親愛なるM・Mへ M・Mより愛を込めて

 イギリス、イングランド。

 ロンドンから程近い郊外に、雨に濡れるセント・ミグリアの街があった。

 マーティン・マクドナルドの家は、街のはずれにあった。マーティンは朝早くから起き出して、庭先に置いた愛車に雨除けのカバーをかけていた。675ccのトライアンフ・デイトナは、車を買うべきだと言う両親の意見を押し切って、割賦で購入した宝物だった。どこへ行くにもこのバイクを駆り、休日には恋人とタンデムを楽しんでいた。

「お早う、マーティー」

 隣の家の庭から、ブロンドの美しい髪をした女性が彼に声を掛けた。マーティンの交際相手、キャス・ジェファーソンだ。赤い傘をくるくると回しながら、マーティンのそばに駆け寄った。マクドナルド家とジェファーソン家の庭は隣り合っていて、柵も囲いもなかった。

「やあ、C・J。もう、出掛けるの?」そう言ってマーティンは傘を差し出すキャスの顔を覗き込む。

「…今日も、綺麗だね」そのまま、キャスを傘の中に引き入れた。

「ありがとう。あなたも…」

「カッコいい、かい?」

「ふふふ、素敵よ。びしょ濡れで」

 キャスはマーティンの頬を拭い、マーティンはキャスを引き寄せた。

 二人は傘の下で、少し長めのキスをした。

「出掛けるのはお昼過ぎよ。その時間じゃないと、まだ書類が届いてないらしいの」

 彼女はマーティンより一つ年上の19歳で、ロンドンの大学でヨーロッパ史を専攻していた。明日から三週間、イタリアのローマに研修に行くという。明日の朝、空港で見送ることになっていた。

「もう明日なんだね。三週間も君に会えないなんて、僕、寂しくてどうかしてしまいそうだよ、C・J」

「ああ、マーティー。あたしもよ。毎日、電話する」

「うん。僕もするよ」

「ねえ、おばさんへのプレゼント、ちゃんと買った?」

「まだ買ってない。今日、買いに行くつもり」

「今日買いに行くって…。パーティーは今日よ?」

「わかってるさ、ちゃんと間に合うように買うよ」

「もう…。あたしは、ちゃんと買ってあるんだから。それと、ママが七面鳥をオーブンで焼いてるわ。あなたの好きな、サーモンのムニエルもね」

「すごいね。母さん、喜ぶよ」

 マーティンが喜んでそう言ったとき、ジェファーソンの家の庭から、少年が走ってきた。

「お姉ちゃん。ママが、朝ごはん作るの手伝って、って」

 少年は女性用のワンピースを着ている。マーティンは、また何かにかぶれたな、と思った。

「ちょっと、マイケル!あたしのワンピースじゃない!脱ぎなさいよ」

「わかったよ、でもちょっと待って」

「待てない、ほら、びしょびしょじゃない!もう」

 キャスがマイケルの背中を押す。マイケルはマーティンを見て、マーティー、お早う!と言った。マーティンがお早う、あんまりお姉ちゃんを困らすなよ、と返すと、

「今、二人でキスしてたでしょ!」

 とマイケルは大きな声で言った。キャスがマイケルの頭を叩く。マイケルは、また、あとで行くよ!と叫びながら家に入って行った。マーティンは苦笑しながら手を揚げて答え、家に入った。


「ねえ、マーティー。『魔女裁判』って知ってる?」

 マーティンの家に入るなり、マイケルは真剣な顔をして聞いた。彼は着替えてからすぐにやって来た。今度は別の、フードのついたニットのワンピースを着ている。マーティンは笑いながら、よくは知らないけど、と答えた。

「ヨーロッパで、16世紀くらいにあったんだって!魔女を、見つけて処刑するんだ」

 子供特有の無邪気さで、彼は上気して話す。マイケルは7歳で、姉の影響もあってか、ヨーロッパの歴史に興味を示した。自分で本を探し出してきては、いつも読み耽っていた。特に、中世の、百年戦争や十字軍などが好きなようだった。そして、魔法や精霊の存在を信じ込んでいた。今日のおかしな恰好も、きっと魔法使いの真似事だろう、とマーティンは思った。

「魔女狩り、ってのはな、あれは民衆の集団ヒステリーなんだぜ。一種の弾圧と迫害さ」

 マイケルは、わからない、という風に首を傾げる。

「とにかく、あの頃はまだ科学が発達してなかったから、みんな不安だったのさ。何か災いが起こった時、それを究明できる力がなかったから、悪魔や魔女のせいにしたんだ。でも、そんなの本当はどこにもいない、それで、沢山の普通の、貧しい人たちが疑いをかけられて犠牲になったんだよ」

 マーティンは、悪魔なんて本当はどこにもいない、いるとしたら、それは人の心の中だ、と続けようとして、やめた。マイケルにはまだ難しいことかも知れない。

「じゃあ、悪いことだったんだね」

 マイケルは肩を落とす。

「今から思えば、な。でも、その頃はそれが、正しいことだと思われてたんじゃないかな」

「魔法は、ないのかな」

「ないさ。今まで生きてきて、魔法見たことあるかい?」

「ない」

「それよりさ、マイケル。これから、母さんのプレセントを買いに行くんだけど。行くかい?」

「バイクで行くの?」

 マイケルは目を輝かせる。

「いや、雨だからね、バスで行くんだ」

 マイケルは、なんだ、と言ってつまらなさそうな顔をした。

「行かないのか?」

「行くよ」

 そう言ってマイケルは自分の恰好を眺めた。


 2015年2月20日。

 母の48歳の誕生日は明日だったが、今日が日曜だということと、明日からキャスが旅立つこともあって、パーティーは一日繰り上げられた。

 マーティンは母のために100ポンドもする傘をアルバイトで貯めたお金で買い、キャスには餞別として斜め掛けの小さなバッグを買った。ローマは引ったくりが多いらしいからな、とマーティンが言うと、お姉ちゃんなら追っかけて退治するから大丈夫だと思うよ、とマイケルは答えた。

 帰りに本屋に立ち寄り、マイケルが心を奪われた『魔法の書』なる本を買ってやり、家に着いた。着いた瞬間、マーティンは庭になんだか違和感を感じた。マイケルも同じだった。

「…ねえ、マーティー。ここにこんな木、あった?」

 大きなプラタナスの木だった。

「いや…ないよ」

 絶対に、ない。どういうことか、さっぱりわからなかった。

 プラタナスの根元の、30センチ上の辺りに大きな穴が開いていた。マイケルは、すごいや、中に入れるよ、僕の隠れ家にしよう、と言って覗き込み、

「ここに何か書いてある」

 と言った。マーティンもそれを見た。木に、ナイフか何かで文字が切りつけてある。


『親愛なるM・Mへ。この扉より我らの世界に通じ、憂いの民に救いをもたらすべし。M・Mより 愛をこめて』


「M・Mって…。マーティーのことかな」

「さあ…」

 マーティンが答えに窮していると、マイケルは何の躊躇もなく、穴に入ってしまった。

「わああああああ!」

 マイケルの、叫び声がした。

「マイケル!」

 マーティンはしゃがみ込んで中を見た。いない。身を乗り出して覗き込む。上か? 下か?

 いない!

 どこへ行った?

「マイケル!」

 顔を突っ込んで名前を呼んだ。答えがない。ぞっとした。マーティンは立ち上がり、周囲を見回す。いつもの、庭だ。変わり映えのしない、いつもの庭だった。マーティンは意を決した。穴に潜り込む。マイケルには穴は少し小さかったが、入れないことはなかった。傘を捨て、鞄を抱えこんで、穴に入った途端、暗闇が四方から襲ってきた。

「うわああああああ!」

 ……

 ……

 ……なんだ、こんな小さい子供が?

 ……この子が、『救世主』なのか?

 ……

 ……


 闇のどこかから、声が聞こえる。


 …君、名前は? 名前は何という?

 ……

 ……

 ……マイケル


 マイケルだ。どこにいる?


 ……マイケル・ジェファーソンだよ

 ……ジェファーソン? Jだと?

 ……なぜだ? どうして、ジェファーソンなんだ?

 ……どうして、って……生まれた時からジェファーソンだよ。

 ……そんなはずはない! この子は違う!

『救世主』はM・Mのはずだ!

 ……迷い込んだのでしょうか?

 ……

 ……

 マーティー!

 ……マーティー! 助けてよ! 助けて…!


「……マイケル!」

 光が見えた。暗闇が、開ける。


「マイケル!」

「マーティー!」

 マーティンは、木の穴から飛び出した。マイケルが、いた。

「……はあっ。はあ、はあ!」

 何かに、きつく包まれていたような感じだった。息が上がっていた。

「二人?」

「どうして、二人も出てくるんだ」

「とにかく、『雨除け』を」

「わかりました」


 誰だ?


「マイケル、大丈夫か?」

 マイケルは怯えたような顔していたが、それでも、こちらをしっかりと見、強く頷いた。マーティンは少しほっとした。

 マイケルの後ろに、男が二人立っていた。中世の、近衛兵のような恰好をしている。

「誰? うちの庭に、なんか用ですか」

 マーティンは訝しく二人を見て、吐き捨てるように言った。

「…君、名前は何という?」

 二人の男はマーティンの質問には答えず、年輩の方が口を開いた。失礼なやつだ、と思った。

「名前? 名前を聞くときは、自分が先に名乗るもんだろ」

 男たちは顔を見合わせる。

「……そうか。失礼した。私の名は、エドワード・ルシール。こっちは……」

「僕はグランス・ロイネットです。失礼しました」

 二人は揃って、丁重に頭を下げる。

「……マーティン・マクドナルドです」

 名乗った途端、男たちは驚いて目を見合わせた。

「あなたが! M・Mは、あなたでしたか!」

 何のことだかさっぱりわからなかった。

「じゃあ、この子供は……」

「やはり、『救世主』が扉に入る前に、迷い込んだのでしょう」

「彼は、僕の友達です。今まで一緒にいたんだ。それより、あなたたちは何ですか? 僕のうちに何か用?」

 グランスという男が、顔を真っ直ぐに見て言った。

「マーティン・マクドナルド殿。48年間、あなたを待っていました。ようこそ、お越し下さいました。あなたは、この国の、『救世主』となる方です」


 ……救世主?

 そう言えば、なんだっけ。

 何か、書いてあったぞ。

 憂いの民を、救うべし、だっけ。


「なんのことです?」

 マーティンは困ってしまって両手を上げた。グランス、と名乗った男が、ルシールの言葉では事態を全くつかめていないマーティンに、助け舟を出した。

「あなた方は、あなた方の世界に現れた、この木を見たはずです」

 マーティンとマイケルは振り向く。金色に輝く、プラタナスだった。マーティンは驚いて言った。

「いや、こんな木じゃない。鈴なんか、かかっていない。確かに、」

 そう言って、マーティンは耳を疑った。

「……あなた方の世界? どういうこと? ここは、どこなんですか?」

 グランスが、壁だけになったテントを払いのけ、周囲の景色が現れた。

 森の中だった。

 家がない。

 庭もない。

 キャスの家もない。道路も、向いのジョースターさんの家も。

 ただ、木があるばかりだった。マーティンはわけが分からなくなってしゃがみ込んだ。

「あなた方の世界に現れた木がどんな姿をしていたか、我々も知りません。しかし、あなた方はこの穴に入った。そして、『結界の穴』を抜けて、我々の世界へ来たのです。この木は、48年に一度、『救世主』をこの世界に迎え入れるための、扉なのです。マーティンさん、あなたは、選ばれた。……いや、生まれたときから、ここへ来る運命にあったのです」

 マーティンは呆然として聞いていた。自分のことのような気がしなかった。マイケルを見る。マイケルは、ひどくしかめっ面をしながら、こちらを見ていた。

「じゃあ、マーティーはこの世界を救うんだね。すごいや!木に、書いてあったじゃないか」

 なんという、柔軟性だろう。子供の無垢さにマーティンはついていけず、目頭を押さえる。

「…信じられない! 何を言ってるのか……わかりません!」

 マーティンは木の周りを回ってみた。やはり、家などどこにもない。四方は、どこを見渡しても、森だった。

「とにかく、マクドナルドさん。行きましょう。お連れ致します」

「……行きましょうって、どこに?」

「我が国の、女王陛下に謁見が許されています。我々は、あなたを陛下のもとへお連れすることが任務なのです」

「エリザベス女王に?」

「……それは、『外界』の王室の話ですか。そうではない。我が国の、女王陛下です。ハー・ロイヤル・マジェスティ・ジャムステッドです」

「ジャムステッド女王……」

 マーティンはあまり知識のない、自国の王族の名前を思い浮かべたが、ジャムステッドという名前は一つも出てこなかった。

「ねえ、マーティー、僕たち、タイムスリップしたんじゃない? 何だかこの人たち…中世の、人たちじゃない?」

 マイケルは次第に元気を取り戻し、事態を収拾しようと勝手に想像を膨らませている。

 冗談じゃない。タイムスリップなんて、今の世の中にあるもんか。

「……すみません、今日は、何年何月何日でしたっけ」まさかと思いながら、恐る恐る聞いてみる。

「今日? 2015年、2月20日ですが」グランスが答える。やはり。

「そうですか」

 少しほっとして、マイケルと目を合わせる。マイケルはしきりに首を傾げた。いや、ほっとできるような事態だろうか? 時間的には同じでも、今僕たちは、どこか全く別の場所にいるのだ。帰らねばならない。帰らねば。

「僕たち、帰ります。行こう、マイケル」

 マイケルの手を引き、木の穴に戻ろうとして、愕然とした。

 穴がない。

「あれ? 穴がないぞ」

 二人の男も驚いた。

「穴が……消えてる」

 マーティンとマイケルは木の周りをぐるぐると何度も回ったが、穴はすっかり消えてなくなっていた。いつの間にか、鈴も消えていた。そこにあるのは、ただのプラタナスの木だった。

「どうして? 僕たちは、帰らなくちゃならないんだ! 今日は母さんの誕生日パーティーがあるんだよ! それに、明日はC・Jを空港まで送らなくちゃならない!」

「マクドナルド殿、もうあなたはあなたの世界へは戻れない。扉を抜けた『救世主』が、自分の世界に戻ったという歴史は、一度もありません」

 その言葉に愕然とした。戻れない? 戻れない? 何度も、その言葉の意味を自問した。

「とにかく、ここにいても仕方がない。さあ、王宮へ戻りましょう」

 戻る? 僕の戻るべきはそんなところじゃない。

「待ってくれ! もう、わけがわからない」

 マーティンはしゃがみ込んでしまった。

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