愛妻家の朝食



午後7時30分

 ごめん、上司との飲み会で遅くなる


午後7時31分

 了解しました。待っています


午前0時22分

 ごめん、朝まで付き合わなくちゃいけなくなった


午前0時23分

 それはご苦労様です。待っています


午前0時25分

「奥さん大丈夫なの?」


「問題ないよ。早く行こう、寒いでしょう。」


 寒空の下、咥えていたタバコの火を足で踏み消した。わざとらしく奥まった自動ドアを通り抜け、光っているパネルのボタンを押した。202号室と書かれた紙をポケットにしまい、隣にいる女性をエレベータへとエスコートする。


-------------------


午前6時42分 

「おかえりなさい。」


 やっと帰って来た。昨晩、上司との飲み会で遅くなり、結局朝まで付き合わされた夫を玄関で迎える。いつもより少し不機嫌みたい。朝帰りの日はいつも私には一瞥もくれない。一睡もしないで待っていたのに、と心に宿った憤りはぐっと堪える。朝まで上司の相手をしなければならないなんて、優介さんも大変なんだから、寂しさくらい我慢しなくてはね。私って良い奥さん、なんて思いながらバッグを受け取る。


 私をおいてリビングへ行こうとする優介さんからタバコの匂いがした。優介さん、タバコなんて吸わないのに、また上司の煙で嫌な思いをしていたのね、かわいそうに。お昼のワイドショーで見たわ、副流煙の方が害が大きいんですって。あんまりタバコを吸う人ばかりの飲み会には行って欲しくないわ。お仕事だから仕方がないのだけれど。


 追いかけてリビングへ入る。朝まで飲み会だった割には、優介さんからは、あまりお酒の匂いがしない。皺のない綺麗なスーツを受け取る。失礼がないようにあまり飲みすぎないで上司の相手をする優介さんや、お店の壁に丁寧にかけられたスーツを想像して、ふと笑みがこぼれる。一言も喋らない、かなりお疲れの優介さんはシャワーへ行ってしまった。

 

午前6時52分

 預かったスーツに消臭スプレーをかけ、クローゼットにしまおうとした時、ポケットにハンカチが入ったままのことに気がつく。いけない、忘れるところだった。ポケットからハンカチを取り出したら、一緒に小さな紙が落ちた。慌てて紙を拾う。心臓がドクンと跳ねた。全身の穴という穴が開くような感覚に陥る。202号室の書かれたその紙にはきっちり昨日の日付と時間が印字されている。


これは、一体どういうことなの。


午前6時55分

 シャワーを浴びている優介さんのシルエットがぼんやりとドアに映っている。脱衣所で携帯電話を探した。優介さんはお風呂の間、携帯電話はバスタオルとバスタオルの間に隠すのよね。知っているのよ。てっきり湿気で壊れてしまってはいけないからだと思っていたのに。見付け出した携帯電話のロックを解除した。私が優介さんのパスコードを知らないわけないじゃない。メールの送信履歴を無表情で確認する。私の知らないメールアドレスへのメール。好きだ、会いたい、今日のセックスが最高だった、次はいつ会える、今から地獄の家に帰る。にわかには信じがたい内容で溢れていた。私と最後にセックスをしてからは半年と十八日も経っているというのに。


 携帯電話を元の位置に戻し、脱衣所を後にした私は、キッチンへ行き、朝食の支度を始めた。


 味噌汁用に大根を切る。野菜は切っても血は出てこないのね。手も足もないお前はどこへも行けず、ただこうして調理されるのを待つしかないの。


 それは、あまりにも自然で、まるで玄関の花壇に水をやりに行くような表情だった。キッチンを出てお風呂場へ向かう手が、朝日に照らされてギラリと光る。



 もう、何もいらない。



一部引用

椎名林檎. (2001). 愛妻家の朝食. EMI Music Japan Inc.

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る