もっと遠くへ
「いやだ、ぼくは、ずっと、ここにいるんだ。」
冬の身を切るような寒さは、もうすっかりどこかへ行き、春の暖かい風が吹き始めた頃のお話です。どこまでも続いて行きそうな草原を、ポカポカと太陽の光が包んでいます。誰でも自然に、優しくてあったかい気持ちになってしまいそうな季節の片隅のどこかで、タンポポの綿毛の泣いている声が届きました。
「おかあさんとはなれたくないよ。
ひとりでどこかへいくなんて、こわいよ。」
百以上の兄弟は、さっきまでの風に乗って、もう既に、お母さんタンポポの元を巣立っていったのですが、最後の綿毛はひとり、お母さんにくっついて離れようとしません。
「大丈夫、勇気を出して飛んでごらん。きっと素敵な世界が待っているわ。」
お母さんタンポポは一生懸命に説得しています。さっきまで、たくさんの綿毛がついて、ふあふあだったお母さんタンポポは、子供達が旅立って、見た目も少し寂しそうです。それでも、子供達の旅立ちを応援することは、お母さんタンポポの大切な役目なのです。
「さあ、大丈夫よ、楽しいことでたくさん溢れているよ。いきなさい。」
お母さんタンポポは応援しています。それなのに、ちょっぴり声が潤んでいるように聞こえます。お母さんタンポポは役目を果たそうと頑張っていますが、やっぱり少し寂しいのです。本当は、自分の元を離れたりせず、ずっと側で見守っていてあげたいのです。でも、お母さんタンポポは、綿毛たちを外の世界に羽ばたかせてあげなければならないのです。たくさんの世界を知って、数え切れないくらいの経験をして、素敵な大人のタンポポになってほしいと、願っているからです。だから、お別れはとても悲しいけれど、お母さんタンポポは綿毛の背中を押してあげるのです。
「いやだよ。どこへいっちゃうかわからないし、それに、ここじゃない、しらない世界には、こわいものがたくさんあるって聞いたもん。」
「にんげんという、おそろしい生き物に、ふみつぶされたりするんだって。」
「ばくだんが空からふってきて、やかれてしまうんだって。」
「ちじょう、につけなくておぼれてしまうかもしれないんだって。」
「そんなのいやだよ。だからぼくはずっとここにるんだ。」
最後の綿毛は、どこからか聞いてきた噂で怯えています。自然の世界は厳しいのです。遠くの海から、暖かい潮風がそよそよと吹いてきました。綿毛は飛ばされないように、必死で踏ん張っています。お母さんタンポポは優しい声でお話を始めました。
「ねぇ、よく聞いてね。あなたが、どうしてもここにいたい、と言うなら、私は何も言わないわ。それがあなたが選んだことなら、私は応援するわ。」
「でもね。世界はここだけじゃないのよ。私もたくさんの世界を見てきたわ。どこまでも続いている、大きなしょっぱい水たまりがあったり、水も緑もなくて、砂だけが広がっていたり、真っ暗な夜に突然、光のカーテンが現れたりしたの。」
「確かに、あなたの言うように、外の世界は、恐ろしいことでいっぱいかもしれない。でも、それ以上にきっと、あなたが何百人いても想像できないような、美しい景色や、嬉しいこと、楽しいこと、素敵な出会いや喜びで溢れているわ。」
お母さんタンポポは続けます。
「私もたくさんの世界を見てきたけれど、素敵なことも、辛かったことも、悲しいことも、全部、今となっては美しい思い出になっているの。私がこの場所にたどり着いたのは、もしかしたら、ただの偶然かもしれない。けれど、この場所で、毎日、朝日が眩しくて綺麗だな、って思ったり、春風を幸せに感じられたりするのは、そんな素敵な思い出があるからなのよ。」
お母さんタンポポの言葉は、綿毛には、全部まではまだよく理解できません。理解はできないけれど、少しずつ、少しずつ、綿毛の中に、勇気が送り込まれてきます。
「知らない世界を知るって、凄く素敵なことよ。あなたにもね、私のように、いいえ、私以上に、素晴らしい経験をたくさんしてほしいの。そうして、煌めくような人生を送ってほしいの。」
「ずっと頑張る必要はないのよ。辛くて、もう一人では歩けない、という時は、少し立ち止まって見たら、きっと何処かで、あなたを支えてくれる優しい風が吹いているのよ。」
「・・・ぼくにも、できるかな。」
「あなたならきっと大丈夫。」
綿毛は空を見上げました。さっきまでは怖くて仕方がなかった、果てしなく続く広い空が、少し自分に近づいたような感覚になりました。
「しらない世界、みてみたい。」
もう、大丈夫です。お母さんタンポポの言葉で勇気をもらった、不安だった綿毛の声が、たくましくなったのがわかります。
「ぼく、おかあさんのしらない世界をみて、たくさんたびをして、ここに帰ってくるね。そうして、たくさんのおはなしを聞かせてあげる。」
「ええ、楽しみにしているわ。さあ、行ってらっしゃい。」
「いってきます!」
丁度、遠くの方から優しい風が吹いてきて、タンポポを撫でました。その風に、綿毛は軽やかに飛び乗りました。そうして、風に乗って、ぐんぐん空へ向かって飛んでいきます。お母さんタンポポはみるみる小さくなっていきます。綿毛は、お母さんタンポポにも聞こえるように、大きな声で叫びました。
「おかあさん、ぼくとべたよ!たくさんのことをおしえてくれてありがとう、ぼく、がんばるから!おかあさん、いつまでもだいすきだよ!」
綿毛の立派な姿を見て、お母さんタンポポは涙が止まりません。綿毛の言葉に、答えるように、お母さんタンポポは体を揺らしました。誰にも聞こえないように小さく、小さく呟いた、行かないで、という本当の心の声は、新しく吹いてきた風に乗って何処かへ消えて行きました。
お母さんタンポポが、もう一度見上げた空はいつもより、少しだけ眩しくて、キラキラと輝いていました。
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