浪漫飛行


 朝の通勤ラッシュを避け、少し遅い電車で職場に向かう乾は、やり手の週刊誌カメラマンだ。今の仕事には十分満足している。週刊誌界隈では誰もが一度は名前を聞いたことがあるくらいには有名だ。年収だって、一般サラリーマンと比べればかなりの額をもらっているはずである。結果を出せば文句を言われない業界なので、こんな風に遅い時間に電車で座って通勤だってできる。ぎゅうぎゅうの満員電車で痴漢呼ばわりされる心配もない。最高の仕事である。


 会社がどこからか仕入れて来た芸能人のスキャンダルねたを写真に残して世間を騒がせる仕事。正直、気持ちがいい。自分の撮った写真が民放で流れて、昼間のワイドショーでは芸能人がああだこうだと議論する。明日は我が身であることも知らずに。週刊誌としても、スキャンダルを公表するタイミングってものがある。


 波に乗っている芸能人を叩くのが美味しい。だから、スキャンダル写真取得済みのタレントがコメントしているのを見るのが面白くて仕方がない。もう少し売れたら次はお前の番だぞ、と。こんな仕事をしていると性格がひん曲がってしまったことはもう隠しきれない。ただ、乾は時々、本当にこれでいいのか、と自問している。


 ハタチの頃に思い描いていた自分は、自分の写真で人を不幸のどん底に突き落として大金を稼ぐような人間だっただろうか。そんなことがふとした瞬間に脳裏を過ぎる。でも、まあ、そういう類の疑問は、給料明細を見ると、何処かへ姿を消してしまう。

 

 そんな乾にだってもう20年近く前になるが、心を踊らせ、胸を熱くした夜もあった。ハタチの頃、友人である平野と下宿先の近くの大衆居酒屋で、二人の将来について夜な夜な語り合っては、酔い潰れていたことを思い出す。


 乾は、人の心を何か動かす魔法使いみたいな素敵な写真家になるんだ、と。一方平野は、プロボクサーになって日本一になってやるんだ、と言っていた。輝かしいことに、そんな平野の夢はとっくに叶って、今ではWBA世界ランキングトップの常連選手となっている。


 もう、頻繁に連絡を取る間柄ではなくなってしまったが、乾にとって平野は昔の気持ちを思い出させてくれる唯一の存在だ。また、平野も、雑誌のインタビューでは乾との思い出話を語っていたりする。まぁ、こんな思い出だって、次の給料日にはどうでもよくなってしまうのが、今の乾である。

 

 みんなより数時間遅れの出社をした乾を、編集長がこっそり呼んだ。これはビッグスキャンダルを掴んだな、と乾は勘ぐる。でもよくこんなに毎日毎日ねたが転がり込んでくるよ。日本の芸能界はどうなってんだよ。なんて心では毒を吐きながらも、相手が大物であればあるほど、金になるということを知っている乾は口角が上がってしまうのを隠すのに必死なのである。


 しかし、編集長の話に乾は愕然とした。ビッグスキャンダルという予想は大当たりだったが、そのビッグが平野だった。いや、どちらかというと、相手の女の方がビッグなのか。最近はやりのモデルだった。いわゆるダブル不倫とかいう例のあれだ。


 あくまでも、ネタの段階だからまだ確定ではない、と心では唱えつつも、うちの会社が掴んでくるネタにハズレはない、ということを一番よくわかっているのは乾である。じゃあ、あとは頼んだよ、と発破をかけられた乾は、取り敢えず取材という名目で会社を後にした。

 

 乾は葛藤していた。正直、編集長の話が本当なら、大スクープである。うまく写真が撮れれば、乾の名前は日本中に広まる。大出世のチャンスである。それにしては相手が悪すぎる。昔からの夢を叶えた平野の人生をぶち壊すことになると考えると、やるせない気持ちになる。そんな自分とは裏腹に、出世を望む自分もいる。


 自分が降りれば、違う誰かが写真を撮って翌日のワイドショーは独占だ。正直、それは悔しい。だからと言って旧友を売るような真似はしたくない。でも、やっぱり人間は自分が可愛いものなんだな。結局、平野のマンションの前でカメラを構えて待った。


 人生、タイミングが悪い。1時間もしないうちに、平野とモデルの女が手を繋いで出てくる現場に遭遇してしまった。乾は慌ててレンズを二人に向け、ファインダーを覗く。平野の楽しそうな顔がはっきり見える。もう言い訳できない表情である。


 シャッターを切ろうとした瞬間に、昔の大衆居酒屋のあの夜たちがフラッシュバックしてきた。絶対にお互いの夢、叶えような、と目を輝かせたあの夜のことを。俺の、本当の夢ってなんだったっけ。乾は自問する。平野を地獄に突き落とすことだっけ。違う。人を幸せにする魔法の写真を撮ることだ。シャッターは切れなかった。


 週刊誌カメラマンとしては御法度。何かよくわからないが、踏ん切りがついた乾は、会社でもらったカメラを地面にそっと置き、仕事用のトランクだけ持って、二人に背中を向けて歩き出した。


 いつか、平野みたいに俺は俺の夢を叶えるんだ、その時、お前の罪はきっちりスクープにしてやる、と。身軽になった乾は、魔法の写真を撮るための景色を探していた。


 会社に辞めることを告げるのを忘れていて、危うく捜索願を出されそうになったのは、遠い未来の話ではない。無くしたカメラの購入費が給料から天引きされていた事実を知るのはもう少し後のこと。


一部引用

米米CLUB. (1987). 浪漫飛行. CBSソニーレコード



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る