとき、常に暗闇の中から救い出してくれたのは雅史だった。しかし、その雅史はもういない。

バスケを再びプレイし始めた今になってやっと、その事実が佑太の頭の中ではっきりとした輪郭を持った。心が鉛のような重みを湛え、重力に引っ張られるように沈もうとする。

 そのときだった。


『お前は、今もバスケを続けているか?


 もし続けているなら、一枚目のDVDを観てくれ』


 先の見えない夜道を歩いているような気分だったそのとき、贈られた手紙の中に記されていた雅史の言葉が、唐突に佑太の頭の中に蘇った。


『この一枚目には俺からのバスケのアドバイスを収めてる。誰よりもお前のプレーを見てきた俺だ、何かしら役に立てると思う』


 一枚目のDVD。

 そのときの自分の状況に合わせて二枚目のDVDを観て以降、すっかりその存在を忘れていた。

 佑太はおもむろにベッドから腰を上げ、机のキャビネットの上から二段目の引き出しを開けた。探し物はすぐに見つかった。

一度はその前を素通りしたディスクを手に取り、レコーダーにセットする。テレビを点け、再生ボタンを押すと、しばらくして雅史の顔が画面の中に映った。背景は二枚目のDVDと同じ、病院の室内だ。


「佑太、久しぶり。元気にしてるか?」

 

画面の中の雅史が喋り始めた。


「このビデオは去年の八月に撮ってます。俺にとっては一年以上先のことになるけど、誕生日おめでとう」


 始まりは二枚目のDVDと同じ内容だった。雅史は佑太に対する詫びの言葉を述べる。佑太は早送りすることなく、前回と変わらない雅史の言葉にじっくり耳を傾けた。


「でも、良かった。バスケ続けてくれてるんだな」


 内容が変わった。佑太の瞳が僅かに揺れる。


「安心したよ。もしかしたらバスケやめちゃうかもしれないって、心配してたからな。これで一安心だ」

 

画面の中の雅史がくしゃっとした笑顔を見せる。


「お前がバスケを初めてからずっと、プレイを見てきた俺から最後のアドバイスだ。まあ偉そうに言っといて何だけど、もうお前のバスケの腕前は俺なんかのアドバイスはいらないくらい立派なものになってるよ。拍子抜けしたか? でもお前はバスケに関しては紛れもない天才だ。特にジャンプシュートなんかは天性のものだよな。フォームも完成されていて、見てて惚れ惚れする。自分のプレイの欠点にも自分でちゃんと気付けるし、毎回毎回それをきっちり克服できるわけだからな。お前を見てて何度も末恐ろしい気持ちになってたよ。ただ……」


 雅史は少しの間を置いて、続けた。


「お前には昔からバスケのスキルとは違う部分ではっきりとした弱点がある。その弱点について、俺なりの意見を言わせてもらう。まあ、ちょっと極端なことを言うから、それを受け入れるかどうかはお前の好きにしてくれ」

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