Silly
「こんなに好きになったのは絵梨華が初めてだよ。」
「絵梨華にしかこんなことしないからね。」
飽きるほど言われた言葉たち。何度聞いても心地がいい。ひと月前に、笠原さんから言われたことを思い返しては、足の付け根あたりがキュッとなる感覚に陥っている。笠原さんは職場の五つ上の先輩だ。研修時代に担当についてくれていた時からだから、かれこれ三年になるのか。私は、笠原さんのことが好きだ。きっとこれからも、ずっと好きなのだと思う。人事部で人当たりも良く、切れ長の目が特徴的な笠原さんは、年齢を問わず社内で人気者。
唐突で申し訳ないが、そんな笠原さんと私はセックスフレンドだ。所謂、セフレ。恋人や夫婦といった甘い響きの契約は結べていない。これから結ぶ予定も今の所は、ない。余談だが、不倫である。笠原さんには奥さんがいる。社内結婚だ。つまり、奥さんも私の上司である。今の私の状況を簡単にまとめると、最悪、だ。どこかの映画で見たことのあるような、絵にかいたような、泥沼の中にいる。
初めはこんなつもりではなかった。海外営業部でトップの成績を上げている笠原さんの奥さんは、月の半分近くを海外で過ごしている。そのため都内で購入した笠原ご夫妻の新築のマンションは、笠原さんが一人で住んでいると言っても過言ではない。三年前のある日、奥さんの海外出張の日に、仕事終わり遊びに来ないか、と誘われた。罪悪感は多少あったものの、私の脳内を蔓延していたアルコールも手伝い、こちらの世界の住人となった。月に一回程度、笠原さんとは甘い夜を過ごしている。甘い夜を過ごし、甘い言葉に酔いしれる。笠原さんの体温を感じるたび、ここからの出口が遠のいていくのがわかる。
昼間、自分のデスクで仕事をしていると、
「斉藤、後でおいで。」
と声をかけられた。
「絵梨華、(今日の夜仕事が終わった)後で(うちに)おいで。」
の省略形だ。
頰がほんのり染まる。同僚からは、個別で呼び出されて叱られるんじゃない、と毎回心配されるが、そんな心配は無用である。仕事が手につかない。同僚の声が聞こえない。私の視界の端で、笠原さんの口角が上がった。
私から声をかけることは許されていない。会いたくても会いたいと連絡してはいけない。笠原さんの気持ちが私に向くのを待っているしかない。
笠原さんは離婚のことは一切考えていない、そんなことわかっている。私にかける甘い言葉だって空音であることも知っている。それでも私は、永遠に騙されていたい。私たちに終焉はない。私が物分かりが良くて、頭の悪い女であり続ける限り、未来永劫、彼に酔いしれることができる。だから私は馬鹿な女を演じ続ける。
事情を知る友人は、美しすぎて畏怖さえ感じる、まるで彼岸花のような正論を並べてくる。そんな友人たちの言葉は、私に届くことなく風に攫われていく。理屈では理解できるが、心が理解しようとしない。私みたいな馬鹿な女にはそんなこと考えられない。
それでも、仕事中、笠原さんの左手が視界に入るたび、地の底に埋められたような気持ちになる。この世界から出ていく扉は目の前にあるはずなのに。鍵だって私が持っている。それなのに、鍵を握りしめたまま、なくしましたと言わんばかりに彼を求めてしまう。
結局、今日も来てしまった。笠原さんの家のインターホンを押すと、シャワーを浴び、ワックスが取れてふわふわになった髪の笠原さんが出て来た。私は次々と湧いてくる感情がこぼれないように、唇をキュッと噛んだ。
好き。好き。好きだ。たまらなく好きだ。こんなに好きなのに。どうぞ、と中に入れてくれる笠原さんの左手に引っかかっているものが眩しい。あまりの眩しさに目を逸らす。外し忘れていたことに気がついた笠原さんは、何気ない仕草でそっと抜いて、玄関の棚の上に置いた。そんな仕草ひとつにさえ心を奪われてしまう。
行き場のなくなった私の心が呻き声を上げた。濁った私だけが聞こえる声は、激しい雨音でかき消される。さっきまで握っていたはずの扉の鍵も濁流に呑まれて何処かへ行ってしまった。
一部引用
家入レオ. (2014). Silly. ビクターエンタテインメント
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