君の背中はまだ見えない

まな

恋いしくて

 こいつの名前なんだっけ。裸で隣に横たわる女の名前がわからない。性欲を満たし、ベッドの端に座って、最近お気に入りのウィンストンの8ミリに火をつける。美嘉と数年前に別れてから、ずっとこんな感じだ。手当たり次第に綺麗な女をその気にさせては、恨みを買っている。別に恨まれたって構わない。また次を探せばいいだけの話だ。


 数年前、美嘉を振ったのは俺だ。駆け出しのプログラマーとして働いていた俺にとって、美嘉の存在が徐々に鬱陶しくなってきていた。寝食を惜しんで仕事に打ち込んでいたのに、会いたいだとか、寂しいだとか、うるさかった。美嘉のせいで仕事が上手くいかなくなっていった。そんな俺の苛立ちと美嘉の我慢の限界が同じタイミングで訪れ、俺が別れを告げると、美嘉はあっさり承諾した。呆気なかった。そこからは仕事、仕事の毎日。現在はそこそこ腕のある有名プログラマーになっている。


 今日も仕事だった。今回の案件はあまり乗り気でない。正直、断ろうかとも思っている。時間がない。俺ならもっといい案件が取れるのに、こんな誰でもできる仕事なんてしたくない。なんて考えながら職場を後にし、適当なクラブに入り、今夜の相手を探した。誰でもいい。適当にその辺にいた女に声をかけ、ここへ連れてきた。どうやったら毎回違う女を引っ掛けられるんだよ、と同僚から聞かれるが、逆にどうしたら逃げられるのかを順序立てて俺に説明してほしい。名前は最初の方に聞いたはずだったが、そんなものは興味の範疇ではないので忘れてしまった。

 

 ホテルに来たのは一時間ほど前のこと。俺は性欲を満たす。満たされるのは一時的な性欲だけで、後には何も残らないことを俺は知っている。いずれやってくる虚無感。わかっているがやめられない。何度も絶頂を迎え、興奮している女を嘲笑うが、本当に嗤笑されるべきなのは俺自身だ。事を終え、息を切らしている女を横目に、俺はベッドの端でタバコを吸う。二本吸い終えたら、女をタクシーに乗せ、家に帰る。いつものことだ。


 今日もそのまま終わるはずだったのに、俺が二本目のタバコに火をつけた時、さっきまでぐったりしていた女が、ベッドの上で足をパタパタさせながら、うつ伏せで携帯ゲームを始めた。


 全く一緒だった。



「美嘉、セックスした後くらいゲームなんかすんなよ。」

「りょうちゃんだって私に背を向けてタバコを吸うじゃない。」



 数年前、何度も何度も繰り返した会話が突如として思い出される。女の仕草と美嘉の癖があまりにも酷似していて、あまりに鮮明で。目の前にいるのが、美嘉なのではないかと錯覚してしまう。美嘉はこんな髪型ではなかったはずなのに。長くてふわっとした栗色の綺麗な髪だった。なのに。美嘉がそこにいるような。美嘉との様々な思い出が途端にフラッシュバックしてくる。


「美嘉・・・。」


気付いた時には美嘉の名前を口走っていた。


「ん?」

何か言った?と、女は問いかけてくる。


「美嘉、美嘉。」


 俺は女の背中にそっと触れる。もうだめだった。普通ではいられなかった。さっき終わったばかりなのに、めちゃくちゃに女を抱いた。美嘉を好きだったあの頃の気持ちが、倒れた牛乳瓶みたいに溢れてくる。どうしてあの時、別れる選択をしてしまったんだろう。後悔の念が押し寄せてくる。ずっと心の奥で冷凍保存していた気持ちなのに、急速解凍を始めた。もう、止められない。


 夢を叶えたのに、なんだか満たされなかった俺のこれまでの気持ちのわけが漸くわかった。雨は止んでいるのに、空は分厚い雲で覆われているような、そんな感覚。名前もわからない女を、激しく抱いて、苦しいくらいにきつく抱きしめてホテルを後にした。


 俯きながら帰路につく俺は、別れた頃のことを思い出していた。あの時、自分のことで精一杯で、美嘉のことまで考えられる余裕なんてなかった。夢を追いかけている俺をずっと好きでいてくれていると思っていた。いや、きっと美嘉は、好きでいてくれていた。それなのに、俺は。仕事が上手くいかないことも、美嘉のことを思ってあげられないことも、全部全部、美嘉のせいにしていた。誰かのせいにするのは楽だった。自分のことは棚に上げて自分を正しいと思い込むことが心地よかった。今回の案件もそうだ。時間がない、なんてただの言い訳だ。それを悪いのは相手先だ、なんて。責任転嫁も甚だしい。俺はいつだって人のせいにして生きてきた。

 

 どうしてあの時…。別れた理由を何度もなんども頭の中で繰り返す。俺自身の無責任な感情に押しつぶされそうだ。もう心が一人で立っていられない。ポケットからタバコを取り出すと、空っぽだった。


「このタイミングかよ」


自嘲めいた口調で呟く。コンビニに立ち寄り、美嘉と別れてから一度も吸っていなかった赤のマルボロを買ってみた。懐かしい匂いと気持ち。


「美嘉・・・。」


返事なんか来るわけがないのに、冷たい夜空に向かって名前を呼んでみた。

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