すずかけの扉と死の呪い

射矢らた

 雨脚は確実に強まっていた。

 広く大きな森の中に、白いカンバス製のテントがひとつ、張られている。

 テントの外には若い男がひとり立ち、辺りを見回している。雨は男を包み込んで捉えていたが、彼の身体は濡れていなかった。小一時間彼はそうしてぼんやりとして、その場に座り込み、煙草を燻らせ始めた。他にやることが何もないらしく、彼は自分の両の手のひらを見詰めて、長い溜息をついた。

 しばらくして、馬車の近づいてくる音が聞こえ、若い男は立ち上がった。馬車はテントの入り口まで来て止まった。

「やあ、遅かったじゃないですか」

若い男は煙草を傍らに投げ捨てて言った。煙草の火は、すぐに雨で消えてしまった。

「すまんな。ばあさんの支度に手間取っちまって……。ご老人は身なりが気になるんだとよ」

幌の下から顔を出してそう言ったのは、髭面の年輩の男だった。手に鞭を携え、馬車から降り立った。

「さ、クレアばあさん、降りられるか?」

 年輩の男は幌を少し上げ、中を覗いた。大丈夫よ、と言ってゆっくり腰を上げたのが、クレア=ジルロレンスという老婦人だった。彼女は64歳で、この国の最高齢の女性だった。足が悪いらしく、ずいぶんと難儀をして馬車を降りた。男たちが両脇から彼女を支える。馬も、老婦人も、男たちも、確かに雨に降られているが、濡れてはいなかった。

「邪魔だよ、大丈夫だったら。あたしゃまだまだ生きられるんだ。ほら、若いアンタ、中から杖を取っておくれ」

 クレアは馬の尻にもたれかかるようにして体を支え、若い方の男にあごで指示した。若い男は、ああ、はいはい、と答えて馬車に飛び乗る。はいは一回でいいんだよ、一回で、とぶつぶつ言いながら、彼女は杖を受け取ってテントの入り口へ歩き出した。

 テントの中はそれほど広くはなかった。外は冬の大雨だというのに、中は静かで暖かだった。

「おや、『温暖』と『静寂』がかかってるね。気が利くじゃないか」

クレアは奥まで進み、持参した携帯用の蚊帳を組み始めた。

「何してるんです? ジルロレンスさん」

若い男が怪訝そうに尋ねる。

「ええ? へへへ、これがないとね、あたしゃ死んじまう」

余計にわからなくなって、若い男は年輩の顔を見た。

「『救世主』に顔を見られると、ばあさんはその場で頓死、らしいぜ」

「それ、本当なんですか?」

「本当さね。『救世主』に2度以上、顔を合わしちゃいけないらしいからね。あたしゃ、ここから拝むとしよう。ああ、くわばらくわばら」

クレアが蚊帳を締め切ると、蚊帳は透明になって見えなくなった。

「おいおい、『不可視』の魔法までかかってるのかよ。ご丁寧なこって。……ばあさん。アンタ『救世主』が来るまで、ここにいるつもりかい」

「悪いかね。……ま、疲れたら、またいっぺん家に帰らせてもらうさ。いいね?」

 男たちは顔を見合わせる。年輩の男があきれたように両手を上げて、お手上げのポーズをした。

「ばあさん、まあ、好きにしてくれればいいけどな、いつまでもよ。で、いつ来るんだ?『救世主』とやらは。俺たちここに居座り続けて早や二か月が経つぜ。本当にこの森なんだろうな?」

「そりゃあ、間違いないさ。アタシん時も、その前も、そのその前も、この『贖いの森』さ。木はきっとこの森のどこかに生えてくる」

「けどジルロレンスさん、こんな森の中で、どうやってその木を特定するんです? ちっちゃい鈴がかかってるくらいじゃ、何の目印にもならないでしょう?」

若い男は言い、その後ろで年輩が首肯した。

「ははは。アンタらは『すずかけの樹』を見たことがないからわからんのさ。心配せんでええ。木はすぐに見分けられる」

 男たちはやはり顔をまた見合わせ、互いにため息をついた。

 結局、その日は何も起こることなく、冷たい夜が来た。


 蚊帳のあった場所から高いびきが聞こえる。男二人はカンテラの火を絞って雑魚寝で煙草をふかしていた。

「ルシール隊長」

「おい、その隊長ってのやめろ。自己嫌悪で死にたくなる。何が悲しくってたった二人だけで隊長を名乗らにゃならねえんだ。隊員はお前しかいねえじゃねえか、グランス」

「わかりました。じゃあルシールさん、本当に来るんですかね」

「来る、だろうな。間違いなく。もう十回も、一度もお休みせず来てくれてるらしいからよ。ご丁寧なこった。だが、そいつが来て何になる。500年間、この国は結局救われないままだぜ? 疑問だよ。俺には『救世主』が、『追っ手』に思えてならねえ。お前も、過度の期待はせんことだ」

「たしかに、何度『救世主』が来たって、この国の『呪い』は解かれていません。ただ、希望は、持ちたいと思っています。いつか、誰もが長生きでき、忘れることのない世界になったら……。夢物語でしょうかね」

「そりゃ、俺もそう願いたいさ。……明日、カミさんの誕生日会なんだ」

「よ、48歳になられるんですか、奥さん」

「そうさ。ついに、48だ。長かったような、短かったような……。もう、会えなくなると思うと、寂しいもんだな」

 ルシールは目を瞑って黙り込んだ。グランスは、何を答えたらいいか、迷った。

「自分、自分も明日、挨拶に行かせて下さい。是非」

「いや。済まないグランス。お前は、明日もしっかり木を見張っていてくれないか。『救世主』のご入来を逃したとあっちゃ、俺たちの面目が立たねえ。気持ちは嬉しいし、申し訳ないと思うんだが」

「……そうですか。わかりました、自分は任務を全うします。ルシールさんは、明日一日、奥さんとゆっくり過ごしてあげて下さい。ご冥福を、ここからお祈りしてます」

「ありがとうな。まあ、俺も、すぐに『忘れる』さ。5月には48だ」

「……そうでしたね」

「この呪いも、皮肉なもんだよ。まるで、家内の死を忘れさせてくれるかのような、そんな気さえするんだ。グランス、お前も結婚するなら、少しだけ年上のカミさん貰え。そうすれば、死に際を看取ってやれるし、そのあとすぐに、悲しみを忘れ去ることができる」

「はい」

「誰もが長生きでき、忘れることのない世界か。そんな世界に、いつかなればいいがな」

「はい」

 ルシールは黙っていた。グランスは、彼が押し殺すようにして、泣いているのだと気付き、胸がそわそわして、ルシールに背を向けるように寝返りを打った。その時だった。

「うおっ! 何だ?」

 ルシールが突如叫んだ。慌ててグランスがまた寝返りを打つ。何ということだ。二人のちょうど間の床が、ゆっくりと盛り上がっている。何かが、大地からせり上がってきているのだ。

「な、なんですか、これ?」

「わかるか、そんなこと! おい、ばあさん起こせ、逃げるぞ」

 言われるが早いか、グランスは蚊帳のあった空間を前に『可視』の呪文を唱える。すぐに蚊帳が現れた。

「ジルロレンスさん! 起きて! ジルロレンスさん!」

グランスは叫んだが、クレアは、

「うん? 何だよ、まだ暗いじゃないか」

と言うだけだった。

「まずいぞ」

グランスは床を見た。床はもう膝の辺りまで盛り上がっている。床の布はたくし上げられてしまって、テントは今にも崩壊寸前だ。

「おい! ばあさんは?」

「起きません!」

「バカ!」怒声が飛ぶ。

「寝たままでもいい、担がんか!」

「は、はい!」

 瞬間、シャリン、と音がした。音はいくつも重なっていた。シャリン。また!

「鈴だ! 鈴ですよ! ルシールさん!」

「なに?」

「鈴のおとだ! この中からだ!」

 二人が同時に床に目を向けた瞬間、床のカンバス地がバリバリッと音を立てて破れた。シャリン、シャリン、シャリン、シャリン。

鈴!

 鈴!

 無数の、金色に光る鈴!

 枝という枝に鈴を吊った木が一気にその幹を伸ばした。二人が見ている、その間で、一気に木が伸びた。テントの天井を突き破り、激しい雨が降り注いだ。カンテラが床に落ちて割れ、灯りが消えた。暗闇の中、ひゃああ! 冷たい! と、クレアの叫ぶ声がした。二人は動けなかった。月明かりの中で、ただ、呆然、唖然、なす術なにもなく、立ち尽くす。ルシールが我に返って『燈火』の魔法をかける。辺りがぼんやりと明るくなり、木の姿が暗闇に浮かび上がった。これが、すずかけの樹! 伝説の、すずかけの樹! その樹高、およそ10メートル、大きな青い葉をつけ、そして、数えきれないほどの、金色に光る鈴、鈴、鈴!

「す、すずかけの、樹だああああ!」クレアが叫び、慌てて蚊帳に『雨除け』の魔法をかけ、中に駆け込んだ。

 『すずかけの樹』は、大小の無数の鈴を枝に吊るしていた。雨と風が枝を揺らし、鈴は鳴り続けた。ルシールとグランスはめいめいに『雨除け』をかけたあと、動かなかった。

 しばらくの間、何も起こらなかった。

 根元から約30センチの辺りに、大きな真っ黒い穴が開いていた。ふとグランスが近づこうとした瞬間、穴から幼い少年が転げ出してきた。

「うわあ! 冷たい!」

 少年はクレアと同じような反応を見せ、また木のうろに駆け込んで、二人の男と目が合った。少年は訝しげに男たちを見ている。ルシールとグランスは驚いて目を見開いたまま、顔を見合わせた。

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