悪い癖



 テーブルを挟んだ僕たちの間に、心地よい沈黙が流れている。流れるアイリッシュ音楽だけが僕の耳を揺らし、コーヒーの香ばしい香りが空気をふわふわと染めている。彼女の由紀は何も喋らずに、テーブルの横にある小さな丸い窓から、行き交う車を眺めている。


 付き合って四年になる僕たちは、少ない休日をカフェで過ごすことが多い。どこか遠くへデートに行くには時間があまりにも足りない。都内のテレビ局でアシスタントディレクターとして働く僕には、休日どころか、睡眠時間さえ満足に確保できていない。だから、こうして由紀と過ごす二人の時間は、僕にとって何よりの幸せなのだ。


「無理しなくて大丈夫だからね。会える時に会えたらいいんだからね。」


彼女の口癖だ。僕に会うたびに、そんな声をかけてくれる。そう言いながらいつも、少し目を細めて窓の外を見る。今日もいつも通りの台詞を吐いた。ほんのりと寂しそうに見えるその表情が美しい。窓から差し込む太陽で由紀の瞼がキラキラと光っている。いつにも増して瞳が潤んでいるように見えた。


 そんな由紀の表情をぼんやりと眺めながら、僕はあれこれと考えを巡らせる。これから、僕たちはどうなって行くのだろうか。結婚するのだろうか。結婚、か。結婚という二文字が僕のお腹にズドン、と響いた。


 以前、本屋で待ち合わせした時に、少し早くついていた由紀が、結婚関係の雑誌を読んでいたのを見た。僕は見ないフリをして「着いたよ」とメッセージを送った。


「私たちそろそろさ・・」枕元で彼女が呟いたことも知っている。僕は、聞こえないフリをして、わざとらしく寝息を立てた。僕はもうずっと前から気づいていた。気付いていて気付かないフリをした。

 

 勇気がなかった。仕事と結婚、両方うまくやっていける自信がなかった。由紀に対する責任を負う度量もなかった。口約束だけでない、法的な契約を結ぶ決断力がなかった。まだ暫くはこのままの関係でいたい。だから、ずっと考えないフリをしてきた。


 いつの間にか、自分の指を見つめながら考えていた。ふと顔をあげると、ついさっきまで、ガラス越しに外の景色を見つめていた由紀の瞳がゆらゆらと揺れていた。目尻いっぱいいっぱいに溜まった、まるで小さな硝子玉のような雫が、彼女の透き通るような真っ白な頰を伝う。


 パリン


 彼女から溢れてくる硝子玉が次々に音を立てて割れて行く。小さな破片となった硝子たちが、僕にチクチクと突き刺さった。由紀の我慢の欠片だった。ポロポロと、数え切れない無数の小さな我慢の欠片が、由紀の頰をとめどなく流れている。僕は、自分の指を見つめた。見ていない、フリ。


 どれくらい経っただろうか。コーヒーは、もう白い息を吐いていない。テーブルの上に散らかっている硝子の破片は、もう修復できない程、バラバラになっていた。全ての硝子玉を流し切った由紀の口が開いた。


「−−−−−−」


僕は、冷め切ったコーヒーを流し込んだ。聞こえない、フリ。


僕の、悪い癖。


一部引用

My Hair is Bad. (2015). 悪い癖. EMI Records

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