風吹けば恋

#平成最後の夏 #平成最後の夏 #平成最後の夏 #平成最後の夏 なんて一種の脅迫だ。もはや、プレッシャーにさえ感じている。#平成最後の夏 がどうした。何が#平成最後の夏 だ。そんなものただのインスタ映えではないか。どうせ来年の夏だって、新しい元号の最初の夏だから、と言ってみんな楽しむに違いない。いちいち楽しむ口実を見つけなければ、楽しむことができないのか。


私だって、そんな口実が欲しかった。あの頃は#高校最初の夏 なんて言う便利なハッシュタグはなかった。もし、そんなものがあったなら、もっと大きな声で言えただろうか。走り切れたのだろうか。


人を好きになる理由なんて、何だって良い。私はただ、好きになった。高校一年生の夏。高校最初の夏。スポーツドリンクを部室に忘れた私は、部活開始時間ギリギリだったが、部室に取りに戻ることにした。部室は、グラウンドから少し離れた場所にあったので、私は、小走りで走っていた。前をきちんと見ていなかった私に、


「お、山崎じゃん。」

突然声をかけてきたのは、同じクラスの浅野くんだった。


「今から部活?頑張れよ!」

と言いながらヒラヒラと右手を振っていた。


もう一度言う。何度だって言おう。人が恋をする理由なんて、何だって良い。その時の浅野くんの「声」を好きになったのか、「笑顔」を好きになったのか、「右手」だったのか。高校最初の夏だったからなのか。もう、今では覚えていないし、きっと、あの頃もわからなかっただろう。ただ、浅野くんを、あの瞬間に好きになったことだけは覚えている。膝を固定している糸が切れたような感覚だった。ぼーっとしていたら、膝から崩れてしまいそうだった。いや、片膝くらいは地面に付いていたかもしれない。そのあと、どんな会話をしたのか、部活に間に合ったのかどうかは、全く覚えていない。


人は、恋をすると綺麗になる。と言う話をよく耳にするが、実際は少しだけ違う。人は、恋をすると綺麗になりたくなる、みたいだ。と言うより、綺麗だと思ってもらいたくなる、らしい。もっと言うと、浅野くんにさえ、綺麗だと思ってもらえたら、あとはどうだって良い。大げさに聞こえるかもしれないが、大真面目に思っているのだから、笑えてくる。それくらい好きだった。スカートの腰の部分を一回だけ折ってみたり、ほんのりピンク色がつくリップクリームを買ってみたりした。授業中だって、可愛らしく頬杖をついてみた。何だか、浅野くんがずっと私を見ているような気がしていたから。


気がつけば、私の目は浅野くんを探していた。何となく、本当に何となくだけど、どんなに人がたくさんいても、浅野くんがいると、すぐにわかった。ふとした瞬間に目が合いそうになると、すっとそらしてしまう。何でもないよ、とそっぽを向く顔がとても上手になった。無駄な特技である。


そんな私にだって、楽しみはあった。週に一度だけ、化学室での授業がある。どうしてだったか理由は忘れてしまったが、この移動教室だけ、浅野くんと二人だった。木曜日の五限目と六限目の間の十分間。この十分のためだけに、私は生きていた。過言ではなかった。手も、肩も、少しだけ短くしたスカートだって触れない絶妙な距離をとって歩く私たち。私たちの隙間にはいつも、同じような風が吹いていた。校舎の窓から吹いてくる風に乗って、シャンプーなのか、柔軟剤なのかはわからないが「浅野くんの匂い」が私の鼻をかすめる。上がる口角を必死に下げる、そんな時間だった。


いつの間にか、メールアドレスを交換して、いつの間にか、宿題を教えてもらって、いつの間にか、移動教室を一緒にするようになって、でも、いつの間にか、浅野くんに彼女ができていた。いつの間にか「ベストフレンド」に昇格だ。ただ、私にそんなことは関係なかった。ただひたすらに、浅野くんを好きだった。好きで、好きで、たまらなく大好きだった。だから、もっと走ればよかった。


「行こうぜ」

五限目のチャイムがなって、私たちは化学室へ向かう。


「ねえ、浅野くん、好きなんだけど」

冗談半分に、喉の先っぽで、試しに言ってみた。聞こえちゃったかな?


聞こえるな。聞こえてろ。聞こえるな。聞こえてろ。聞こえるな。聞こえてろ。聞こえるな。聞こえてろ。聞こえてろ。聞こえてろ。



「ん?何か言った?」

私たちのいつも通りの隙間を、涼しい風が走った。


「何にも言ってない!行こ!」


#高校最初の夏 だったら、もっと大きな声で言えたのかな。走り切れたのかな。でも結局、高校最初の夏も、平成最後の夏も、二度と訪れない最初で最後の一度きりの夏だった。理由なんかいらなかった。ただ、好きなものに向かって走ればよかった。ハッシュタグなんか、私にはいらない。そんなものに頼る夏は、暑くない。走り切れなかったけど、あの頃の私の夏は、確かに暑かった。

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