第八話:先の見えないトンネル
「ファイトー!」
コートの中で真剣な目をしてプレイする部員たちに未央が声をかけた。水川高校との試合から三週間が経過した放課後。ちょうど明成伝統のディフェンス練習の最中だ。固定されたディフェンスメンバーは、ハーフコートでメンバーを入れ替えながらひたすらに繰り返されるオフェンスを食い止めようと必死だ。少しでも緩慢な守備を見せれば監督の容赦ない檄が飛ぶため、気を抜くことは許されない。時間いっぱいまで常に腰を落とし、細かくステップを踏んでコート内を動き回る。ハードなメニューだが、明成の強固なディフェンスはこうして形作られていく。コート上のメンバーは額に大粒の汗を浮かべながらも、集中を切らすことなくボールを追っていた。
体力あるなあ、みんな。
未央はこの練習を見る度に、部員たちのタフさに舌を巻く。自分ならあっという間にギブアップしてしまうだろう。昔から足の速さにはそれなりの自信はあったが、持久力となるとからきしだめだ。校内マラソンではいつも後ろから数えた方が早い順位でフィニッシュしていた。自分はとてもバスケ選手にはなれないだろうなあと、目の前の部員たちの動きを見ながら思う。
その分、自分にできることを精一杯やらなくちゃ。
未央は再び声を張り上げてメンバーにエールを送った。
「よし、そこまで!」
しばらくして、監督の鈴村がコート上の選手たちに向かって大きな声を出した。休憩なしで十分間ぶっ通しでゴールを守り続けた選手たちが、口々に「はあー」と叫びながらコート上にへたり込んだ。
「お疲れ様です」
「ナイスファイト」
未央はすぐさま、労いの言葉をかけながらタオルと給水ボトルを選手たちに配って回る。「あー、生き返る」と声を絞り出し、ごくごくと喉を鳴らす選手たちを見るのが未央は好きだった。何かに全力で打ち込む人間の姿は、無条件で輝いて見えるものだ。
そのとき、ガラガラと体育館の入り口の扉を空ける音が聞こえてきた。未央が音のした方を振り返ると、体育館の中に二人の男が入ってくるのが見えた。
「あれは……」
こちらに近付いてくるその二人は、明成高校理事長の岩澤と副理事長の
どうして理事長と副理事長が?
ハードな練習を終えてタオルで汗を拭いていたとき、心なしかにやついた笑みを浮かべながら歩いてくる二人が目に入り、慶太は不思議に思った。
何せこの男子バスケ部を見限った張本人だ。チームの調子になんか全く関心はないだろう。それなのに放課後の練習なんかにわざわざ足を運ぶとは、いったいどういう風の吹き回しだろうか。
「これはこれは、ご苦労だねえ鈴村先生」
口角を片側だけ上げながら、岩澤が鈴村に向かって声を掛けた。
「どうも」
隣に立った岩澤に鈴村は軽く会釈をする。その顔には笑みはない。
「わざわざ練習を視察に来ていただけるとは思っても見ませんでしたよ」
「いやあ、バスケ部に残されたチャンスは遂にあと一回のみになってしまったからねえ。理事長も私も気になってしまって」
岩澤の横、半歩後ろに立っていた小峰が鈴村に言う。
「そうなんだよ。鈴村先生のこと、五年もあればチームを立て直してくれるはずと信じていたからね。その集大成のチームの調子はどんなもんかと、気になってしまって」
「お陰様で、順調ですよ」
鈴村は前を見据えたまま答える。
「ほう」
岩澤と小峰の顔に嘲るような笑みが薄っすらと浮かんだのを、慶太は見逃さなかった。
「これは心強い言葉だ。この前の県総体ではあっという間に敗退してしまったと聞いていたから心配していたんだよ。だが、最後に期待させてもらえそうだね」
「理事長、楽しみですね」
岩澤と小峰は「はっは」と笑い声を上げた。
「我々は二年前に決勝まで勝ち進み、全国まであと一歩のところまで行きました。十分可能性はあります」
「そうだったそうだった。あのときは本当にわくわくしたよ。いやあそれにしても惜しかったなあ、あの試合は」
岩澤は眩しそうな顔をしながら体育館の天井を見上げた。
「今年こそは、突破してみせます」
「ああ、期待しているよ」
そう言うと鈴村の肩をぽんと叩いて、岩澤は踵を返して入り口の扉に戻っていった。その後ろを金魚のフンのように小峰が追う。
「さあ、練習再開だ。次はシュート練習だ」
鈴村が、張り詰めた空気になった場を仕切り直す。慶太もその言葉に、タオルを置いてコートに戻ろうとする。他の部員たちもぞろぞろとコートに集まる。だが、慶太は一つだけ異なる方向に向けられたままの視線に気付いて思わず足を止めた。未央が、去って行く岩澤たちの後ろ姿にじっと視線を向けていた。その視線は、手をかざせば切り傷ができてしまいそうなほど鋭く思えた。
佑太は駅前のカラオケ店を出て、自転車に跨った。辺りはすっかり夜の闇に包まれ、ビルから溢れる光が道を照らしている。
「腹減ったなあ」
そうぼそっと呟いてペダルを漕ぎ出そうとした佑太は、こちらに向かって歩いてくる少女の顔を見て「あっ」と思わず声を上げた。未央だった。少し俯きながら歩いていた未央の表情は、珍しく曇っていた。佑太の声に気付いた未央がこちらに目を向けた。目が合った二人は、ぎこちない笑顔を見せあった。
「今、帰り?」
未央が先に口を開いた。
「そうだよ。鈴村も?」
「うん。練習終わって帰るとこ。そうだ、良かったら一緒に帰ろうよ」
「……まあ、良いけど」
二人は並んで夜道を歩き始めた。しばらく何となく気まずい沈黙が二人の間に横たわった。
「なんか久しぶりだね、こうして一緒に帰るの」
やはり話の口火を切るのは未央だった。
「そうだね」
佑太は短い言葉を返した。正直、何を話して良いのか分からなかった。
「最近、どう? あんまり話せてなかったから大石くんの状況全然分からなくて」
「今度からバイト始めることにしたよ。さっきのあのカラオケ店で。これから忙しくなりそう」
「へえ、そうなんだ」
未央の声のトーンが少し下がったのが、佑太には薄っすら感じ取れた。
分かった。
佑太は思った。自分は何を話して良いのか分からないわけじゃない。未央が話したいであろう話題に関しては重々分かっていたのだ。でも自分は、その話題には触れたくなかった。そんなどうしようもなくちぐはぐな状況を見て見ぬふりをして、白々しく適当な話題で言葉を交わす気になれなかっただけだ。
再び沈黙の時間が流れる。
「ねえ、大石くんやっぱり私を避けてるよね」
風が吹けば飛ばされていきそうな声で、未央が言った。
「そんなことないって」
「嘘だ」
未央が口を尖らせる。
ふう、と佑太は息を吐いた。
「鈴村と一緒にいるの、正直しんどいんだ」
思わず本音が漏れ出た。返事がないという事実が、少なからず未央の心にダメージを与えたであろうことを示唆する。だが、佑太は言葉を続けた。続けなくては、この際にはっきり言わなければとさえ思っていた。
「鈴村と出会って、バスケへの復帰を考えなかったわけじゃない。でも、結局俺には無理だった。そう分かってしまった以上、鈴村と一緒にいるのは精神的には楽じゃない。何でバスケやってくれないのって、常に心の中で責められてるような気になるんだ。慶太といるときだってそうだよ」
「ちょっと待って……そんなこと思ってないよ」
「それこそ、嘘だ。どうせ、俺のバスケの腕にしか興味ないくせに」
唐突に、未央が佑太の腕をぎゅっと掴んで立ち止まった。佑太は思わず足を止め、未央の顔を見た。
「違うよ! そりゃあ、バスケやるって言ってくれたら飛び跳ねるほど嬉しいよ。でも、そんなのはほんとにちっちゃなこと。バスケなんか抜きにして、純粋に大石くんと仲良くしていきたいって思ってるよ!」
声を張り上げた未央は悲痛な表情を浮かべていた。
「それは溝口くんも一緒のはず。だから、そんな悲しいこと言わないでよ……」
未央はそう言って俯いた。佑太は今度こそ口に出すべき言葉を見失っていた。夜道の上でしばらく押し黙ったあと、ようやく言葉を絞り出した。
「悪い、言い過ぎた……でも、やっぱり鈴村たちと一緒にいるのは今の俺にとってつらいことなんだ」
そう言うと、佑太はゆっくり自転車に跨った。
「ごめん」
佑太はペダルを漕いで前に走り出す。未央の顔は、見れなかった。
未央の心は晴れなかった。
佑太とはそれ以来言葉を交わす機会もなくなり、校内で見かけることがあっても気まずい空気とともにすれ違うのみだった。
どうせ、俺のバスケの腕にしか興味ないくせに。
佑太の言葉は重く心にのしかかっていた。確かに佑太とつながるきっかけはバスケ部への勧誘だった。そのときは、佑太と自分の間にあるのはバスケだけだったことは否定できない。
だが、バスケをきっかけに佑太と少しずつ接していく中で、そのさっぱりと飾らない人柄や空気感に単純に好感を持つようになっていった。佑太と一緒に過ごす時間は心地良かった。気付けば、自然と一緒にいる時間も多くなった。そこには打算も計画もないとはっきり言える。それを、全ては自分をバスケ部に入れるためだと思われているとしたら、悲しいしやるせない。
でも、自業自得だよね。
未央は思う。こういう関係に至る原因を作ってしまったのは自分だ。私がバスケ部を強くする。当初の自分はそのことだけしか考えられていなかった。全ては自分がまいた種だ。
「はあ……」
未央は深く長いため息をつく。
バスケ部。そのバスケ部もまた、今の未央の心に大きく影を落とす存在だった。
一向に、躍進する気配はない。とにかく次のトーナメントを勝ち抜かなければ未来はない。実戦力を磨こうと練習試合は頻繁に組まれるが、結果は振るわない。時には格下と思われるような相手にも足をすくわれることもある。この調子では全国など夢のまた夢だ。
慶太の加入で確かにチームは強化されたが、強豪校と対等以上の試合をするのは到底不可能だ。チームにはやはり、決定的にオフェンス力が欠けていた。
最後のチャンス、ウィンターカップ予選まであと三ヶ月。残された時間を思うと、未央の心は真夏を前にしながらどこまでも底冷えしていくようだった。
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