第五話:バスケットコートで

 慶太がバスケ部だった……?

 体育館を後にし、入り口近くのベンチに腰掛けていた佑太の頭の中では、ずっと須田に告げられた話の内容がぐるぐると渦巻いていた。慶太は一度も、自分がバスケ部に入っていたとは言ったこともなかったし、それを匂わせることもなかった。佑太がバスケ部に入っていたことは知っていた以上、それは明らかに不自然なことだった。何かそこには、その事実を知られたくない、隠しておきたいという意図が感じられるように思えた。

 でも、なんで?

 疑問を深掘ろうとする佑太の目に、未央が体育館から出てくる姿が映った。

 まあいいか、この話は一旦置いておこう。

 佑太は気持ちを切り替えることにした。

「お疲れ」

 佑太はこちらに向かって歩いてきた未央に声をかけた。

「あれ、仲本くんは?」

「用事あるからって、先に帰ってったよ」

 章人は「お前もこのまま帰る?」と聞いてきたが、未央と試合後に待ち合わせをしていた佑太は残って待つことにしていた。

「そっか。試合、ごめんね。ボロ負けしちゃった」

 未央は佑太にちょこんと頭を下げた。

「いや、鈴村が謝ることじゃないでしょ。相手も強豪だったしね」

「御子柴さん、結局止めらなかったなあ。32点だよ、一人で」

 未央は悔しそうな顔をして口を尖がらせる。不覚にもその姿はいじらしく感じられた。

「で、どうだった? 久しぶりのバスケの試合」

 未央はすぐに表情をカラッとした明るいものに切り替え、こちらを見つめながら尋ねて来た。

「うん、面白かったよ」

 佑太は正直な感想を口にした。

「ほんと? 良かったあ」

 未央がくしゃっとした無邪気な笑顔を見せる。

「ねえ、この後何か予定ある?」

「んー、特にないけど」

「じゃあこの後付き合って欲しいことあるんだ」

「え、なに?」

 唐突な話に佑太は少し驚いた。

「まあそれは後で説明するから。じゃあ行こっか」

「チームと一緒に帰らなくていいの?」

「大丈夫、先に出るねってパパに言ってあるから。はい、出発」



 未央に連れてこられたのは、いつも通い慣れている高校だった。休日のため敷地内には人の姿はなくがらんとしている。

「で、結局何するのさここで」

 佑太は隣の未央の横顔に問いかける。未央が目指す目的地には途中から薄々勘付いてはいたが、その目的はさっぱり検討がつかなかった。

「良いからこっちこっち」

 未央に先導され連れて行かれたのは体育館だった。

「なんでここに……?」

「ちょっと先に中入ってて」

 佑太はスニーカーを脱ぎ、靴下のまま体育館の中に入った。日光に一日中照らされた床は暖かみを湛えており、足の裏にひんやりとした冷たさは感じなかった。場内には傾きかけた夕暮れの陽が差し込み、まだ電気を付けなくても十分な明るさは保たれている。

「懐かしいな」

 佑太は誰ともなしに呟いた。コートの中に進み、フリースローラインからバスケットゴールを見据えた。それは久しぶりに見る景色だった。なぜか、中学時代よりもゴールの位置が少しだけ高く感じた。

「おーい」

 入り口から聞こえた未央の声に佑太は振り返った。未央はバスケットボールを一つ両手に抱えていた。

「よっ」

 未央はそのボールを佑太に向かって胸の前から両手で押し出した。チェストパスだ。ダン、ダン、ダンとボールはバウンドしながら佑太に向かって転がって来た。佑太は両手でそのボールを受け取った。

「日本一の実力、見たいなあ」

 少し離れた場所にいる未央が手を口に当てながら言う。佑太は手元のボールをじっと見つめた。色も、手触りも、重さも、目の前の球体の全てが懐かしかった。久しぶりに手にしたボールは、あいも変わらずしっくりと佑太の手に馴染んだ。佑太はフリースローラインに足を合わせた。ボールを両手で掴みながら、少し高く見えるゴールを睨む。

「しょうがないな」

 ゴールを見据えながら佑太は言った。どくん、と心臓が跳ね、鼓膜を震わせる。意を決してボールを頭上に担ぎ上げ、柔らかいフォームでフリースローシュートを放った。

 スパッ。

 ボールは綺麗な弧を描き、リングにかすることもなくネットを通過した。

「さっすが!」

 それを見た未央が歓声を上げた。そのまま小走りでこちらに近づいてくる。佑太は内心でホッと息をつきながらも、余裕のある顔を浮かべてみせた。

「フリースローくらいで大げさだよ」

「でもリングのど真ん中、綺麗にスパッていったじゃん」

「元々シューターだからね。これくらいは」

「ふうん、かっこいいな」

 未央はゴール下に転がったボールを拾い上げる。

「今日の試合はどうだった? 正直、観ててもどかしかったでしょ?」

「……まあ、そうだね」

 佑太は正直な思いを口にした。

「シュートも、パスも、もっとこうすれば良いのにってずっと思ってた」

「そうだよね……うちはやっぱりガードが穴なんだあ。良いシューターと司令塔がいれば、強豪にだって引けを取らないはずなんだけどね」

 未央が手に持ったボールを佑太にパスした。佑太は慌ててそれを受け取る。

「ねえ、またバスケやってみたいって思ってない?」

「……」

「もしその気持ちがあるんだったら、一緒にやろうよ、バスケ。景山さんも、きっと喜んでくれると思うよ」

 未央の目は、凝り固まった気持ちを柔らかく溶かすような、そんな不思議な暖かさを帯びていた。

「コートに戻っておいでよ」

 そう言って白い歯を見せて笑う未央に背中を押され、佑太は自分の心に問いかけた。

 俺、またバスケやりたいのかな?

 しかし、僅かながらも芽生えたその気持は、脳裏にフラッシュバックした記憶にあっという間に押し潰されてしまった。


 弱々しく空中に押し出されたボール。耳をつんざくように鳴り響くホイッスルの音。館内に交錯する喚起と落胆の中、崩れ落ちた自分の肩にそっと添えられる仲間の手。自分の心に薄く滲む悔しさと、その上にどんよりとのしかかる絶望。


 それからしばらく経ったある日、思い詰めたような顔をした母の口から語られた言葉。  

 マサくん、亡くなったって。

 目の前の景色が色を失い、やがて真っ暗になった。しばらく時間の感覚すら失い立ち尽くした。


 また立ち上がれるか? 痛みに立ち向かえるか?

 逆に自分の心に問いかけられる。顔が苦虫を噛みつぶしたように歪む。

 誰のために? 何のために?

 全身から力が抜け、冷たい風が心の中を吹き荒ぶ。

「……ごめん、やっぱりダメだ。コートには戻れない」

 佑太の口から自然と言葉が漏れ出た。佑太はそのまま視線を落とし、ぎゅっと唇を噛んだ。

「そっか……」

 佑太の苦しげな顔を見た未央は、それ以上の言葉を続けることはしなかった。しばらく重たい沈黙の時間が流れた。窓から差し込むオレンジ色の陽の光だけは、何事もないかのように変わらず場内を照らしている。

「ごめんね、嫌なこと思い出させちゃったかな」

「ううん、鈴村は何も悪くないよ。これは俺の問題だから」

「でも……」

「気にしないで」

「うん、ありがとう」

「じゃあ、悪いけど今日はここで」

 佑太はそう小さく言うと、未央の脇を抜けて入り口の扉の方へ歩き出した。自分の背中に向けられる未央の視線は感じたが、佑太は振り返ることはしなかった。振り返ったところで、何が変わるわけでもない。

 佑太はそのまま再びスニーカーを履き、体育館を後にして校門に向かって歩き出した。



 はあ。

 未央は佑太の後ろ姿が扉の向こうへ消えて見えなくなると、視線を落としてため息をついた。

 全く、自分は何をやっているんだろう。

 未央は自己嫌悪に顔を曇らせた。

 自分たちバスケ部のためにも、そして佑太自身のためにも、もう一度佑太にバスケに向き合って欲しい。その一心で粘り強く勧誘を続けて来たが、結局佑太の気持ちを変えることは出来なかった。それどころか、佑太にとって恐らく触れられたくないであろう領域にもズケズケと踏み込み、苦い表情をさせ、気まずい沈黙の時間まで作り出してしまった。

 やることなすこと全てが結果として裏目に出ている。自分の空回りっぷりには苦笑いする他無い。手に持ったボールはずしりと重たく感じられた。

 そのとき、入り口の扉がガラガラと音を立てて開いた。疑問符とともにそちらに目をやると、開いた扉の間に姿を見せたのは慶太だった。

「おっす」

 慶太がこちらに向かってひょいと片手を上げる。

「溝口くん……なんで学校に?」

「今日、この前のテストの補修だったんだ。俺、見事に赤点取っちまったから」

 未央が「あっ」と声を出して申し訳なさそうな顔をした。それを見た慶太はケラケラと陽気に笑う。

「別にそんな顔しなくて良いって。逆にいじってくれなきゃいたたまれねえよ」

 慶太はゆっくりこちらに向かってコートの上を歩いてくる。

「やっと補修が終わって校舎の窓から外を見たら、佑太が体育館から出てくるのが見えたんだよ。それで、休みの日に何やってたんだろって思ってここに来てみたってわけ」

「ふうん、そうだったんだね」

 未央はようやく状況を理解することができた。

「今日、総体の試合あったんだよな? 佑太、観に行ったの?」

「うん、仲本くんと二人で観に来てくれたよ。試合はボロ負けだったけどね。その後私が無理やりここに連れてきたの」

「ほう。鈴村って見た目によらず行動的だよな。体育館でまた粘りの勧誘って感じ?」

「うん、そう。せっかく試合観に来てくれたんだからさ。またコートに立って、ボールに触れて、プレイもしてもらいたいなって思ったんだ。その上で大石くんがどう感じるか、聞いてみたくてね。まあ結局、また振られちゃったんだけどね」

「そっか、なるほどな」

 未央の言葉にじっと耳を傾けていた慶太はそう相槌を打つと、おもむろに手を伸ばして未央の持っていたボールを手に取った。しばらくボールを手の中で回した後、慶太は再び未央に問いかけてきた。

「でも、鈴村って何でそこまでバスケのことに必死なんだ? 前からずっと不思議だったんだよな」

 そうだよね、普通気になるよね。

 これだけバスケバスケと言っていたら、そのような疑問が湧いてくるのは自然なことだろう。いつもは無難な返事でごまかしているが、慶太には佑太と同じく兄の話を含めて打ち明けても良いかもな、と未央は思った。

 未央はしばらく慶太の顔を見つめた後、意を決して口を開いた。

「実はね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る