第十五話:苦い記憶
「リバウンド!」
シュートを放った佑太は声を張り上げた。
ガッ。
ボールがリングに当たって跳ねた。
くそっ。
これで四本連続のミスショットだ。
「うおお!」
柳と高山が一斉に地面を蹴って飛び上がる。落ちてくるボールを掴んだのは柳だった。柳はボールを両手で抱え込んで着地すると、すぐにコートの逆サイドに目をやった。ハーフコート付近で荻田が手を挙げていた。
「いけ!」
柳がボールを思い切り投げる。誰もそのボールの高さに手が届かない。ハーフコートラインを越えて高度を下げたボールを、荻田が受け止めた。まるでラグビーのタッチダウンパスだ。ロングパスを受けた荻田がそのまま無人のゴールにレイアップシュートを決める。
ひっくり返された……
スコアは51対52。後半残り5分を切ったタイミングで、明成は遂にこの試合で初めて西園にリードを許した。流れは完全に西園に傾いている。明成の選手たちの顔には焦りの色がありありと浮かんでいた。
腕を組み険しい顔を浮かべていた鈴村が、おもむろに腕をほどいて審判にジェスチャーで合図を送った。
ピーッ!
審判がホイッスルを吹く。タイムアウトだ。
両チームともに、自陣のベンチ前に集まった。
「どうした、すっかり動きが固くなってるぞ」
鈴村が明成の選手たちに向かって言葉を投げかける。
「焦らずに一本一本確実にいこう。自分たちのプレイが出来れば絶対に大丈夫だ」
「はい!」
鈴村の言葉に一同が応える。その中で一人だけ、細く小さな声で応えた選手がいた。
佑太だ。
「大石、大丈夫かお前?」
思わず鈴村は佑太に声をかけた。佑太は全身にびっしょりと汗をかいていた。その一方で顔は薄っすらと青白さを帯び、表情にもどこか生気が感じられなかった。
「はい……大丈夫です」
佑太は絞り出すようにして声を発した。周りのチームメイトも心配そうに佑太を見やる。
「まだ時間はある。しばらく休むか?」
「いえ、行かせてください……ここで流れを渡すわけにはいかないので」
「……分かった、信じるぞ。だがきつくなったらすぐに言えよ。これは総力戦だからな」
「はい、ありがとうございます」
佑太は口を真一文字に結んだ。タオルで額の汗を拭う。
ここで俺が立ち止まるわけにはいかない。
佑太は必死に自分を奮い立たせた。
ピーッ!
再び審判の笛が鳴り響いた。試合再開だ。佑太はゆっくりとコートに戻った。
明成ボールで試合が再開された。慶太がドリブルでボールを運ぶ。佑太はスリーポイントライン付近で待機した。
タイムアウトでうまく一息つけたのだろうか、慶太は落ち着いた表情を見せていた。何度か味方とパスを繋いだあと、インサイドの高山にパスを通した。
パスを受けた高山はぐいと体をゴール近くに押し込む。そのまま右手でフックシュートを放つ。
バックボードに当たったボールは綺麗にネットを通過した。
「よっしゃ!」
慶太が声を上げる。再び明成のリードだ。
「さすが高山さん、落ち着いてる」
「お前もな。ナイスパスだったぞ」
急いで陣形を整え、西園のオフェンスに備える。西園の流麗なパスがつながる。しかし中には切り込ませない。半ば強いられるような形で放たれたシュートは、リングに弾かれて高山の手に収まった。
「いくぞ!」
高山が慶太にボールを預ける。カウンターだ。佑太もコートを急いで駆け上がる。一人で強引に切り込むと見せかけた慶太から、3ポイントライン前の佑太に鋭いパスが通った。
佑太の前はガランとしている。絶好のシュートチャンスだ。
ここで決めたらでかい……
佑太はボールを掲げてシュートモーションに入ろうとした。
どくん。
佑太の心臓が大きく拍を打った。急なプレッシャーが佑太の体を強張らせた。靄がかかったように視界がかすみ、ゴールリングはまるでドーナツの輪のように小さく見えた。
打て。打つしかない。
佑太は必死に己を鼓舞して床を蹴った。佑太の右手から放たれた3ポイントシュートが、弧を描いて宙を舞う。
入れ……!
佑太の願いも虚しく、ボールはリングの手前をすり抜けて落ちていった。そのままボールはラインを割って外に跳ねていった。リングに掠ることさえしなかった。エアボールだ。
西園の観客席からは嬉々とした声が上がった。一方で明成側はベンチ・観客席ともに重苦しい沈黙が流れた。佑太が滅多に見せることのないエアボールに、誰もが思わず息を呑んだ。
「ドンマイ。気にすんな」
慶太が背中をぽんと叩いて励ましてきた。
「ああ」
佑太はそれにか細い声を返す。これで五本連続のシュートミスだ。しかも直前はエアボール。体が思うように動かない。
佑太はまるで、深い海の底にぽつんと一人でいるような気分だった。
西園のシュートは再び外れた。明成オフェンスに切り替わる。
一本。一本決まれば変わるはずだ……
佑太は自分を見失うまいと必死にもがいていた。ディフェンスを振り払おうとコート内を駆け回る。
「慶太!」
左斜め四十五度の位置でフリーになった佑太は、慶太に向かって声を張り上げた。すぐに逆サイドの慶太から矢のようなパスが飛んできた。
絶対に次こそは。
シュートモーションに入ろうとした佑太の脳裏に、苦々しい光景が走馬灯のように蘇ってきた。
一年以上前の、全中の決勝。佑太の前にはこれ以上ない劇的な舞台が用意されていた。
直前のゴールで勝ち越された竹早中学。残された8秒でのラストプレイは、当然のように佑太の手に委ねられた。
2点差。
延長に入れば勝ち切ることは難しいと分かっていた。佑太は一発逆転の3ポイントにかけた。
残り2秒。
3ポイントライン前でボールを持った佑太はシュートモーションに入った。
視界が揺れた。心臓は早鐘のように鳴った。ボールを支える右腕は、まるで自分の腕ではないようだった。
入れ……!
佑太の痛切な願いを乗せて宙に放たれたボールは、無情にもリングのはるか前方で落下した。佑太たち竹早中学は、全国制覇をあと一歩のところで逃した。
今もまた、右腕の感覚はなくなっていた。視界もかすんでいる。結局、あのときと一緒だ。
佑太の手で押し出された橙色のそのボールは、辿るべき軌道をすぐに外れた。空中でお辞儀をしたボールは、フリースローラインを少し越えた辺りに立っていた柳の手の中に落ちていった。ゴールリングははるか先だった。
西園のカウンター。テンポ良くボールを回し、最後は悠々と藤澤がレイアップを決めた。西園が再び逆転した。沸き立つ西園陣営。
ディフェンスに戻っていた慶太が、前に向き直ると同時に目を見開いて声を上げた。
「佑太!」
佑太は、先ほどシュートを打った位置で両手を突いてうずくまっていた。
すぐに、再度のタイムアウトが取られた。
下を向きながら、呆然とした表情でベンチに戻った佑太は、俯いたまま鈴村にぼそりと声を漏らした。
「すみません、もう、無理です」
「ん……なんだ?」
はっきりとしない言葉に、鈴村は眉根を寄せて聞き返した。
「もう、無理です。選手交代、お願いします」
佑太は少しだけ声量を上げて訴えた。
「大石……」
鈴村は悲壮感に包まれた佑太の言葉に、何も返すことが出来なかった。周りのチームメンバーも言葉を失い、ただその光景をじっと見守ることしか出来なかった。
「……横田、いけるか?」
鈴村は佑太に向けていた視線を、この試合ずっとベンチを温めていた横田に向けた。
「は、はい! もちろんです」
横田は急に巡ってきた舞台に少し戸惑う様子は見せたが、すぐに凛々しい顔を見せ威勢の良い返事を返した。
「頼んだぞ。みんなも、ここが正念場だ。歯を食いしばって戦おう」
横田が佑太のポジションに収まる形で、試合は再開された。
佑太はベンチに座り、タオルを頭からかけてうずくまっていた。自分が投げ出した試合を正視することは出来なかった。やがて、両目にじわりじわりと涙が滲み始めた。
くそ……俺は何も変わっちゃいなかった。
佑太は奥歯をぎゅっと噛みしめた。悔しさが、惨めさが、涙になって目から溢れ出してきた。
「うぐっ」
佑太はタオルに覆われた小さな世界の中で嗚咽した。もう誰の顔を見たくも、思い浮かべたくもなかった。自分だけの世界の中に逃げ込んでしまいたかった。
しばらくすると佑太はベンチから立ち上がり、よろよろと歩き始めた。
「おい、大石」
佑太の不可解な動きに気付いた鈴村が、ゆっくり遠ざかっていく後ろ姿に声を投げかけた。しかし佑太はその声に応えることはしなかった。佑太はそのまま、一度も振り返ることなくコートを後にした。
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