第九話:それぞれが歩む道

「お疲れ様でーす」

 佑太は扉を開けると、誰ともなしに声を飛ばす。先月から始めたアルバイト。そのバイト先のカラオケ店の更衣室だ。高校での退屈な授業を終えた佑太は、駅前の商店街で少し時間を潰し、シフトの時間の十五分前に店に顔を出した。

 この店をバイト先に選んだ理由は特になかった。強いて言うならば、店舗が帰り道の途中にあって都合が良いこと。それともともと歌が好きで、お金を貰いながら歌を聞いていられるのならラッキーだと思った、という単純ななものでしかなかった。

「おっす」

 更衣室に居合わせた山室やまむろが、ぴっちりとした白シャツを脱ぎながら佑太に向かって声をかけた。

「ども」

 佑太もそれに軽く応える。

 山室はこの店でのバイトの先輩で、今は市内の大学に通う二年生だ。明成高校のOBということもあって、佑太に目をかけて可愛がってくれていた。

 今日はムロさんも一緒か。

 佑太の心が少し軽くなった。まだ仕事を始めて間もない佑太にとっては、山室の存在は非常に心強いものだった。自分が思っていた以上に手際が悪く、ミスをすることも多かった佑太に、山室は苛立ちを見せることもなく丁寧に仕事を教えてくれた。

「どうだ、慣れてきたか仕事」

 山室がロッカー越しに話しかけてきた。

「まだ全然ですね。思った以上に自分が仕事できなくて、ちょっとへこんでます」

 佑太はそう言うと、冗談混じりに小さくため息をついた。

「はは、最初は誰だってそんなもんさ。俺も一年前にここで働き始めたときはひどいもんだったよ」

「え、ムロさんにもそんな頃があったんですか」

「そりゃそうさ。俺、もともとそんな器用なタイプでもないしな」

 意外だった。いつも涼しい顔で淀みなく仕事をこなしている今の山室の姿からは、ちょっと想像もできない。

「自転車に乗るときと一緒だよ。最初はずっこけまくるけど、気付いたらいつの間にか乗れるようになってただろ。乗れるようになったら、何であのとき乗れなかったかもさっぱり分からない。そういうもんさ」

「そうだと良いんですけどねえ」

「心配すんなって。じゃ、俺先いってるな」

 山室はそう言うと軽やかに更衣室から出ていった。



 平日にも関わらず、客の入りは多かった。部屋の扉が開かれる度に漏れ出す歌声が、店内を所狭しと賑わせている。学校帰りの高校生や大学生と思しきカップル。はたまたスーツ姿で一人で入店する男や、きゃっきゃと皆で沸き立っている婦人会など、客層はバラエティーに富んでいた。

 佑太はお盆にドリンクやジャンクな食べ物を乗せ、忙しく店内を動き回っていた。オーダーは引っ切り無しに入ってくる。まだ日の浅い佑太にとっては目の回るような忙しさだった。

「失礼しまーす」

 そう言って305号室に入った佑太は、「え」と声を出して目を丸くした。

「大石じゃん!」

 部屋の中にいたのは葉月だった。

「あ、大石くんだ」

「ほんとだーびっくり!」

 葉月の両隣の女子二人も、佑太の顔を見ると無邪気な声を上げた。ともに同じクラスの、水野萌みずのもえ松本優樹菜まつもとゆきなだ。まさか同じクラスの女子たちに鉢合わせるとは予想もしていなかった。

「あんたバイトしてたんだね、知らなかった」

「今日部活じゃないの?」

「今日はお休みー。だから萌と優樹菜とカラオケいこっかーってなったんだよね」

「そうそう。ちょうど歌いたい曲もあったしね」

「大石くんも一曲歌ってきなよ」

 女性陣は決壊したダムのような勢いで話しかけてくる。

「ばか、いま仕事中なの。そんなことしてたらクビだよクビ」

「えーちょっとくらいバレないよ」

 萌はマイペースだ。

「ダメだよ。ただでさえ今日めちゃくちゃ忙しいんだから」

 萌の言葉を軽くかわしながら、佑太は手に持ったお盆からグラスを取り机の上に置き始める。

「そういえば、大石くん最近溝口くんたちと一緒にいないよね」

 優樹菜の何気ない一言に、佑太は危うく手元からグラスを滑り落としそうになった。

「確かに、そういえばそうかも」

 萌も優樹菜に同調する。葉月だけがどこか居心地の悪そうな顔で座っていた。バスケ部の葉月には事情はよく分かっているのだろう。

「もしかして喧嘩でもしたの?」

「え、まさかー。あんなに仲良かったのに?」

 そんな葉月の様子には気付くこともなく、二人は無邪気に佑太に問いかける。やはり側から見ても自分たちの関係性の変化は明らかなのだろう。

 まあ、そりゃそうだよな。

 佑太は心の中で独り言を言ったのち、口を開いた。

「全然そんなんじゃないよ。あっちはバスケ、こっちはバイト始めて色々生活が変わっちゃっただけだよ」

「そうだよねえ、喧嘩なんかするわけないよね。溝口くんもこの前、大石くんのこと恋しそうに話題に出してたし」

「え、なんて?」

 佑太は思わず尋ねていた。

「わたし溝口くんとたまにラインしてるんだけど、ちょうどバスケの話になったのね。そしたら溝口くん、大石と一緒にプレイしてえなあって言うんだよね。あいつと一緒にバスケができたら楽しいだろうなあって。なんか、片思いしてる男の子みたいで思わず笑っちゃった」

「何それ、溝口くん見た目によらず乙女じゃん。ちょっと可愛いかも」

「でしょでしょ。ていうか大石くんも昔バスケやってたんだね、知らなかったよ。うまかったらしいし、やれば良いじゃんうちでも。大石くんのプレイ見てみたいなあ」

 佑太は黙っていた。見かねた葉月が割って入った。

「まあ、大石には大石のやりたいことがあるんだろうしさ。せっかくの高校生活だしね」

「一度っきりだもんね、高校生活。あっという間に終わっちゃうんだろうな」

「ほんとそれー怖いよねえ」

 萌と優樹菜は大げさに怯えた表情を見せてお互いを見つめ合った。

「悪い、俺もう行くね」

「そうだよね。ごめんね大石、長居させちゃって」

「すっかり忘れてたー! ごめんね大石くん」

「全然。女子会楽しんで」

 そう言って佑太は305号室を後にした。



「ふう」

 佑太は更衣室のロッカーの扉を開けると、短く息を吐いた。やっと自分のシフトの時間が終わった。今日は目の回るような忙しさだった。

 制服を脱ぎながら、今日の自分の働きぶりを省みる。慌ただしく動きながらも、ミスらしいミスはしていないはずだ。当初はドリンクをお盆からひっくり返したり、オーダーを聞き間違えたりといったことがしょっちゅうだった。それを思うと、確かに自分は着実に成長しているのかもしれない。

「お疲れっすー」

 佑太がちょうど高校の制服に着替え終わったとき、山室が更衣室の中に入ってきた。

「お疲れ様です」

 佑太はベンチに座って靴を履き替えながら山室に言葉を返した。

「あれ、大石も今日はこの時間で終わり?」

「そうですよ。ムロさんもですか?」

「俺も今日は上がるよ。そうだ、途中まで一緒に帰ろうぜ。すぐ着替えるから待っててくれよ」

「良いですよ」

 佑太の帰り道の途中には、乗降者数もこれと言って多くはないこじんまりとした駅がある。山室はその駅を利用してバイト先のこの店に通っていた。お互いの終わりの時間が同じときには一緒にその駅まで帰っていた。

「お待たせ」

 ものの五分もしないうちに、山室は手早く着替えを終わらせて佑太に声を掛けた。二人は裏口から店を出て、帰路につく。辺りはすっかり暗くなっていた。佑太は自転車を押しながら山室の横を歩く。夏の夜のひんやりとした冷気が肌に心地よかった。

「めちゃくちゃお客さん多かったな、今日」

「びっくりしましたね。ほんと途中あせったなー」

「でもしっかり対応してたじゃん。今日の大石、頼もしかったよ」

「ほんとですか?」

 佑太は思わず頬が緩んだ。自分でも薄っすら手応えは感じていたが、こうして直接山室に褒められるのはより一層自信につながる。

「そういえば大石って、なんでバイトやってるの? お金貯めてやりたいことでもあんの?」

「いや、特にないんですよ。ってか逆にやりたいことがないから始めてみたようなもんなんで。これといった理由はないんです」

「なるほどね」

 山室が夜空を見上げながら相槌を打つ。

「要は持て余しちゃってるわけだ、自分を」

「まあ、そうかも」

 実際その通りだ。佑太は素直に山室の言葉を受け止めた。

「部活とかもやらないんだ?」

「興味ないですね」

「ふーん。やりたいことがないってのも、何かもったいない気するけどねえ」

「そうですか?」

「まあもちろん人それぞれだと思うけど、俺が高校生だったときは時間がいくらあっても足りないくらいだったからなあ。サッカー部だったんだよ、おれ」

「サッカー部……」

 初耳だった。明成のサッカー部は県下に名の通った名門だ。それだけに練習もハードなことで知られている。同じクラスのサッカー部の連中は、土日もサッカー漬けで休みなんかないと、心なしか得意げな気持ちも仄めかしつつよくぼやいている。スマートで洒脱、ほど良い脱力感を身にまとった山室が、そんなハードな高校生活を送っていたのは正直意外だった。

「大学に入ったらすっぱりやめちゃったけどね。サッカー漬けの毎日で遊ぶ暇もなかったから、キャンパスライフは気ままに自由を謳歌するぞーってさ、そう思ったんだよね。綺麗に反動にやられちゃってんの」

 そう言って山室は歯を見せて笑った。

「良いじゃないですか、自由な暮らし」

「それがさ、いざそうやって暮らしてみるとなんか物足りないんだよな。心の中がスースーする感じ。で、高校時代のこと振り返ると思うんだよな。あー、あのとき俺生きてたなーって」

「生きてたって、今も生きてるじゃないですか」

「いやあ、なんて言うかただ存在するのと生きるのってのは違うと思うんだよ。あんだけきつくて、何度やめたいって思ったかわからないような日々でも、思い返してみると不思議と良いもんなんだよなあ」

 山室は目尻を下げ、目には見えない過ぎ去った時間をじっくり慈しむかのように話している。

「ただひたすらボールを追いかけて走ってた、あのときの真っ直ぐで熱い気持ち。それをまた持てる場所を見つけるのはきっとすんごく難しいんだろうなって、そう思うんだ。まだ二十歳そこらの若造が何言ってんだって感じだけどね」

 佑太は黙って山室の言葉に耳を傾けていた。

「まあなんてーか、それだけ高校時代の三年間って特別な時間なのかなーって、そう思うわけですよ。まだまだ親や学校に縛られて息苦しいところはあるけどな」

「特別な時間かあ。全然実感ないですね」

「当事者ってのは何でもそんなもんだよな。まあそれでほんとに鬱陶しいお節介だけど、大石にもなんか夢中になれるものできたら良いなって、お前の話を聞いて思ったんだ」

「ふーん」

 佑太は曖昧な返事を返す。ヘッドライトを明るく灯した車が二人の横を颯爽と通って行った。

「多分、ムロさんがちょうど過ごしてる大学生活も、大人たちからしたら特別な時間なんでしょうね」

「違いない。みんな無い物ねだりだよな結局。こういうこと考えてると、改めてキリがないな人生って」

「気が遠くなりますね」

「そのくせ、意外と儚かったりもするんだよなあ」

 山室がぽつりとこぼすように言った。「えっ?」と顔を覗き込むように見る佑太に、

「いや、なんでもない。気取ってみただけ」

 と山室は再び柔和な笑みを浮かべてみせた。

 山室の目的地の駅はもうすぐそこだった。



 夏の日の放課後の練習を終え、未央はコート上の用具を片付けていた。周囲を暗がりに囲まれた体育館の中には、もわっとした熱気がこもっている。がらんとした館内に残るその熱気は、この場所でつい先ほどまで白熱した動きが繰り広げられていたことを伝えてくる。

 未央は選手たちが着ていたビブスを小奇麗に畳んでかごに詰め、手に携えて洗濯スペースの方へと向かった。体育館を出ようとしたそのとき、外のコンクリートの通路の方から何やら数人の男子の声が聞こえてきた。未央は扉の裏に隠れ、ひっそりとその声に耳を澄ませた。どうやらその声の主たちは、三年生の宮内みやうち小竹こたけ、そして高山の三人のようだ。

「なんでこのタイミングで、やめるなんて言い出すんだ」

 高山の言葉に未央は目を丸くした。

 やめる……?

 どういうこと……?

「もう三年の夏だぜ、俺たち。受験のことも考えなきゃいけないし、いつまでもバスケやるわけには……」

 宮内が苦しそうに声を出す。その顔は直接見えないが、引きつった表情を浮かべているであろうことは容易に想像がついた。

「でも、ウィンターカップが終わるまではバスケに打ち込むって、そう約束し合ったじゃないか」

「ウィンターカップねえ……」

 宮内はそう言った切り言葉を繋がない。居心地の悪い沈黙が落ちてきた。ややあって、小竹が思い切って口を開いた。

「ぶっちゃけ無理じゃん、あんなの」

「なんだと?」

「本気で県予選で優勝できるなんて思ってるやつ、いないだろ」

「ふざけん……」

「だってそうだろ!」

 小竹は憤りを見せようとした高山を遮った。

「中堅校にだって、勝ったり負けたりの状態なんだぜ? ベスト8や4に入るような強豪校にはてんで手が出ない。ましてや海常なんて雲の上の存在だよ。そいつら全部倒して優勝だなんて、とても本気では信じれない。最近バスケやってて、虚しい気持ちになるんだよ。どうせ勝てやしないのに、なに必死になって汗かいて、息ぜいぜい言わせてんだろって」

 隣でじっと俯いていた宮内も口を開く。

「俺たちだけじゃないよ。これ以上やる意味があるのかって思ってる奴らは他にもいる。みんな、顔や口に出してないだけだよ」

 未央は頭をハンマーで殴られたような気がした。脳がぐるんぐるんと揺れる。

 厳しい挑戦には間違いない。でも、みんな心の中に不安の種は持ちながらも、愚直にバスケに向き合ってくれていると思っていた。しかし、宮内や小竹の口から語られた言葉によって、それは自分が勝手に抱いていたただの妄想でしかなかったことを思い知らされた。

 目の前の二人だけなら、まだ良かった。しかし、「これ以上やる意味があるのかって思ってる奴らは他にもいる」という宮内の言葉は、未央の心をぐいと下方に引っ張り下げた。なかなかうまくいかないながらも一致団結しているチーム像が、頭の中で音を立てて崩れ落ちようとしていた。

「お前ら、景山さんのことは忘れたのか」

 高山が低くドスの利いた声で問いかけた。

「景山さん……」

 小竹が声を震わせる。

「俺たちはあの人に憧れてこの明成高校の門を潜った、そうだろ? あの人が叶えられなかった夢を、俺たちの手で実現しようって誓い合ったことを忘れたのか?」

「いや、もちろんそれはそうなんだけど……」

「あの人に散々面倒見てもらったろ、俺たち。少しでも恩返しようと頑張るのが、筋ってもんじゃないのか」

 二人は高山の言葉に押し黙っている。

「とりあえず、今日の話はもう一回考え直して欲しい」

「……分かったよ」

 アスファルトの通路の上を歩く靴の音が耳に入り、やがて遠ざかっていった。高山が「ふう……」と吐いたため息の音が聞こえてきた。深くて長いため息だった。

 ただでさえメンバーの少ない部活だ。三年生二人が抜けるとなれば戦力的にダメージは大きい。それに、停滞ムードにあるチームの士気に甚大なダメージを与えることにもなるだろう。

とりあえず、その危機は一時的に回避された。だが、それはあくまで一時的なものに過ぎないのだろう。チームは空中分解寸前なのかもしれない。未央の心は、辺りにはびこる夜の暗がりが染み込んだかのように光を失っていった。

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