第十二話:光

「ふう」

 未央はドリンクボトルの入ったカゴを地面に置いた。中からボトルを一つ手に取り、目の前の蛇口をひねりボトルの中を洗い始める。練習が終わり、辺りはすっかり夕闇に包まれていた。

 あと二ヶ月か。

 未央はボトルの中面を手でこすりながら思った。容器に弾かれた水滴がジャージにはねる。

 ウィンターカップ県予選までいよいよあと二ヶ月。泣いても笑っても、部の存続のためのラストチャンスだ。このトーナメントを勝ち抜けなかった瞬間、明成高校男子バスケ部はその歴史に幕を降ろす。

 絶対に、負けるもんか。

 この試合にかける想いは実際にプレイする他のどんな選手にも負けないくらい強いはずだ。明成高校に入ってから、常に頭の中にあったのはこの男子バスケ部のことだった。

 ただ、そんな強い想いの火も、不意に心の中を吹き抜ける灰色の冷たい風に煽られ消えてしまいそうになることがある。不安、焦り、孤独。名前を様々に変えるその風は、容赦なく未央の心の中を吹き回る。そしてその風力は、最後のチャンスが近づくにつれますます強さを増していた。

 本当に、勝てるのかな?

 少しでも油断すると、そんな弱い自分がすぐに顔を出すようになっていた。慶太の加入で確かにポイントガードの穴は埋まり、チームの力は格段に底上げされた。しかし、どうしても得点力不足はチームにとって依然解消されない課題だった。このままの状態で、果たして海常に勝てるのだろうか。

「はあ……」

 力のないため息が口をついて出た。未央の脳裏に雅史の顔が浮かんだ。

 どうしよう、お兄ちゃん。私、心が挫けそうだ。みっともないよね。

 ともに病室で涙を流した、二年前の決勝の日を思い出す。手を伸ばせばすぐにでも届きそうな距離にまで、それは近付いていたのに。確かに握りしめたと思った掌の中から、するりと抜け落ちていった全国の切符。思い出すだけで虫唾が走るほど、意地悪く品のない笑みを浮かべていた理事長の顔。知らず知らずのうちに未央の瞳の中はじんわりと潤み始めていた。

 もう、あのときの悔しい思いは繰り返さないって、そう決めたはずなのに。

 未央は濡れた手でジャージの袖を掴み、潤んだ瞳にそっと押し当てた。そのときだった。

「鈴村」

 遠くから自分を呼ぶ声が聞こえた。聞き覚えのある声。未央はその声のする方へ顔を向けた。空っぽになった体育館から漏れる光に照らされながらそこに立っていたのは、佑太だった。

 なんで、大石くんがここに……?

 佑太がこちらに向かって歩いてくる。

「ごめん」

 目先まで近付くなり、佑太は開口一番に謝罪の言葉を発した。呆気に取られている未央に向かって佑太は続ける。

「俺、何も分かってなかった。鈴村がどんな気持ちで俺をバスケ部に誘ってたか、何も分かってなかった。全部、マサ兄から全部聞いたよ」

「え……」

「俺、もう一回バスケやるよ」

 未央は驚きのあまり目を見開いた。佑太の言葉がすぐには信じられなかった。

「次の県予選、絶対優勝してウィンターカップにいこう。海常だろうが、理事長だろうが関係ない。全員ぶっ倒してやろう。マサ兄もきっと見ててくれる」

「大石くん……」

 未央の両目から涙が溢れ出た。その涙は、先ほどまで目に溜まっていたものとは違う涙だった。そう言えば、温かい涙を流したのはいつ以来だろう。ここ数年はずっと悔しい涙や悲しい涙を流してばかりだったような気がする。

「ありがとう。ずっと、待ってたよ」

 未央は涙で濡れた顔をくしゃっと丸め、佑太に向けては初めてかもしれない、一点の曇りもない心からの笑顔を見せた。

「でも、びっくりしたよ。まさか鈴村が、マサ兄の妹だったなんてね」

「ごめんね、隠してて」

「まあ、そりゃ言えないよな」

「お兄ちゃんからも、その話は出すなって言われてたからさ。ちょっと悪いことしてるような気もしてたんだけどね……でも、どうやって私たちのことを知ったの?」

「DVDが届いたんだ。マサ兄が一人で映ってた」

「DVD……」

「病院で一人でこっそり撮ったんだろうね。で、俺の母さんに預けてたらしい。今年の俺の誕生日が来たら渡してくれって。その動画の中で、マサ兄が全部教えてくれたんだ」

「そうだったんだ……」

 未央は、病室で雅史から掛けられた言葉をふと思い出していた。

『佑太を頼んだ。でも、未央がどうしても難しそうだったら、俺も頑張ってみるからさ』

 あのときは何のことを言っているかも分からず、雅史のその言葉は記憶の底に沈むままにしてすっかり忘れてしまっていた。頑張ってみるとは、こういうことだったのか。

「あっ、そうだ」

 未央が弾かれたように声を上げた。

「まだみんな体育館に残ってるから、大石くんを紹介するよ」

「え、いいよそんな急に。気持ちの準備もできてないし」

「良いから良いから。はい、いくよ」

 未央はそう言って佑太の腕を掴み、体育館の扉に向かった。扉を開けると、館内の眩い光が、すっかり外の世界を包んだ暗がりの中に漏れ出た。その光の中に、ストレッチにいそしむ部員たちの姿が見えた。

「みなさーん」

 未央が部員たちに向かって明るい声を投げかける。

「新しい仲間が増えました! こっちに注目」

 館内の部員たちが、おもむろにこちらに視線を向ける。その表情に、徐々に驚きの色が混じり始める。同時にさざ波のようにざわめきも広がっていく。

「はい、こちら大石佑太くんです」

「本当にあの大石佑太?」

「はい、まあ……」

「バスケ部に……入ってくれるのか?」

「お世話になろうかなと、思ってます」

「まじかよ……!」

 佑太の答えを聞き、部員たちは沸き立った。ざわめきが歓声に変わり、驚きの声、喜びの声、その他様々な言葉が飛び交った。その飛び交う言葉の中を縫って、一人の男がこちらに近付いてきた。慶太だ。

「佑太、待ってたぞ」

 慶太が右手を差し出す。「よろしく」と言いながらその手を佑太は握り返した。

「でも、鈴村すげえなあ。どんな口説き文句使ったんだよ」

「私じゃなくて、お兄ちゃん」

 未央はいたずらっぽく笑って見せた。

「は、お兄ちゃん?」

 慶太は一瞬怪訝そうな顔を見せたが、すぐに「まあ何でもいいか」とけろりとした顔に戻った。

「とにかく、俺たちで大暴れしてやろうぜ。海常、ぶっ倒すぞ」

「ああ」

 未央は二人のやり取りを横で見ながらほほ笑み、同時に胸を躍らせた。この二人のコンビはどんなプレイを見せてくれるのだろうか。

 他の部員たちも希望を取り戻したのだろう、その表情は一様に明るい。暗闇の中を皆で宛もなく歩いていたが、ようやく光が差し込み視界が開けたような心地だ。

「絶対、勝つぞ」

 未央は人知れずぎゅっと拳を握り締めた。

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